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恵庭の「三角点」探訪(恵み野編)

2016-05-08 14:22:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「山の頂きには測量の基準点となる柱石が埋められていて,三角点と呼ぶ」

子供の頃に聞いた祖父の話が頭の片隅に残っていて,「三角点」という言葉を聞くといつも山頂を連想する。確かに,三角点は見晴らしの良い場所に設置されるため高山の山頂付近に設置される場合が多い。北海道でも,利尻山,硫黄山,天塩岳,旭岳,トムラウシ山,富良野岳,夕張岳,札内岳,暑寒別岳,後方羊蹄山など名だたる山の頂上(付近)に三角点がある。恵庭の近くでも,恵庭岳,紋別岳,樽前山,馬追山などにも三角点が設置されている。

国土地理院によれば,一等三角点(約40km間隔,全国に約1,000点),二等三角点(約8km間隔,全国に約5,000点),三等三角点(約4km間隔,全国に約3万2,000点),四等三角点(約2km間隔,6万9,000点)が設置されており,地籍調査など測量の基準点となるのは四等三角点だという。

さすれば,当然のことながら三角点が市街地にもあることになる。一等三角点を山頂に持つ山の踏破を目指す登山愛好者も多いと聞くが,散歩のついでに市街地の三角点を探してみるのも面白いではないか。

今回は「恵庭の三角点探訪(恵み野編)」。恵み野界隈には「四等三角点」が3点存在する。さあ,何処にある?

恵み野中央公園の三角点

恵み野中央公園は,恵庭市恵み野の市街を斜めに横断する形で造られている。市民憩いの公園で,日中は散歩する人々の姿が絶えない。公園の中ほどに日本庭園風の池があり,その奥に小高い築山が見える。恵庭市立図書館駐車場脇にある小山と言ったほうが分かり易いかもしれない。冬には子供らが橇遊びをしている場所だ。

この小山頂上に三角点が埋められていることを知る人は少ないだろう。三角点の柱石は遠くから認識できない。近づいてみると,写真のような鉄製の丸い標識(蓋)が芝生面にあり,ここに三角点があることが分かる。その蓋には日本地図と「三角点,基本,国土交通省国土地理院」の文字が刻まれている。

  

 

恵庭開拓記念公園の三角点

恵庭開拓記念公園は恵み野市街の東端に位置する1haほどの緑豊かな公園である。道の駅「花ロード恵庭」から松園通りを北東方向に進めば,北海道道600号島松千歳線に交差する。記念公園は交差点の島松側にある。或いは,恵み野中央公園を散策がてらに訪れるのであれば,小川の流れに沿って進み,公園の散策路が切れる地点で道道600号線を渡り(恵み野7丁目信号),さらに北緑地帯の散策路を進んだ突き当りに恵庭市郷土資料館,恵庭開拓記念公園が現れる。

開拓記念公園には恵庭市郷土資料館や近畿大学バイオコークス研究所が隣接しており,恵庭開拓記念像「拓望」,廃校になった松園校門柱,同校跡地記念碑,二宮尊徳像,富山県人開拓の碑などが設置されている。

三角点は,この公園の南東の角近く,富山県人開拓の碑の北東側にある。近くには「三角点,国土地理院」と記された角柱標識があるので発見することが出来るだろう。三角点を覆う鉄製の蓋が芝生の面にあり,中には柱石が埋められている。四等三角点の柱石は,一辺が12cmの花崗岩で上面に十字が刻まれている。

  

 

北海道電力島松変電所の角にある三角点

恵庭開拓記念公園の三角点を確認したら,道道600号島松千歳線に沿って島松方向に向かってみよう。進行方向左側は恵み野市街,右側には畑地が広がっている。しばらく進むと,道道600号の恵み野北7丁目信号(恵み野団地環状線との交差点)が見えてくる。ここは恵み野市街の北端に位置する地点である。

交差点の島松側(恵み野市街地にある島松共同用水紀念碑の筋向い)には,数本の高い鉄塔や大きなトランスがおかれた施設,北海道電力島松変電所がある。この角の草叢に三角点を見つけることが出来る。三角点を示す標識(文字は消えている)は残っているが,三角点を保護する天蓋はなく,柱石が頭を出している。花崗岩の柱石の頭には三角点の基準となる十字の切り込みが刻されているので,三角点であることが確認できる。測量関係者が残したのだろうか,赤い布切れのついた棒が近くに立てられている。

 

三角測量

三角点は三角測量の基準点であると述べた。

では,三角測量とは「互いに見通せる地上の三点を選んで三角形を作り,その一片の長さ及び夾角を測定して,三角法により他の二辺の長さや頂点の位置を求める測量法(デジタル大辞典)」と定義される。わが国の三角測量は,明治4年(1871)工部省測量司がイギリス人マクヴインの指導を受けて東京府下で実施したのが最初とされる。その後,測量は陸軍省参謀本部測量局管轄となり,全国を網羅する測量が進められ三角点も設置された。第二次世界大戦後,管轄は内務省地理調査所(後の国土地理院)に引き継がれている。

更に,平成21年(2009)には,約2万の基準点にICタグを付加した基準点の整備が行われた。このインテリジェント基準点は地殻変動の測定にも活用されている(恵庭市内のIC基準点は後述する)。

一方,近年GPSなどの測量技術が急速に進歩しているので,三角測量の機会は減少して行くのかもしれない。とは言え,三角点が土地測量の基準点として重要なことは言うまでもなく,柱石の破壊/移転など機能を損ねる行為には厳しい罰則が定められている(2年以下の懲役又は100万円以下の罰金,測量法第六十一条)。探訪観察の折には,このことを認識しておいたほうが良いだろう。


恵庭「北の零年」,開拓の先駆け「高知藩」

2015-10-06 17:07:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「歴史を訪ねる」の章

平成17年(2005)に公開された「北の零年」(行定勲監督作品)という映画がある。出演者に吉永小百合,渡辺謙,豊川悦司,柳葉敏郎,石原さとみ,寺島進,石橋蓮司,香川照之ら名優を揃え,第29回日本アカデミー賞と第23回ゴールデングロス賞に輝いた作品である。ご覧になった方も多いと思う(テレビ放映もあった)。

内容は,明治政府により徳島藩淡路島から北海道静内への移住を命じられた「稲田家」の人々の物語である。稲田家は徳島蜂須賀家の客将であったが淡路洲本城代に任命されるなど半独立状態にあり,かつ尊王を掲げる稲田家は佐幕派の蜂須賀家との間に確執が続いていた。明治4年(1871)に筆頭家老稲田邦植が蜂須賀家臣に襲われる事件(康午事変)があり,明治政府は「稲田家に北海道静内と色丹島を与える名目で移住開拓を命じる」裁断を下したのである。映画では,北海道開拓の苦労と人間模様が鮮烈に描かれ,開拓初期の北海道を感じさせる作品であった。

ちょうどこの頃,同じ四国の土佐(高知)からも,事情は違うが北海道開拓に入植した人々がいた。高知藩による北海道開拓である。土佐高知からの70余名は恵庭など千歳・勇払郡下で開拓に取り組んだが,明治政府の政策転換により僅か2年で撤退を余儀なくされてしまう。

恵庭開拓史の中では,明治19年(1886)の山口県団体移住や明治24年(1891)の加越能開耕社(北陸)が知られており,明治3年(1870)の高知藩による開拓は影が薄い。高知藩は藩を挙げて開墾に努めたが,北海道開拓は開拓使に一本化されることになり藩支配は罷免された。開拓に関わった人々は,どんな気持ちで故郷に戻ったのか。明治初頭の混乱期におけるこの歴史物語は,まさに恵庭「北の零年」と言えよう。高知藩統治は恵庭開拓の先駆けであったのだが・・・。 

 

1.高知藩による「恵庭」開拓

明治政府は蝦夷地の警備と開拓を急いだ。北方からの脅威に対処すること,明治維新後の幕藩の処遇が大きな理由であったのだろう。明治2年(1869)開拓使を置き蝦夷地開拓の任に当らせるとともに,名称を蝦夷から北海道に改めた。

同年8月には,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領し支配統治させる太政官令を発した。しかし,出願に名乗り出る藩は少なく,むしろ強制的に土地を割り当て,支配開拓を命じる状況であった。例えば,胆振地方に高知藩・一関藩・伊達邦忠ら,日高地方に仙台藩・徳島藩・増上寺ら,十勝地方に静岡藩・鹿児島藩ら,釧路根室地方に熊本藩・佐賀藩ら,網走地方に名古屋藩・広島藩・和歌山藩ら,宗谷地方に金沢藩,留萌地方に水戸藩・山口藩などが分割されている(参照:橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191)

多くの藩は様子見であったが,高知藩の動きは素早かった。高知藩は太政官令を受けると同年8月に土方理左衛門名で出願し,即8月20日には石狩国之内夕張郡,胆振国之内勇払郡・千歳郡の支配地認可を得て,同地は高知藩の支配管轄となった。その後の流れは以下のとおりである。

明治2年(1869)

7月:開拓使設置。

8月15日:「北海道」と改め,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領することにした。

8月:太政官布告を受け,高知藩の出願により同月20日夕張郡,勇払郡,千歳郡が高知藩管轄として認可される。

9月:高知藩は藩士「岸本円蔵」「北代忠吉」,従者「杉本安吾」らを調査のため派遣。

10月9日:高知藩は北海道開拓志望者募集を布告。

11月8日:岸本らは東京に戻り,高知藩東京詰「土方理左衛門」に調査結果を報告。夕張郡は山間地で調査できなかったが,勇払郡は畜産,千歳郡は農耕に適するだろうとした。更に,勇払地区海岸は遠浅のため室蘭港を支配地に要請したが,既に仙台藩に握られていたため函館に屋敷及び荷揚場を設置し,商社を設立して運営に当った。

明治3年(1870)

5月初旬:開拓者一行(70人,役員十数人と大工・人足・農夫など)は高知浦戸港を出帆。

5月7日:外国船で横浜を出港。

6月上旬:函館に上陸,地蔵町の高知藩借用屋敷に落ち着く。勇払,千歳郡各地へは当面出向(出張)の形で開拓を進め,数年後に家族を移住させることを考えていた。勇払郡内ではコエトイ,ユウフツ,アツマ,ウエンナイに,千歳郡ではチトセ(現千歳市),イサリ(現恵庭市),モイサリ(現恵庭市),イサリフト(現恵庭市)に開墾所を置いた。

9月13-14日:米沢藩士「宮島 幹」が高知藩支配所(千歳郡)を訪れた際の日誌(北行日記)が残されており,この記録から当時の状況を垣間見ることが出来る。例えば「十三日 晴・・・漸く島松に至る。川あり,十四,五間馬にて渡る,渡れば是より東,胆振国千歳郡高知藩支配所なり・・・当初(千歳)は高知藩支配地にて,諸役人八人其外大工,人足,農民共凡五十人斗出張の由・・・」,更に宮島が岩井源九郎から聞いた話として「同十四日 快晴厳霜 千歳より五里斗北の方イサリフトへ三千坪(約1ha)程開拓しに,七月十五日の水にあい,開拓小屋迄も尽く流れし・・・六月中大野村より稲苗申受三ヶ所植付候処一ヶ所は水難にて不用立,弐ヶ所は砂地にて水持宜しからず,壱丈程の車を補理使付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。実地は奥物不用立に付,国元にて二作物の早稲を以て植付候て必実るべくとの事なり。此度引連れ来りし農夫は,国元にて最上力田の民を引き連れしと云う・・・」等である(引用:恵庭市史262p,千歳市史123p)。

明治4年(1871)

7月:廃藩置県

8月:高知藩支配地罷免,地所は全て開拓使に引き渡される。

明治5年(1872)

5月1日:引き継ぎ完了。高知県勇払出張岸本円蔵は,開拓使に引き渡すべき仕込品の代金千二百九十一両二分を出張中の費用にあて,開拓使から旅費三千両を借用して農民らの帰国費用に当てている。

高知藩開拓団は食糧や農具・家具一式を持ち込み,千歳郡下で開墾したのは7町8畝15歩(千歳本陣許5町6反2畝12歩,イサリフト番屋附7反歩,シュママップ昼所7反6畝3歩)であった。穀類や野菜の種子も持参し栽培を試みたと考えられるが,「蕎麦」「水稲」以外の記録はない。高知藩は北海道開拓に熱意を持って取り組み5万両もの大金を支出したが,開拓はこの地で結実しなかった。

何故これほどまでに高知藩は熱心だったのか? 山内容堂の見識と坂本竜馬「蝦夷地開拓論」の影響があったのかも知れない。 

 

2.坂本竜馬の蝦夷地開拓論

坂本竜馬は慶応3年(1867)3月同志印藤聿宛ての手紙で,「小弟ハエゾに渡らんとせし頃より,新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間,何卒一人でなりともやり付申しべくと存居申し候・・・」と書いている。大政奉還で武士が職を失うことを予想して,その力を北海道開拓に活かすことを考えていたのである(いわゆる,竜馬の蝦夷開拓論)。この構想は後に,西郷隆盛,黒田清隆らによって「屯田兵制度」として実現する。

その他にも,竜馬の思いを具現化するように,高知から北海道開拓に向かった人々がいた。代表的な開拓団は,浦臼の「聖園農場」と北見の「北光社」である。前者は明治26年(1893)高知の自由民権運動家でキリスト教徒の武市安哉(当時国会議員)に率いられて入植した団体であり,後者は明治28年(1895)坂本竜馬の甥「坂本直寛」(旧名,高松南海男)等が中心になって設立した合資会社(移民団体)である。この両団体は,キリスト教精神に基づく理想主義的農村共同体を目指していた。両団体は浦臼や北見の開拓に多大な貢献をしたが,詳細については別の機会に譲ろう。

その他にも,開拓判官岩村理俊,札幌農学校第一期生の黒岩四方之進・内田瀞・田内捨六,開拓会社「開進社」(共和町)の宮崎簡亮,「男爵」薯の川田龍吉,コタンの父と呼ばれる徳弘正輝など土佐出身者と北海道の開拓は深い繋がりがあるが,此処では触れない。 

恵庭の現在の繁栄を享受するとき,語られることの少ない歴史物語,高知藩開拓悲話を忘れる訳にはいかない。

参照: 1)恵庭市1979:「恵庭市史」,2)千歳市1969:「千歳市史」(更科源蔵編集),3)苫小牧市1975:「苫小牧市史」(高倉新一郎ほか監修),4)岡林清水「土佐と北海道」土佐史談191,5)橋田定男「北海道開発と高知県人及び屯田兵制度」土佐史談191


恵庭「稲作事始め」,中山久蔵より前に稲作を試みた高知藩

2015-10-04 13:25:11 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「歴史を訪ねる」の章

島松沢に「旧島松駅逓諸所」「クラーク博士記念碑」と並んで「寒地稲作この地に始まる(北海道知事町村金五書)」と刻まれた記念碑がある。碑は幅2.7m,高さ2mの白御影石製で,表面に稲穂を持つ農民と中山久蔵のレリーフ像がはめ込まれている。背面に碑文があるので紹介しよう。

「ここは 明治六年 大阪府出身 中山久蔵が最初に米作をこころみたところとして 永く記憶さるべき地である 当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方策をたてることが出来なかったが 明治四年単身率先してこの地に入植し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田1反歩を開き 種子を亀田郡大野村より求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりでなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために 附近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を築く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである 昭和三十九年九月 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎 撰文 鈴木凌雲 書」

 

碑文に示されたように,中山久蔵の稲試作成功から道央各地に稲作が広がり,彼は寒地稲作の祖と称されることになった。中山久蔵は文政11年(1828)河内国に生まれた。安政2年(1855)仙台藩に職を得てから蝦夷地警備に当たり白老と仙台を行き来していたが,明治維新を迎え明治3年(1870)北海道開拓を志し永住の決意で苫小牧に本籍を移している。そして,明治4年(1871)農業に適する土地を求めて島松に辿りつき開墾に着手し,2年間で数町歩の畑を拓き雑穀などを栽培していたが,明治6年(1873)水田50坪を拓き,大野村から「赤毛」の種籾を購入して栽培を試み,秋には反当2.3石(345kg/10a)の米を収穫した。これが道央地域における最初の稲作成功例であった(なお,明治7~34年の試作記録が残されているが平均反収は1.9石)。その後,明治12年(1879)には種籾100俵を無償で有志に分譲し,稲作の指導に努めた。更に,明治17年(1884)島松駅逓所の4代目取扱人となり明治30年まで勤め,村の総代としても地域振興に尽力した(大安寺や洞門小学校用地寄進など開基・開校にも名を留める)。

即ち,中山久蔵が島松沢で水稲「赤毛」の栽培に成功した明治6年(1873)が,この地の稲作栽培の嚆矢とされている。

ところが,これより以前に恵庭周辺で稲作が試みられた記録がある。 

 

1.高知藩による稲作の試み

遡ること3年,それは明治3年(1870)のことであった。米沢藩士「宮島 幹」が高知藩支配所(千歳郡)を訪れた際の日誌(北行日記,旧暦明治3年9月14日)にその記述がある。岩井源九郎から聞いた話として記されている。一部を引用しよう。

「六月中大野村より稲苗申受三ヶ所植付候処一ヶ所は水難にて不用立,弐ヶ所は砂地にて水持宜しからず,壱丈程の車を補理使付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。実地は奥物不用立に付,国元にて二作物の早稲を以て植付候て必実るべくとの事なり。此度引連れ来りし農夫は,国元にて最上力田の民を引き連れしと云う・・・」(引用:恵庭市史262p,千歳市史123p)

即ち,大野村から稲苗を取り寄せ3か所に植え,1か所は水害にあったが他の2か所は水車を作り用水を施したところ,穂先も垂れ良い稔りである。ここでは晩生種は無理だが,国元から二毛作用の早生種を取り寄せれば必ず稔るだろう,と語っている。

この稲作が一年限りで頓挫したのは,明治4年(1871)の廃藩置県令により,各藩の支配地が明治政府に引き渡され,高知藩移民が全員この地を離れたことによる。高知藩は,農耕のための開拓移民七十余人を送り(2,000人の計画があった),開拓費用も五万両余を支出するなど,他藩に比べ極めて積極的に取り組んでいたので,高知藩支配が続けば稲作はこの地で花開いたのではないかと推察できる。

高知藩支配の経緯を整理しておこう。

明治2年(1869)

7月:開拓使設置。

8月15日:「北海道」と改め,北海道に11か国86郡を置き,開拓使が直轄する20郡以外を諸藩に分領することにした。

8月:太政官布告を受け,高知藩の出願により同月20日夕張郡,勇払郡,千歳郡が高知藩管轄として認可された。

9月:高知藩は藩士「岸本円蔵」「北代忠吉」,従者「杉本安吾」らを調査のため派遣。岸本らは11月8日東京に戻り,高知藩東京詰「土方理左衛門」に調査結果を報告。夕張郡は山間地で調査できなかったが,勇払郡は畜産,千歳郡は農耕に適するだろうとした。更に,勇払地区海岸は遠浅のため室蘭港を支配地に要請したが,既に仙台藩に握られていたため函館に屋敷及び荷揚場を設置し,商社を設立して運営に当った。

10月9日:高知藩は北海道開拓志望者募集を布告。

明治3年(1870)

5月初旬:開拓者一行(70人,役員十数人と大工・人足・農夫など)は高知浦戸港を出帆。同月7日外国船で横浜を出港。

6月上旬:函館に上陸,地蔵町の高知藩借用屋敷に落ち着く。勇払,千歳郡各地へは当面出向(出張)の形で開拓を進め,数年後に家族を移住させることを考えていた。勇払郡内ではコエトイ,ユウフツ,アツマ,ウエンナイに,千歳郡ではチトセ(現千歳市),イサリ(現恵庭市),モイサリ(現恵庭市),イサリフト(現恵庭市)に開墾所を置いた。

明治4年(1871)

7月:廃藩置県

8月:高知藩支配地罷免,地所は全て開拓使に引き渡される。

明治5年(1872)

5月1日:引き継ぎ完了。

高知藩が開拓に関わった管轄支配は僅か2年(実質的には一作期と言えよう),千歳郡下で開墾したのは7町8畝15歩(千歳本陣許5町6反2畝12歩,イサリフト番屋附7反歩,シュママップ昼所7反6畝3歩)であった。高知藩は坂本竜馬の「蝦夷地開拓論」の影響があったためか開拓に熱心であったが,他藩は必ずしも積極的でなく成果も収められなかった。開拓次官黒田清隆はこの状況を視察し,諸藩分治の方策を僅か2年で転換し北海道開拓を開拓使の手に一本化してしまう。

高知藩の北海道開拓は緒についたところで終結せざるを得なかった。

 

2.大野村文月,高知藩,中山久蔵を結ぶ糸

北海道における稲作の始まりは,元禄5年(1692)とされる。大野村文月(現北斗市,元大野町)にある「北海道水田発祥の地」碑文及び北斗市教育委員会が設置した説明板から,次の点が明らかである。①元禄五年南部の野田村から移ってきた農民作右衛門が四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した,②作右衛門の水田は2・3年で廃止され,その後は成功失敗を繰り返し,嘉永3年(1850)大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末成功すると近隣の村にも広がり,安政元年(1854)以降稲作が安定した。そして,道南には安政2年(1855)に117町歩,明治2年(1869)には232町歩の水田が存在した。

ところで,高知藩は明治3年北海道に入植するが,彼らが荷を下ろしたのは函館の藩借用屋敷であった。開墾所は先に示したように勇払・千歳郡下にあり,当地へ出張する形で開拓が進められたので,人の往来は頻繁にあったろう。高知藩の農民が大野平野に稔る二百町歩を超える水田を眺め,千歳郡下でも稲作の可能性を信じたに違いない。移住初年目の明治3年,彼らは早々に大野村から稲苗を貰い受け開墾地で試作している。

一方,中山久蔵が北海道開拓を目指して苫小牧に本籍を移したのは明治3年,高知藩が勇払・千歳郡下で開拓を始めた年である。翌年(明治4年)中山久蔵は農耕に適する地を求めて苫小牧から内陸部の島松に辿りつき,開墾に取りかかった。

高知藩の試作圃が千歳,漁,茂漁,漁太の何処にあったか定かな記録はないが,宮島幹「北行日記」にある「イサリフトへ三千坪ほど開拓セシニ,七月十五日ノ水ニアヒ開拓小屋迄モ尽ク流れシ」と「三ヶ所植付候処,一ヶ所ハ水難ニテ不用・・・」を照合すれば,試作圃の一つが漁太であったと推察される。島松沢と漁太の距離は1里半,千歳・漁・茂漁は苫小牧から島松に向かう道中にあり,島松沢と漁・茂漁までの距離は1里に過ぎない。開拓を志した中山久蔵が高知藩の開拓状況や稲の試作を伝え聞き,或いは生育を観察したとしても不思議はない。距離的にも時間的にも矛盾がない。中山久蔵が島松沢で水稲「赤毛」の栽培に成功するのは,それから3年後のことである。

大野村文月,高知藩,中山久蔵が糸で結ばれたような気がする。高知藩水稲試作地跡が確認出来れば絵になるのだが・・・。 

参照  1)恵庭市1979:「恵庭市史」,2)千歳市1969:「千歳市史」(更科源蔵編集),3)苫小牧市1975:「苫小牧市史」(高倉新一郎ほか監修),4)北広島市2007:「北広島市史」,5)北農会農業技術コンサルテイングセンター監修2008:「記念碑にみる北海道農業の軌跡」(北海道協同組合通信社)


恵庭の碑-13,廃校の跡地に残る「松園校跡地記念碑」

2015-09-27 11:47:00 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

これまでに恵庭で廃校になった学校は,松園小学校,松鶴小学校,盤尻小中学校であろうか。各校の沿革は概略次のとおりであるが,記念碑が残されているのは松園小学校のみである。当時,まちの中心であった学校跡地も忘れ去られる運命にあるのだろうか。少子化,児童数の減少を考えると,学校の統廃合は必然の課題となっている。歴史に名前を留める試みがあってもよい

松園小学校は明治22年(1889)私立松園尋常小学校として西二線南二十二号に開校,明治30年(1897)公立恵庭小学校松園分校として現在地南島松の恵庭開拓記念公園のところに移転,明治32年(1899)分校から独立し公立松園小学校と改称,昭和46年(1971)松鶴小学校と統合し新たに松恵小学校(恵庭市中央)としてスタートするために廃校。跡地には恵庭開拓記念公園が造られ,門柱が残されている。

松鶴小学校は明治34年(1901)私立松鶴尋常小学校として漁太に開校,大正11年(1922)校舎移転(後の林田会館),昭和46年(1971)に廃校し松園小学校と統合,新たに松恵小学校としてスタートした。跡地にはグラウンドが当時の面影を残しているが校舎はなく,恵庭市公民館松鶴分館が建っている。また,跡地の片隅に「林清太郎表徳碑」がある。

盤尻小中学校は明治41年(1908)恵庭尋常小学校盤尻分教場として創設,昭和5年(1930)盤尻尋常小学校,昭和17年(1942)高等科を併置,昭和22年(1947)盤尻小学校,恵庭中学校盤尻分校と改称,昭和39年(1964)盤尻中学校を閉校し恵庭中学校へ統合,昭和40年(1965)盤尻小学校を閉校し柏小学校へ統合した。製材,発電,鉱山などで賑わった当時の面影は歴史に埋もれ,学校跡地はいま市民の森づくり事業「梅の森」(平成12年)として整備され,「盤尻小中学校跡地」の説明板が建っている。

此処では,松園校跡地記念碑を紹介しよう。

 

1.松園校跡地記念碑

恵庭開拓記念公園(恵庭市南島松)は,今はなき松園小学校の跡地を公園化したものである。公園には松園小学校の門柱と二宮金次郎幼年時の像(復元)が残され,その脇に「松園校跡地記念碑」が建立されている。碑文は以下のとおりで,松園小学校沿革と金次郎像復元の由来が記されている。

 

「松園校跡地記念碑 松園小学校の沿革

明治十九年山口県岩国地方の団体移民六十五戸 ついで同二十年同県長門の萩藩士四十五戸が 漁川沿岸地帯に集団入植し 原始の森を伐りひらき よし原を開墾し 部落草創の基礎固まり開拓緒につく。

しかれども子弟教育機関なくその必要性を痛感し 福本幸次郎氏 田中梅太郎氏 村上勝太郎氏らの尽力実り この地南島松に三十一坪の校舎を建て 萩藩士廻神美成氏を校長として 明治二十二年十二月十八日付を以て設置許可となり 私立尋常小学校を開設するに至る。

校名「松園」は萩のいだいな教育者吉田松陰先生の名前にあやかって名付けたという。

明治三十九年九月公立校となり同四十年四月村内唯一の高等科併置校となり 役場所在地の学校として 教育文化の中心的機能を持ち 名実ともに中心校として 人材の養成に当った。

時は移り世は流れ 八十二年にわたる 輝かしい歴史と共に 五千五百有余の有為な卒業生を社会に輩出し 昭和四十六年二月二十日学校統合のやむなきに至る。

復元の由来

元松園小学校の跡地が開拓記念公園となるにあたり 恵庭の開拓と共に八十有余年の歴史ある母校をしのび当時の遺跡を後世に伝えんと同窓生有志相寄り期成会を組織し復元す。

二宮尊徳先生幼児の像は 二箇年にわたり同窓生数百名の労資奉仕により 昭和十三年建設し同十七年国策にそい金属回収に応じ 代替品の硬化石像を建立したるも 風化甚だしくこれを青銅の原形に復元 併せて基礎を築造し台座は花崗岩にて再建す。

昭和五十四年八月 元松園校遺跡保存事業期成会」

なお,碑の裏面には元松園校遺跡保存事業資金寄進者氏名が卒業年次(明治35年~昭和49年)ごとに815名,更に協賛御芳名として43名の名前が刻まれた鋼板が填め込まれている。

  

  

 


恵庭の碑-12,恵庭小「開校百年の碑」と恵庭北高「拓学の碑」

2015-09-25 09:22:47 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「碑文」の章

恵庭開拓以降の歴史を振り返ってみると,既に統合廃校になった学校がいくつかあり,市街地(団地)造成で新しく開校した学校も勿論ある。恵庭には現在,小学校数が8校(恵庭,島松,柏,和光,松恵,若草,恵み野,恵み野旭),中学校が5校(恵庭,恵北,恵明,柏陽,恵み野),高校が2校(恵庭南,恵庭北)ある。

「学校には記念碑や彫像があった」記憶が脳裏を横切るが,一方,恵庭の学校はどうなのだろうと考えると首を傾けざるを得ない。あまり目にしないのだ。開拓から数えて130年に過ぎない歴史だからなのか。

今回紹介するのは,恵庭小学校「開校百年の碑」,恵庭北高等学校「拓学の碑」である。

 

1.恵庭小学校「開校百年の碑」

 

恵庭小学校は,明治20年(1887)「苫小牧曹洞宗中央説教所(現在の大安寺)」に置かれた「私立洞門小学校」を前身とする。山口県から入植した人々が,開拓の苦労の中でも先ずは子供の教育を優先せねばと開いた寺小屋が開基で,恵庭で最も古い歴史を有する。恵庭市福住町2丁目に所在し,近くには恵庭市役所,恵庭市民会館等がある。

正門を入り,校舎に向かって右側隅に櫟や櫻に囲まれて「開校百年の碑」が建っている(写真は2015.9.24撮影)。御影石に刻まれているのは,「開校百年」の文字(恵庭市長 浜垣実 書)。この碑は開校100年記念事業の一環として協賛会により建立されたもので,建立年は昭和61年(1986)のことである。

碑の裏面に刻まれた碑文を紹介しよう。

「碑文 明治二十年 本村地域総代である塩谷栄作 中山久蔵 鈴木善吉氏等により 開拓の生活 困窮といえども 村の発展は子弟の教育にありと山森丹宮氏等十四戸の寄付で 現在の大安寺境内に九坪の校舎を建設し松樹良光氏を嘱託としてその任に当らせた。これ即ち私立洞門小学校であり 恵庭小学校の創設でもある。 爾来 星霜百年 幾多の変遷を経て 町の発展と共に児童は増加の一途を辿り 不撓不屈の校風を身につけた卒業生一万百余名 市内はもとより全国各地で飛躍し活躍している。 本年 創立百年に当たり 同窓会PTA 地域住民が一体となり 先人先輩の功績を讃え 輝かしい二世紀へはばたく母校の隆盛発展を願って この記念碑を建立するものである。 昭和六十一年九月十四日 恵庭小学校開校百年記念協賛会」

恵庭小学校の沿革について詳細は省くが,恵庭市街地中央に位置する学校ゆえに,当校の歩みは市の発展と密接な関わりをもっている。即ち,明治から大正時代には,松園小学校を分場化,盤尻分教場の設置など市の中心校としての位置づけにあり,また第二次世界大戦後の昭和時代には生徒数の増加から校舎の増築が行われ,柏小学校や和光小学校の分離開校などに寄与してきた。そして平成の時代,ソフト面での充実が図られ熱意ある教育実践が進められていように思う。

当校のHPによれば,教育目標は「おもいやりのある子ども(情),がんばりぬく子ども(意),すすんでまなぶ子ども(知),たくましい子ども(体)だと言う。写真撮影に訪れた日にも,赤い運動帽の子供らは元気な声でグラウンドを走り回っていた。

この碑を建設してから既に30年が過ぎようとしている。この碑の存在を知る市民はいるだろうか,職員や同窓生はこの碑を教育にどう活かそうとしているのだろうか,子供等は恵庭の歴史をどう学んでいるのだろうか,と思った。碑傍の生け垣には,通行人の誰が投げ込んだのかゴミが捨てられていた。

数えれば,平成28年(2016)が開校130周年。来年のことである。

 

2. 北海道恵庭北高等学校「拓学の碑」

 

北海道恵庭北高等学校は,恵庭市南島松にある道立高校(全日制普通科)である。校舎は外装が白,屋根が赤の4階建て,学校の周辺には畑が広がっている。

校門を入った左側前庭に,樹木に囲まれて「拓学の碑」が建っている(写真は2015.9.21撮影)。御影石に力強い筆致で「拓学」の文字が刻まれ,植村富士雄書(校歌の作詞者でもある)とある。台座に「北海道恵庭北高等学校同窓会」とあるので,同窓会が建立したのだろう。建設年は昭和52年(1977)とあり,更に平成23年(2011)には創立60周年記念事業として改修が行われている。

碑裏面には次の文章が刻まれている。

「農村青年の活動の中に澎湃として湧き上がった高校設立への熱望は炎となって展開し

昭和二十六年六月二十八日 恵北中学校々舎の一隅に恵庭高等学校を開設させ定時制農業科が発足し働きながら志学する青少年に希望の火となった

昭和三十年三月 独立校舎が建設され生徒父母教師と村民は地域ぐるみで学校づくりを続けた

昭和三十六年四月 漁分校が恵庭南高校として独立するや恵庭北高校と改称し衆望に応えて昭和四十七年四月から普通科が新設された 昭和四十九年四月道立移管と共に農業科は募集停止となり

昭和五十一年三月 風雪に耐えて綴った二十六年の歴史を閉じた

開校への悲願とここに育った卒業生の心はこの碑を会して自覚を新たにすると共に後続の生徒の中に絶えず蘇り続けることを

昭和五十二年三月十日」 

この碑文からも分かるように,農村青年の強い拓学の精神から生まれた「恵庭高等学校」が歴史を積み重ね,昭和51年度を以て「定時制農業科」が閉じられるに当り,同窓会が「拓学の碑」を建立したものと推察される。卒業生には,この学校に対する強い思いがあったのだろう。

この「拓学」の言葉は,平成6年(1994)制定の校訓に引き継がれた。即ち,校訓は「拓学~心豊かに,真理を求めて~」とあり,先人が,雄々しく,力強く,豊かに郷土を拓いた,その不屈の精神で,一人一人が久遠の理想,真理を求め,学ぶという意味が込められていると説く。即ち,北海道漁原野開拓の苦難を偲び,太平洋戦争敗戦後の食糧難時代に働きながら志学の希望に燃えた若者の精神を「拓学」の言葉に込めている。

「拓学」の精神は,平成の世にどのように活かされているだろうか。登校する生徒諸君はこの碑の存在をどう思っているのだろう。「拓学」の精神を今に活かしているだろうか。

平成28年(2016),恵庭北高校は創立65周年を迎える。

(注)石碑は学校敷地内にあるので,来訪者は管理者の承諾を得られたい。


恵庭の古地図-2,「オサツトー(長都沼)」と「マオイトー(馬追沼)」

2015-09-18 11:29:36 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「古地図」の章

国土地理院が公開している恵庭地方最古の地図は,明治29年(1896)製版の北海道庁胆振国千歳郡「長都」(五万分の一)であろうか。

地図を広げて眺める。北西に向けて,千歳村,長都村,漁村,島松村,月寒村,そして北には長沼村が位置している。道路では,「自札幌至函館道」が現在の国道36号線に重なるように斜めに走っているのが目につく。これは,明治6年(1873)に開発された函館・札幌間新道で,「札幌本道」(明治11年太政官布告第364号)と呼ばれた道路である。北端に至札幌,南端に至苫小牧とある。その他に,千歳から岩見沢に至る里道が,大きな沼と湿地帯を避けるように馬追丘陵の裾野を回り込んで描かれている。更に,札幌本道から江別に抜ける里道が,島松村境から月寒村に少し入った山(似井別あたり)から音江別と中之澤を抜けて走っている。この里道も湿地帯を避け山裾を辿っている。その後の地図で出てくる号線道路は未だない。

目を引くのは,「オサツトー」「マオイトー」と表記される二つの大きな沼である。「オサツトー(長都沼)」は支笏から流れる河川がネシコシ原野・長都原野に滞留して出来た沼で,シュクバイ川やイヨマイ川・ヲサツ川も注いでいる。更に,「オサツトー」からはフシュコユーバロとして流れ,漁川と合流したのち千歳川となる。一方「マオイトー(馬追沼)」にはマオイ川,ケヌッチ川が注ぎ込む。両沼の周辺から漁太に至る川の両側,更には千歳川の周辺一帯は広大な湿地帯になっている。現在は豊かな農耕地になっているが,当時は未だ大方が湿原であり,低灌木の地帯であった。前述した里道は形成されつつあるものの,千歳川や漁川が当時の交通手段として重要であったことは地勢図からも理解できる。

例えば,当時の漁村及び島松村周辺の小径は,札幌本道の漁と長都沼下流のカマカを結ぶ線と,札幌本道の茂漁と漁川(南十八号付近)を結ぶものしかない。後者は札幌本道から茂漁川と漁川に沿って北側を走る,いわゆる「松園通り」とでもいえようか。いずれも,川と住居を結ぶ生活上の自然発生的な小径だったのだろう。因みに,その他の小径として確認できるのは,後に孵化場道路と呼ばれる小径のみである。

地図上に示される建造物(住居)は,漁川両岸に40数戸,札幌本道両脇に(漁村地区と島松沢)30~40戸を数えるに過ぎない。恵庭は開拓が始まったばかりの時代である。恵庭市史によれば,明治19年(1886)に山口県和木地方から40戸が漁川の沿岸に入植,明治20年(1887)には萩藩士49戸,明治26年(1893)には加越能開耕社移民100戸余が漁川沿いに入植したとあるが,本地図には未だそれほど多くの戸数を確認できない。測量と図版制作に全戸数が示されなかったのか,入植したが定着しなかったのか。

この地図に示された学校記号はただ一つ,漁川に寄り添うようにある。明治22年(1889)に開設された私立松園尋常小学校である(西2線南22号,明治30年に現在の恵庭開拓記念公園に移る)。その他に,私立洞門尋常小学校が明治20年(1887)大安寺境内に開設され,私立島松尋常小学校(寺小屋)が明治26年(1893)開設されているが,この地図には示されていない。

また,神社記号は現在の「豊栄神社」のみで,仏閣の記号も示されていない。更に,明治26年(1893)には千歳原野植民地の区画割が出来て号線も設定されたとされるが,明治29(1896)年製版の本地図には未だ表記されていない。

この地図は,恵庭開拓創始期の状況を垣間見ることが出来るものと言えよう。

 

一週間前の9月10日(平成27)鬼怒川の堤防が決壊して大きな被害をもたらした。未曾有の大雨は堤防を越え,洪水は家を流し,多くの建物に浸水し,田畑を覆った。多くの人々が懸命な作業をしても,今なお滞水した水は抜けない。報道画面を見ながら,このような災害は何処でも起こり得るのではないかと思った。

恵庭の古図を眺めると,恵庭平地の水位は高く,湿原が広がっていた歴然とした事実がある。このことを忘れる訳にはいくまい。昭和の時代まで長都沼が水を湛え,湿地帯が最近まで残っていたことを覚えているだろうか。漁川,茂漁川など近隣の河川がつい最近も氾濫したことを覚えているだろうか。


恵庭の古地図-1,室蘭街道の「七里標」「八里標」と「恵庭村道路元標」

2015-08-18 17:23:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-古地図の章

古地図から歴史が映像となって蘇る。

手元にある恵庭の古地図「漁」は,大日本帝国測量部が大正5年に測図した旧版図(二万五千分の一,大正7年6月25日印刷)謄本で,定価7銭5厘の価格がついている。国土地理院が保管する同縮尺地図としては,最も古いものであろう(因みに,五万分の一の旧版図としては明治29年製版「長都」が存在する)。

最初に目につくのが,地図の左上(北西)から右下(南東)に延びる直線道路「室蘭街道」で,上端は至札幌・経輪厚,下端が至美々・経千歳とある。この道路は,後の「国道36号」になるが,当時から恵庭を通る基幹道路であったことが伺える(道路区分は県道)。この道路にクロスして蛇行するのが「漁川」「茂漁川」,恵庭の市街地はまだ形成されておらず,家々は道路の両側に並んでいる。基線や東三線,南二十号や南二十四号等の「里道」は図面上に定規で引いた直線のままに書き込まれている。

この「室蘭街道」にも多くの変遷があった。各種資料から,その歴史を整理しておこう。

  

◆「室蘭街道」の歴史

北海道開拓時代初期:鹿道と呼ばれる狩猟の道が,月寒から福住を経て千歳に至っていた。

1873(明治6)年:札幌~函館間に新道が完成。同年11月5日太政官布告第364号で「札幌本道」と定められた。「札幌本道」は函館から札幌まで(ただし,森~室蘭間は航路)繋がっていた。1877(明治10)年札幌農学校のクラーク博士が任期を終え,札幌から帰国の途につき島松沢で,見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残したのは,この街道でした。

1885(明治18)年:「国道42号,東京より札幌県に達する路線」に指定された(内務省告示第6号「国道表」)。

1907(明治40)年5月13日:国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され,国道43号が青森~室蘭~岩見沢~旭川(旭川の第七師団に達する路線)に変更された。その結果,苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。

1920(大正9)年:旧道路法が制定され,旧43号は国道28号に認定されたが,苫小牧~札幌間は県道のままであった。

1952(昭和27)年12月4日:新道路法が制定され,札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。同年10月から札幌・千歳間の舗装工事が始まり,翌年の11月2日に34.5kmの工事が完了。道幅7.5m,最高設計速度を時速75kmに設定した高規格道路基準で建設され,「弾丸道路」と呼ばれたと言う。国土地理院の昭和30年測量地図に重ねると,恵庭市内で旧室蘭街道から恵庭バイパスが出来る前の国道36号にルート変更され,ルルマップ川や長都川の辺りは直線化されたことが分かる。また,アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく,日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われている。

1965(昭和40)年4月1日:道路法改正により一級・二級の区別が廃止され,「国道36号」となった。

1996(平成8)年10月:恵庭市街地の交通量増加に対処するため,恵庭バイパスとして南二十四号に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。

道路の整備や変更によって人の流れが変わり,交通事故の発生頻度や商業地の盛衰にも少なからず影響があった。しかし,そこに住む人々は歴史を保存しながら暮らし,頑張っている。旅人には,古地図を片手に古道を歩めば,新たな喜びが発見できるだろう

 

再び,古地図に話を戻そう。

室蘭街道を辿っていると,「七里標」「八里標」の記載があるのに気づく。「七里標」は室蘭街道に里道(至江別・経中之澤)が交差する点,現在の地図に重ねると「道道46号江別恵庭線」と「旧国道36号」の交点(北東角,柏陽町3丁目信号の場所)にあたる。現在,その痕跡は見だせない。

また,「八里標」は室蘭街道がユカンボシ川と交差する点から350mほど南の地点にある。現在の地図では恵南10丁目,山崎製パン(株)札幌工場の敷地内になるだろうか。

明治政府は1873(明治6)年「札幌本道」の新設に合わせ,札幌の創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に「北海道里程元標」を建て,道路調査を行うとともに「里程標」を置き,旅人の便宜を図ることにした。即ち,札幌街道で恵庭は七里(約27.5km)及び八里(約31.4km)の距離で二つの里程標が置かれている(因みに島松沢に「六里標」があった)。「北海道里程元標」は木製であったとされるので,それぞれの里標も木製だったに違いない。今や朽ちて,その姿を残していないのも当然である。

札幌市の「北海道里程元標」は2011(平成23)年に再建され,モニュメントが建っている。恵庭市でも歴史遺産として残す(記憶に留める)運動が起こらないものかと期待している。

さて,「道路元標」の歴史は古く,海外でも「マイルストーン」が設置されている例がある。以下に道路元標の歴史を整理しておこう。

◆「道路元標」の歴史

平安時代末期:奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を建てた。「一里塚」である。

江戸時代:1604年3月4日(慶長9年2月4日)江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道(東海道,中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道)に「一里塚」設置の令を出した。大久保長安の指揮のもと,10年ほどで完了したとされる。東海道は124か所,甲州街道53か所等々で,いくつかはその姿を現在に留めている。道路の側に土盛りし(塚を造り),榎を植え標識を建て,旅行者の目印としたものである。本来は街道の両側にあったと言う。

1873(明治6)年12月20日:明治政府は太政官日誌で,各府県「里程元標」を設け,陸地の道程調査を命じた。「北海道里程元標」は,創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に建てられた。標柱は1尺(約30cm)角,高さ1丈2尺(363cm)の檜または椴松製だった(平成23年3月再建されている)。元標の東面には「・・・島松駅五里弐拾七丁三十間」と書かれ,西面には「篠路駅三里拾丁弐拾間,銭函駅五里拾丁三拾間」とあった。同時に各街道には,「北海道里程元標」からの距離が「里標」として置かれた。古地図「漁」に残る,「七里標」「八里標」等はこの名残である。

1919(大正8)年:旧道路法が制定され(法律第58号),各市町村に「道路元標」を設置することになった。これにより,北海道の道路起点は北海道庁前(来た3条西6丁目)に移され,現在もこの地に「札幌市道路元標」(昭和3年設置,昭和57年再建)がある。なお,「恵庭村道路元標」は昭和7年に設置され,恵庭市中恵庭出張所敷地内の道路に面した櫟の陰にある(大正9年3月の北海道庁告示220号によれば元標位置は漁村551番地先とある)。

その存在を知る恵庭市民は極めて少ないのではあるまいか。除雪の重機でいつ壊されても不思議でない状況に置かれている。損壊してはもったいない。恵庭散歩の途中に,是非探し訪ねて欲しい。そして,保全の声を上げて欲しい。

1952(昭和27)年6月10日:現行の「道路法」(法律第180号)が制定され,道路の起終点は道路元表とは無関係に定められることになった。そのため,歴史遺産とも言うべき道路元標が取り壊された事例は少なくない。そのような中,「歴史遺産」として保全を進める動きが各地で起きている。恵庭においても,朽ち果てる前の保全,消えた歴史の復権(再建)を願うものである。

   

◆その他の「距離標」

「道路元標」と言う概念は,世界中に存在する。日本橋中央には「日本国道路元標」,合衆国ホワイトハウス近くの「Zero Milestone」,モスクワ赤の広場(マネージュ広場)の「ゼロ・キロメートル標識」,北京天安門広場の「中国公路零公里」,マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場(熊と山桃の像が知られる)の「ゼロ・キロメートル標識」などである。

かつて,南米の田舎を車で旅しているとき,「国道○号の○○km地点から左に入って・・・」と言うような表現をよく聞いた。国道には進行方向に沿った道路脇に「Milestone」があり,非常に参考になったことを思い出す。

その後,我が国の主要道路では,距離標識(キロポスト)で表示されるようになった。高速道路で「○○まで○km」の標識を見掛ける「案内標識」の形態だ。

さらに,鉄道にも起点を示す「ゼロ・キロポスト」が置かれている。また,河川では河口または合流点を起点にして,距離を表示する標識が堤防法肩に設置されているという。これは,あまり気づいたことが無い。


恵庭の歴史,「歴史の道見学会」に参加した

2015-06-14 17:06:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成27年6月のある日,恵庭市郷土資料館が主催する「歴史の道見学会」に参加した。「故郷(恵庭)の歴史を知ろう」と,市民の参加を求めて行う郷土資料館の催しである。

今回のコースは,①山口県人開拓記念碑,②里程標八里跡,③恵南開拓記念碑・馬頭観音・牛頭大王,④漁村帷宮碑,⑤御膳水跡碑,⑥里程標七里跡,⑦恵庭神社・拓土農魂之碑,⑧イザリブト番屋・船着場跡・恵庭神社遥拝所,⑨松鶴小学校跡地を巡る,2時間半。参加者は20名あまり,定員を超える希望者があったと言う。

郷土資料館,大林さんの説明に,参加者はメモをとりながら熱心に耳を傾けていた。恵庭は三十年来,そして今なお新規住宅地が形成され,ここを故郷にとの思いを抱く方々も多い。郷土の歴史を学ぼうとする意識が高く,この種の催しも意義があると言うものだ。

今回訪れた歴史遺跡の解説(一部)は,恵庭市郷土資料館のHPで見ることができる。さらに興味のある方は,本ブログ「恵庭の碑」「恵庭の神社仏閣」「恵庭の彫像」シリーズをご覧頂きたい。

        


恵庭の教会-4,その他の教会(キリスト教系の新宗教)

2015-04-20 15:16:35 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

恵庭の街を歩いていると,その他にもキリスト教系の伝道施設と思われる建物を見掛ける。JR恵庭駅の近くでは「末日聖徒イエス・キリスト教会」(通称モルモン教)を,北柏木町では「エホバの証人(ものみの塔聖書冊子教会)の王国会館」を見た。

因みに,この二つの教派と「世界基督教統一神霊教会」(通称統一教会)は,プロテスタント系教派の大多数によって,異端(亜流)と宣言されている(ものみの塔聖書冊子教会は,自らキリスト教世界に属していないと表明しているようだが)。

しかし,「異端」の定義は幅が広い。「異端」とは「正統」に対峙する用語なので,既成宗派から見れば新宗教はいずれも異端と言えなくもない。一般には,本流を自認する側が,異なる教義の宗派を指して言う。キリスト教の場合は,「聖書の他にも経典を有する」「キリスト以外を主と仰ぐ」等が,異端と位置づける大きな要素になっているようだ。歴史的にも異端論争は繰り返されてきたし,伝統教派では異端規定まで定めている。

5.その他の教会

キリスト系の新宗派は多数あり,把握しきれない。ここでは,恵庭で目についた二つを取り上げる。

◇末日聖徒イエス・キリスト教会千歳恵庭支部

恵庭市相生町,JR恵庭駅の西口を出て北西に300m,黄金北に渡る踏切近くにある。屋根の上には十字架でなく尖った塔があり,入り口の壁に「末日聖徒イエス・キリスト教会」とある。俗称「モルモン教」と呼ばれる教派の教会である。白シャツに黒ズボンの若い二人組外国人(専任宣教師)が,伝道に歩く姿をしばしば見かける。伝統的な教派であるカトリック・プロテスタント・正教会からは異端と呼ばれているが(聖書以外にモルモン書を聖典とし,三位一体を否認している),宗教学上はキリスト教の新宗教に分類される。

 

写真は2015年4月撮影

小学館デジタル大辞典によれば,「末日聖徒イエス・キリスト教会は,1830年に米国のジョセフ・スミスが神の啓示を受けたとして創立した傍系的キリスト教の一派。聖書の他に「モルモンの書」をも利用する。初期には一夫多妻主義が主張されたが,1890年に廃止。本部はユタ州ソルトレイクシテイ。第二次世界大戦後,日本でも伝道」とある。

教会の発表では,世界で1,500万人の会員を擁するとある(2010)。十戒の実践,純潔の律法,献金の義務など,人が自ら進んで守るべきものを戒律として定めている。(参照:末日聖徒イエス・キリスト教会HPなど)

◇エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)

恵庭市北柏木町で「エホバの証人の王国会館」を見掛けた。道道46号(旧国道36号線)に面する場所である。エホバの証人集会所(エホバの証人の恵庭市文京会衆)として使われている建物だろう。

写真は2015年4月撮影

エホバの証人は,アメリカ合衆国でチャールズ・テイズ・ラッセルらが1870年聖書研究を開始,1884年宗教法人に認可された(1932年にエホバの証人と呼称),キリスト教系宗教団体である(本部はニューヨーク)。日本では神奈川県に支部が置かれ,巡回区,会衆の組織で宣教している。宣教は二人一組で戸別訪問など行う。信徒は世界で820万人,日本で20万人と言われる。

キリストを崇拝対象とせず,旧約聖書の唯一神エホバを崇拝対象とする(神の名はエホバ,イエスは神の子であり,神ではない)。因みに,エホバは「旧約聖書におけるイスラエル民族の神で,天地万物の創造者,宇宙の支配者,人類の救済者で唯一絶対の神」とされる(小学館「デジタル辞典」)。

「神の王国教義」及び「三位一体説の否認」など教義面で正統教義と相容れないため,伝統教派からは異端とされる(自らはキリスト教会に属していないと言う)。宗教学上はキリスト教系の新宗教と分類されるが,兵役拒否,格闘技に参加しない,国旗敬礼や国歌斉唱をしない,輸血拒否など特異な行動様式を有するため,しばしば社会問題となることがある。(参照:ものみの塔聖書冊子協会HPなど)

◇カルト

犯罪行為を起こすような反社会的集団に対してカルト(セクト)と言う言葉が使われるが,この言葉は1990年代アメリカにおいて反社会的主教団体に使用したのが初めとされる。カルト(セクト)とは,崇拝,礼拝を意味するラテン語から派生した言葉で,本来は否定的な意味が無かったと言うが,現在は良い意味に使われていない。

かつて,信者900人の集団自殺事件(1978年),犯罪や洗脳など社会問題になる事件が多発したことを受け,アメリカやヨーロッパではカルト集団に対する議論が深まった。その結果,1995年にはフランスが議会報告書「フランスのセクト」「フランスにおけるセクト教団」「1995年度報告書」を発表,同国内で活動するセクト的傾向の団体を紹介し,社会問題への対処を提案した。更に,1996年にはオーストリアやドイツが,1997年にはベルギー議会調査委員会が監視団体リストを公表するなど動きが広まった。これ等のリスト公表は,カルト集団として認定したのではなく,監視する必要がある団体と言う意味だと言う。リストに宗教団体も含まれることから「信仰の自由」との兼ね合いが論じられたが,人権や法は宗教に優先する場合があるとの価値基準に一歩踏み込んだことになる。カルト集団による人権侵害や犯罪が目に余ることから起きた流れであり,この流れは世界に広がっている(わが国では未だこの動きはない)。

日本に本部を置く宗教団体の中にも,キリスト教・仏教を問わず,フランスやベルギー等の報告書にカルト(セクト)監視団体として名前を挙げられている団体がみられる(参照:Wikipediaなど)。ここでは具体名を挙げないが,カルト監視団体と判断される何らかの理由があったのだろう。

因みに,カルトの特徴は,指導者に対する絶対崇拝と盲信,教義の曖昧さと欺瞞,閉鎖性,金融面や性的利用(強制寄付,強制販売,性支配),人権侵害,未成年者への勧誘,反社会性,暴力性などにあると言う。カルト教信仰から生ずる悲劇は決して発生して欲しくない。

 

恵庭の神社・仏閣・教会を訪ねる「恵庭散歩」は,人間にとって宗教とは何か考える旅でもあった。


恵庭の教会-3,恵庭にあるプロテスタント系教会

2015-04-19 14:48:04 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「キリスト教会」の章

初回に取り上げた「日本キリスト教団島松伝道所」はプロテスタント系教派と述べたが,恵庭にはその他にも「恵庭福音キリスト教会」「日本福音ルーテル恵み野教会」「インマヌエル恵庭キリスト教会」「めぐみ聖書バプテスト教会」などプロテスタント系教派の教会がある。

恵庭にあるプロテスタント系教会を訪ねる。

 

3.恵庭福音キリスト教会

所在地は恵庭市緑町1丁目,JR恵庭駅西口から恵庭駅通二つ目の信号で右折した所にある。恵庭駅から400m,徒歩で5~6分。外観は一般住宅と変わらない建物だが,入り口に「日本福音キリスト教会連合,恵庭福音キリスト教会」とある(写真は2015.3.30撮影)。いわゆる「日本福音キリスト教会連合」に所属するプロテスタント系教派の教会である。

この教会は,平成元年(1989)に千歳福音キリスト教会の恵庭伝道所として,国際宣教会の協力でスタートしている。宣教師時代が10年,日本人牧師になって10年余が経過した。礼拝の他に語学,文化,料理,子育てなどを媒体にしながら,宣教の活動が行われて来た。現在の牧師は中川昭一師。日曜礼拝,バイブルクラブ,ぶどうの会,祈り会,シャーロームの会など小集会形式の活動が行われていると言う。

小学館「デジタル大辞典」によれば,「福音キリスト教会はプロテスタント教会の一教派。19世紀初め,ルター派のジェイコブ・オールブライトがメソジスト派の影響を受けて北米ペンシルベニアに興した教会。日本には明治9年に伝わった」とある。その特色は,「信仰告白に基づく結合」「聖書の権威を全面的に受け入れる」と要約される。即ち,日本福音キリスト教連合は,福音主義に立つ教会群で,聖書を誤りのない神の言葉として信頼し,これに服従する歴史的プロテスタントの基本教理を堅持する立場をとっている。同時に,福音的な教派や教会とも広く協力し,各個教会の自立性を尊重するのが特徴だと言われる。

4.日本福音ルーテル恵み野教会

所在地は恵庭市恵み野東2丁目,恵み野中学校に隣接している。JR恵み野駅の東方向1.4km,徒歩で20分 の距離,団地中央通りと恵み野環状線が交差する場所にある(写真は2015.3.30撮影)。JR恵み野駅前通りを直進する団地環状線を進むと分かり易いだろう。

岡田薫牧師により日曜礼拝が行われている。この教派では,式文による礼拝が行われるのだと言う。即ち,礼拝は開会の部,みことばの部,聖餐の部,派遣の部に分かれており,礼拝に招かれ,神の恵みを受け,派遣されて行くと言う一連のストーリーがある。年間礼拝(行事)は,聖金曜日,復活祭,昇天主日,聖霊降臨祭,三位一体主日,宗教改革記念日,バザー,召天者記念礼拝,待降節第一主日,燭火礼拝,降誕祭等が計画されている。

なお,ルーテル教会は,16世紀初めドイツのマルテイン・ルターによって始められたキリスト教派で,プロテスタントの一つである。ドイツ及び北欧地域,移民先のアメリカ合衆国,カナダ,ブラジル等に信者が多く,その数は全世界で8,200万人を超えると言われる。

日本ルーテル教会は,アメリカからの二人の宣教師が明治26年(1893)に佐賀でイースターの礼拝を行ったことに始まるとされる。明治42年(1909)には牧師養成のための神学校を設立,幼稚園教育や福祉活動を行うと共に布教に努めた。昭和16年(1941)政府の指示でプロテスタント教会が合同を強いられ日本キリスト教団を作るが,戦後の昭和22年(1947)年に離脱し日本福音ルーテル教会として再出発している。昭和38年(1963)には,その他のルーテル諸派と合同し新しく「日本福音ルーテル教会」を組織し現在に至っている。全国に138の教会と幼稚園,老人ホームなどの施設を持つと言う。

また,北海道のルーテル教会は,大正5年(1916)フインランドの宣教師と日本の牧師によって始まったとされる。昭和9年(1934)札幌に教会が建てられ,昭和12年(1937)にはめばえ幼稚園を開設。第二次世界大戦後に,札幌北,函館,池田,釧路,帯広,新札幌,恵み野に教会を建て礼拝を行っている。北海道教区が発足したのは昭和56年(1981)のことで,教区としての活動が続けられている。

 

5.インマヌエル恵庭キリスト教会

所在地は,恵庭市柏木町3丁目,道道江別恵庭線(旧国道36号線)に面して立つ。柏木神社,柏木中央会館の近くである。或いは,葬儀場メモリアル香華殿の島松寄りと言った方が分かり易いだろうか。住宅の屋根に十字架,二階の壁に「インマヌエル恵庭キリスト教会」の看板が見える(写真は2015.4.19撮影)。。同教会の紹介欄には「ウェスレーの説いた「第二の恵み」としての聖化の信仰を追求し,一人ひとりの霊的経験を重んじる,家族的な教会です」とある(イムマヌエル総合伝道団HP)。小田満牧師が伝道する(日曜礼拝と木曜夜にも定期礼拝がある),イムマヌエル総合伝道団に属する教会である。

なお,イムマヌエル総合伝道団は,プロテスタント系の教派で,「聖書はすべて誤りのない神の言葉であって,信仰と生活における唯一の基準である」と告白する福音主義(いわゆる聖書信仰)の立場に立つ。メソジストの流れを汲み,ホーリネス派(きよめ派)と呼ばれる教派に属する。

昭和17年(1942)の宗教弾圧で検挙されたホーリネス系教職者であった蔦田二雄師らが,戦後に教団「イムマヌエル」を結成したことに始まる。聖書信仰・聖書的ホーリネス・世界宣教の三つを課題に活動していると言う。

  

6.めぐみ聖書バプテスト教会

所在地は恵庭市末広町。恵庭市民会館の裏側,会瀬洞門通りに面している(写真は2015.4.19撮影)。同教会HPでは,昭和62年(1987)バプテスト・バイブル・フェローシップ宣教師ケン・ビエール師によって始められ,平成22年(2010)3月独立式を行い地方教会として正規に発足したとされる。牧師は高橋昌史師で,日曜学校,日曜礼拝を行っている。

なお,本教会が所属する聖書バプテスト教会は,昭和24年(1949),米国バプテスト・バイブル・フェローシップ諸教会から派遣された宣教師によって福音宣教が開始され,徹底した聖書主義に立つ保守バプテストの原理と実践を受け継いだ教会として組織されたプロテスタント系の教派で,各地で開拓伝道を進めている。

参照:各教派のHPなど

◇恵庭のキリスト教会

以上からも分かるように,恵庭におけるプロテスタント系教会の布教活動は,第二次世界大戦以降に始まったと考えてよい。いずれの施設も,神社仏閣に比べて佇まいは質素に見える。恵庭においてキリスト教伝道は歴史が浅く,信徒も少ない故だろう。ヨーロッパや中南米のような歴史と豪華さを備えた教会と比べる訳にもいくまい。

ヨーロッパや中南米の旧市街地では,中央広場(公園)に面して市庁舎や議会と並び教会が威容を誇っているのをよく見掛ける。それだけ,欧米ではキリスト教が生活の中心にあった。一方,我が国は神道と仏教を拠り所にしてきた歴史があり,恵庭開拓時代には神社仏閣の建立が優先された経緯がある。キリスト教は現在も開拓宣教の時代にあると言えるのかも知れない。

◇プロテスタント系キリスト教の学校

因みに,北海道では北星学園,遺愛学園,酪農学園などがプロテスタント系学校として知られている。北星学園は,明治20年(1887)アメリカ長老教会の女性宣教師サラ・C・スミスが開いた「スミス塾」が前身である。

遺愛学園は,明治7年(1874)アメリカ,メソジスト教会宣教師M.C.ハリスが来函し日日学校を開いたのが始まりである。彼は,アメリカ合衆国領事を兼ね,英語教師として札幌農学校で教鞭をとり,札幌農学校の第一期生佐藤昌介,大島正健ら15人,二期生の内村鑑三,新渡戸稲造,宮部金吾ら7名の洗礼を授けたことでも知られている。

酪農学園は,昭和8年(1933)黒澤酉蔵がデンマークの歴史にならい創設した北海道酪農義塾が前身。教育は,黒澤翁が唱えた「建土健民」「三愛主義」の考えが基軸となっている。なお,黒澤酉蔵は明治42年(1909)札幌のメソジスト教会で洗礼を受けている。