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恵庭の寺-5,六線のお寺 「恵庭山島松寺」(真宗大谷派)

2015-03-13 17:40:57 | 恵庭散歩<歴史・碑文・神社仏閣・彫像>

恵庭散歩-「寺院」の章

北海道では,開拓者たちが故郷で信仰していた宗派の寺院を建立したいとの切々なる思いから,開基された寺院が多い。恵庭市においても例外ではなく,開拓初期には山口県や北陸からの開拓移住者たちが寺院建立を主導している。

北海道への開拓移住は,明治19年(1886)から昭和11年(1936)頃までがピークで,東北6県からの移住者が最も多く289,217戸(41%),次いで北陸4県からが184,064戸(26%)とされる。東北は禅宗(特に曹洞宗)系寺院が多い地域であり,北陸は浄土真宗系が多い地域であるため,北海道における寺院も,浄土真宗系990寺(43%),禅宗系476寺(21%)が多数を占めている。因みに,日蓮宗系336寺(15%),真言宗系265寺(12%),浄土宗系155寺(7%)であると言う。

また,道内で早い時期に開拓された豊穣地域には真宗大谷派が多く,海岸地域では曹洞宗が優占するなど地域差が見られるが,これは移住者の出身地域と移住年次に影響された結果である。いずれにせよ,北海道では浄土真宗系と禅宗(曹洞宗)寺院が優位を分かち合っている(参照:永幡豊2013「北海道における仏教寺院の分布について」地理学論集88-1)。

恵庭では,浄土真宗系(大谷派と本願寺派)寺院が4寺を数え最も多い。これらの寺院は開拓初期にあたる明治20年代が開創で,恵庭の開拓が山口県と富山・福井・石川県など北陸出身者の団体移住で始まったことを如実に物語っている。

今回も,開拓民と共に歩んできた寺院を訪ねる。住民から「六線のお寺」と呼ばれた恵庭山島松寺である。

  

5.恵庭山島松寺(えにわさんとうしょうじ),真宗大谷派

所在地は恵庭市下島松。JR島松駅からは北東の方向にあたる。島松市街をはずれて六線道路に面し,周辺に畑が広がる地域だ。道道46号江別恵庭線やJR千歳線からは本田記念病院が目印になるかも知れない。道道46号江別恵庭線から入ると,本田記念病院を過ぎ,ルルマップ川を越えたところにある。JR島松駅からは1.5km,徒歩で18分の距離である。

この寺は,明治30年(1897)廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立したことに始まる。明治33年(1900)には,美濃国の西照寺から吉田了貫師を迎え,明治37年(1904)に本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与され,明治39年(1906)に寺号公称認可を得て,恵庭山島松寺と称すことになった。開基和尚了貫師は信徒からの信頼厚く,盤尻に説教場を開くなど布教に努めた。了貫師は書画にも秀でており,師の作品が多数残されている。

火災による災害もあったが,檀信徒らの尽力により再建を果たしている。また,昭和36年(1961)から本堂を解放して季節保育を開始するなど,幼児教育にも力を注いだ(保育園は平成7年閉園)。三世堂守吉田顕子,四世住職吉田法純師のご苦労は多かったことであろう。平成9年(1997)には,開教百年記念慶讃法要・式典を挙行している。

境内に入ると,正面に本堂,左手に「親鸞聖人御像」がある(写真は2014.12.4撮影)。この親鸞像は平成8年9月鷲田清が寄進したもので,標板には「鷲田清氏は明治三十二年二月十五日福井県坂井郷に生まれる。八歳の時父仁作に伴われ来道,江別を経て明治四十一年盤尻に入植,苦難の少年時代を過ごし成人を向迎う。剛健実直な人柄で衆望を荷負って村会議員に当選,以来五期二十年に渉り市政発展に尽くした。又法義相続の念厚く島松寺代表役員として寺門発展の為盡力,納骨堂や本堂の建設委員長として今日の島松寺の礎を築いた功績は大なるものがある。恵庭市名誉市民,勲六等単光旭日章をはじめ数々の表彰を受けている。島松寺四世住職釈法院記す」とある。なお,父の鷲田仁作は,かつて相撲界に身を置いた「實勇」である(盤尻に記念碑がある)。

平成九年九月中川貞男寄進による「開教百年記念本願相続,島松寺第四世釈法純書」の石碑がある。開教百年を記念して建立された。

◆恵庭山島松寺の概要

所在地:恵庭市下島松

本寺:真宗本廟(東本願寺)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治30年

開基:(金山大恵,桂樹義教)吉田了貫

歴代住職:吉田了貫(開基),吉田究(二世),吉田純正(三世),住職代務者吉田顕子(三世坊守),吉田法純(四世),吉田敦史

沿革(歴史)

明治30年(1897)5月:廻清次郎,桑島儀太夫,西佐左衛門らが,島松村西六線南十八号に敷地を取得し,金山大恵師を招き説教所を創立。

明治31年(1898)9月:金山大恵師(近江国法雲寺住職に赴任)に替わり桂樹義教師となる。

明治33年(1900)10月:桂樹義教師(同年9月新十津川村に転出)に替わり,美濃国西照寺から吉田了貫師が継承。

明治37年(1904)10月:本山から木仏尊像と寺号(島松寺)を付与される。

明治39年(1906)3月:寺号公称認可(同38年出願)を得て,恵庭山島松寺と称す。了貫師盤尻に説教場を開き,後に岐阜出身の林空真が布教のかたわら寺小屋を開く(鷲田政太郎が建物を寄進)。盤尻分教場の創設により林空真は教師に任命され,説教所は吉田俊恩師が継いだ。盤尻説教場は大正2年廃止。

明治40年(1907):山口権六から境内地の寄進を受け(西七線十八号),同年11月に本堂,向拝,庫裏等の落成を見る。

昭和5年(1930):火災によって焼失。同年8月村役場の旧議事堂の払い下げを受け再建。

昭和25年(1950):客殿新築。

昭和36年(1961)4月:本堂を解放し季節保育を開始。

昭和39年(1964):納骨堂建立。

昭和41年(1966):客殿の増築。保育園舎完成(平成7年3月,少子化が進み閉園)。

昭和46年(1971):庫裏改築。

昭和55年(1980)6月:本堂の全面改築(鉄筋コンクリート造り,福井市高木相良設計,勝村建設施工)。

平成9年(1997):開教百年記念慶讃法要・式典。

平成10年(1998):記念誌発刊。

参照:恵庭市史(昭和54),山崎英雄「六線のお寺,島松寺のあゆみ」(昭和57),島松寺開教百年記念誌(平成10)      

◆真宗大谷派(東本願寺)

それでは,真言宗大谷派とは何か? 天融寺の項(本ブログ,恵庭の寺-1,2015.2.21)で触れたように,真宗大谷派は親鸞及び覚如を宗祖とする浄土真宗の宗派の一つである。京都市の真宗本廟(東本願寺)を本山とし,所属寺院数が全国で8,900寺を数える大きな教団である。なお,浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である浄土真宗本願寺派(西本願寺)がある。後者は,龍谷山本願寺(大谷祖廟)を本山とする。信者の皆さんは,前者を「お東さん」,後者を「お西さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1262),第三代覚如(1271-1351)が本願寺の実質的開基とされる。

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:真宗本廟(東本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

各種資料によると,真言宗大谷派の作法は以下のとおりだと言う。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず,戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく布教活動も多岐に亘っている。学校法人,大谷保育協会(全国に500の保育所をもつ)などの実績は,私たちの知るところである。

恵庭市内にある真宗大谷派寺院は,千歳山天融寺(恵庭市上山口)と恵庭山島松寺(恵庭市下島松)である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。

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