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豆の育種のマメな話

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恵庭の寺-4,漁村のお西さん 「敬念寺」(浄土真宗本願寺派)

2015-03-10 17:34:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

旅の途中で,或いは歴史を訪ねて神社仏閣に参拝した際はいつも,建造物の荘厳さや佇まい,建物に施されている彫刻の芸術性などに圧倒される。この感覚は,海外で古い教会を訪れた時に感じるものと同様である。宗教建築物や芸術性高い作品群は,殆ど全てが寄進によるものであろうが,当代の一流芸術家や技術者が製作して人類遺産となったものが多い。

ところで,私たちが一般に思い描く寺院はどんな姿だろう? 屋根が大きく緩やかに反った木造の大規模な建築物,装飾された建具などをイメージするのではないだろうか。

寺院の建築様式は,「和洋」「禅宗様」「大仏様」「折衷様」「寝殿造」「書院造」に分類されると言う。仏教とともに中国から伝わった様式に,日本人の好みや技法が加わり,伝統的な木造寺院建築が作り出された経緯がある。

しかし,建築基準法や消防法の規定で,法が定める規模を超える建物は鉄筋コンクリートとすることが義務化されるようになり,寺院とは言え昔のように大きな建物を木造で建てることは出来なくなった。そのため,鉄筋コンクリート造りの寺院が増え,外観のデザインも多様化している。

恵庭市の寺院も,近年に改築されたものは鉄筋コンクリート造りである。従来の寺院建築様式を偲ばせるよう工夫されたものもあるが,洒落た建造物になっている場合も見られる。今回訪ねるのは,モダンな建造物の寺院と言うことになる。

 

4.敬念寺(きょうねんじ),浄土真宗本願寺派

所在地は恵庭市本町。道道46号江別恵庭線(旧国道36号線)から,道道117号恵庭岳公園線に入ってすぐ右手の場所,旧道に面して山門がある。周辺は商店と住宅に囲まれた一角で,本堂・書院は三階建てになっている。JR恵庭駅の西方向,駅から1.3km,徒歩で16分ほどの距離にある。

この寺は,明治27年(1894)4月,漁村の嘉屋菊之助,和田勝太郎,木村長右衛門らが西本願寺札幌別院内北海道教区教務所に対し漁村への説教所設置を要請し,それを受けて原龍海師が漁村へ出張し布教に努めたのが創始とされる。同年9月には槇島善七,児玉作太郎から境内地の寄進を受け,説教所と庫裏を建設し,同年11月1日入仏式が行われた。また,明治34年(1901)富山県西三郷村敬念寺の寺跡移転願を受けて合併した後,敬念寺として歩んでいる。宗派は浄土真宗本願寺派。親鸞聖人を宗祖とし,京都西本願寺を本山とする「お西さん」である。

この寺も恵庭にある古刹の一つと言えようか,開拓移住初期の明治27年(1894)に説教所が設けられている。春とは言え,まだ境内に雪が残る時期に訪れた。門を入ると境内は駐車場になっており,正面に近代的な三階建ての建物がある。段差のある敷地を使って建立されているため,正面から二階に入るようになっていて,二・三階が本堂及び客殿となっている。そして,左奥に納骨堂が配置されている。納骨堂の前には開基僧侶原龍海師の碑(開基衛徳院之碑)が建っている。

敬念寺では,春秋の彼岸会,春秋の永代経,報恩講,御初穂感謝など年間行事の他に,毎月16日と22日に定例法座を開いている。恵庭市立図書館が主導する「恵庭まちじゅう図書館」にも参画していて,「恵庭で一番来づらくて,入りづらい図書館!? いえいえ,どなたでもお気軽に。昔ながらの懐かしい絵本が並ぶお寺です」とある。

◆敬念寺の概要

所在地:恵庭市本町

本寺:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治27年

開基:原龍海

歴代住職:原是清(初代),原義証(二代),原敬輝(三代),原宗法(四代)

沿革(歴史)

明治27年(1894):同年4月,漁村の嘉屋菊之助,和田勝太郎,木村長右衛門らが,西本願寺札幌別院内北海道教区教務所に対し,漁村への説教所設置を要請。原龍海師が漁村へ出張し布教に努めた。同年9月には槇島善七,児玉作太郎から境内地の寄贈を受け,説教所と庫裏を建設。同年11月1日入仏式が行われた。

明治29年(1896):小梵鐘供養式を執行。

明治34年(1901):富山県西三郷村敬念寺から漁村へ寺跡移転願が出され,説教所と合併した。原是清が初代住職となる。

明治36年(1903):原ヤスから用地の寄付を受ける。

明治41年(1908):漁村8番地に本堂,向拝,庫裏等を建設。

大正6年(1917):本堂増築。

昭和5年(1930):庫裏を新築。

昭和8年(1933):小樽市浅野亀次郎から梵鐘の寄進(本誓寺と同じ寄進者)。

昭和19年(1944):第二次世界大戦激しさを増し,梵鐘供出。

昭和36年(1961):本堂改築。

昭和43年(1968):納骨堂建設。

昭和46年(1971):書院新築。

参照:恵庭市史,浄土真宗本願寺派札幌組HP,恵庭市図書館HP

 

◆浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派については,弘誓山本誓寺の項(本ブログ,恵庭の寺-3,2015.2.25)で触れたが再掲しよう。本願寺派は浄土真宗の一つの宗派である。親鸞聖人の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする本願寺(通称西本願寺)を本山とし,末寺数が全国で10,500寺院,信者数695万人と言われる大きな教団である。浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派が組織)には,もう一つ大きな宗派である真宗大谷派(通称東本願寺,本山は「真宗本廟(東本願寺)」があり,本願寺派を「お西さん」,大谷派を「お東さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1263)

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

親鸞の教えを教義とするので,浄土真宗本願寺派と真宗大谷派との間に基本的作法の差はない(バリエーションは存在する)。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず(参観記念スタンプで対応する寺院はある),戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(1回,大谷派は2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく,布教活動も海外にまで及んでいる。学校法人龍谷学園以下,幼稚園教育までの実績も,私たちの知るところである。

恵庭市内の浄土真言宗本願寺派寺院は,この寺と本誓寺(恵庭市南島松)である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-3,「弘誓」を山号とする 「本誓寺」(浄土真宗本願寺派)

2015-02-25 16:01:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

仏教用語に「弘誓」と言う言葉があり,「ぐぜい」と読む(難解な読みだ)。小学館デジタル大辞泉をみると,「衆生を救おうとして立てた菩薩の誓願,四弘誓願のこと」とある。つまり,修行者である菩薩が,自ら悟りを開き,同じく生きとし生けるものを救済しようと決意し,誓いを立てることだと言う。

そして,「四弘誓願(しぐぜいがん)」とは菩薩が修行の初めに起こす四つの願いを言う。即ち,以下の4誓願である。

1.衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど,地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)。

2.煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん,煩悩は無量だが,すべて断つという誓願),禅宗では煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)とする。

3.法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち,法門は無尽だが,すべての教えを学ぼうとする誓願),禅宗では法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)とする。

4.仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう,仏の道は無上だが,かならず成仏するという誓願)。これらの言葉は,僧侶の読経を聞いて耳に残っている方も多いだろう。

さて今回は,「弘誓」を山号に冠した寺院を訪ねよう。

 

3.弘誓山本誓寺(ぐぜいざんほんせいじ),浄土真宗本願寺派

所在地は恵庭市南島松。島松駅から駅前通りを直進し,柏木川を渡ると左に消防署,右に島松体育館があり,恵庭北高に突き当たる。信号を左折し,老人ホームと保育園を過ぎると,左手に島松幼稚園及び本誓寺が見えて来る。この位置は,島松小学校の向かいと言った方が分かりやすいかもしれない。西五線道路が十九号道路と交差するところで,JR島松駅の東方向1.5km,徒歩で18分の距離にある。

島松地区には,明治24年(1891)福井県から来道した原田三十良が島松地区に居を構え,前後して同郷の上松藤兵衛,花野友次郎,宗近與三吉が入植,広島県からも鋼道市助等が入植し(漁川沿岸に比べ不便であったことから入植はやや遅れた),その後呼び寄せで入植者が増えて行った。入植者の主体は富山・福井からだった。北陸地方や広島地方には門徒宗が多かったこともあり,原田三十良らは真宗教会本部北海道出張所に説教所開設を要望した。それに応えて明治27年(1894)近江の国(滋賀県河瀬村)浄国寺住職野口道性師に島松での寺院開設を促したのが本誓寺の始まりとされる。原田三十良は初代総代,息子の専松も寺院運営に多大な貢献をしている。寺院の歴史,歴代住職や坊守,檀徒の方々の物語は,平成10年刊行の本誓寺「百年間のお寺と檀家のお付き合い」に詳しい。

山門を入ると,左手に鐘楼がある(写真は2015.2.20撮影,以下同じ)。当初の梵鐘は,小樽の浅野亀次郎から寄進されたものであったが,第二次世界大戦が激しさを増した昭和19年に供出された歴史がある。現存するのは戦後(昭和24年)に鋳造された二代目梵鐘で,鋳造師黄地佐平(滋賀県)の作である。鐘の音に,世界平和を祈念する響きが籠められたとしても不思議でない。

また,開基住職野口道性の墓碑(二世住職野口義男の建立)があるが,同碑の右側には「釈敬立俗名石田三次郎」の名前が刻まれている。過去帳によれば「使役人」とのことだが,開基住職と共に辛苦を共にした人物だったのだろう。同じ碑に名前を刻んで祀らんとする気持ちがうれしい。近くには,親鸞聖人行脚像が建っている。

本堂の左手には無量寿堂(納骨堂)がある。法隆寺の夢殿を象った八角の御堂が特徴的で,設計者は札幌グランドホテルや恵庭農協の設計にも携わった橋本理助だという。

さらに,本堂及び会堂等が大改修を終えて落成法要が行われたのが平成6年,本堂と並ぶ会堂「法味楽」の姿は整然として美しい。なお,「法味」とは仏法の深い味わいを,食物の美味にたとえて言う語で,読経などの儀式・法要を意味する。法座に集う衆生が有難い言葉を聞くのに合った名前である。

なお,主な年中行事は,報恩講,毎月23日(12~4月は9日)に開催する法座などである。隣接地では,島松幼稚園幼児らの笑い声が絶えることがない。

写真撮影の御礼を申し上げたら,坊守さんが「お茶でも飲んで行きなされ」と親切な声を掛けて下さった。広い駐車場には,園児を送迎するバスが駐車していた。

◆弘誓山本誓寺の概要

所在地:恵庭市南島松

本寺:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)

本尊:阿弥陀如来

開創・開山:明治27年

開基:野口道性

歴代住職:野口道性(初代),野口義男(二代),野口幸男(三代),野口宗英(四代)

沿革(歴史)

明治27年(1894)11月:滋賀県河瀬村浄国寺前住職野口道性師が,真宗教会本部北海道出張所の命を受けて開教に着手。

明治29年(1896):島松村西五線南二十号(現在地)に説教所を置き普及に努める(恵庭市史による。本誓寺HPでは明治28年)。

明治30年(1897):原田専松から敷地の寄進を受け,本堂を新築して説教所とする。

明治37年(1904):本誓寺の寺号公称の認可を受け(36年10月寺創出を出願していた),庫裏を建築。同年11月には原田専松から境内地の寄進を受ける。

明治39年(1906):本堂,庫裏,向拝など建設。

明治45年(1912):本堂落慶法要。

昭和9年(1934):小樽浅野亀次郎から梵鐘の寄付を受け,鐘楼堂を建設。

昭和18年(1943):戦争激化のため梵鐘を供出。

昭和21年(1946):島松小学校御真影奉置所を譲り受け納骨堂とする。

昭和24年(1949):梵鐘を新たに鋳造する(滋賀県の鋳造師黄地佐平作)。

昭和28年(1953)11月:書院改築落成。

昭和37年(1962):島松保育園開園。

昭和38年(1963)9月:本堂及び庫裏等の改築。

昭和44年(1969)9月:親鸞聖人生誕800年を記念し,納骨殿無量寿堂(法隆寺の夢殿を象った八角の御堂)を建立。設計橋本理助。

昭和59年(1984):島松幼稚園認可を得る。同62年に園舎落成。

平成4年(1992):本堂等の大改修工事起工。

平成6年(1994):同上落成法要。本誓寺開教100周年慶讃法要を勤修。

参照:恵庭市史,浄土真宗本願寺派札幌組HP,本誓寺「百年間のお寺と檀家のお付き合い」平成10年

   

◆浄土真宗本願寺派

本願寺派は浄土真宗の宗派の一つである。親鸞聖人の墓所である「大谷廟堂」を発祥とする本願寺(通称西本願寺)を本山とし,末寺数が全国で10,500寺院,信者数695万人と言われる大きな教団を構成している。浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である真宗大谷派(東本願寺,本山は「真宗本廟(東本願寺)」がある。信徒は,本願寺派を「お西さん」,大谷派を「お東さん」と親しみを込めて呼んでいる。

宗祖(開山):親鸞(1173-1263)

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:龍谷山本願寺(西本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来る。専修念仏が基本。

親鸞の教えを教義とするので,浄土真宗本願寺派と真宗大谷派との間に基本的作法の差はない(バリエーションは存在する)。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず(参観記念スタンプで対応する寺院はある),戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香(1回,大谷派は2回)は額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく,布教活動も海外にまで及んでいる。学校法人龍谷学園から幼稚園教育までの実績も,私たちの知るところである。

恵庭市内にある浄土真言宗本願寺派寺院には,本誓寺の他に敬念寺(恵庭市本町)がある。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-2,恵庭の古刹,禅宗(曹洞宗)の寺 「天瑞山大安寺」

2015-02-23 15:17:16 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

北海道に禅寺は少ないが,「大安寺」は恵庭にある禅宗(曹洞宗)の寺である。

ところで,禅宗とは何か? 「禅」はインド出身の菩堤達磨(釈迦の継承者,二十八祖)が中国に入り,教えを伝えたのが始まりと言われる。日本には鎌倉時代13世紀に伝えられたとされ,臨済禅は栄西が,曹洞禅は道元が中国から帰国して伝道したのが,わが国禅宗派の始まりとされている。しかし,それ以前に禅宗の伝来が皆無だったわけでなく,唐の禅僧が来日した記録や,大日房能忍が日本達磨宗を開いていたことも知られている。

禅宗は鎌倉時代以降,武士や庶民に広まり,各地に禅寺が建てられた。中国から日本に禅を伝えた僧によって多くの流派が生まれたが(日本禅宗25流と言われる),現在は臨済宗,曹洞宗,黄檗宗の三派が並び行われている。小学館デジタル大辞典には,禅宗について「座禅によって仏道の悟りを得ようとする大乗仏教の宗派」とある。明治以降,鈴木大拙によって「禅」は世界に伝えられ,禅を学ぶ外国人も多い。

今回は,恵庭散歩で禅寺を訪ねる。

2.天瑞山大安寺(てんずいざんだいあんじ),曹洞宗

所在地は,恵庭市大町4丁目。JR恵庭駅から西北西方向1.6km,徒歩で19分ほどの距離にある。恵庭市エコバスの停留所(大安寺前)が門前にある。旧道に面して山門が建ち,山門には木彫の大きな金剛力士像(仁王像)が置かれている(写真は2014.12.5撮影)。

山門を潜ると,左手に地蔵堂,正面に本堂,右手には納骨堂(常照殿),庭には「皇軍戦没者招魂供養の碑」がある。さらに,本堂に向かって左側には,「開山本寺六十四世勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚之碑(賜縈沙門黙仙書)」及び「開創(二世)月海良光大和尚之碑(永平黙仙書)」があり,大正七年三月に二世良渓と檀信徒が建立したと刻まれている。また,「開基大安寺殿釈医高徳春嶺禅定門(山森丹宮)の墓碑」(山森嘉人が昭和三十八年九月に建立)がある。

この寺は,恵庭の開拓に縁深く,恵庭最古の寺の一つである。当時,この地に団体移住した山口県の人々は,小学校もないため子弟の教育に憂慮していた。中山久蔵(島松で稲作栽培に成功,寒地稲作の父と呼ばれる)が用地を寄付し,苫小牧中央院(明治12年に開拓使の許可を得て曹洞宗第二説教所として設置)の二世住職加藤金翎師が寺小屋(私設簡易科洞門小学校)を建て教育にあたった歴史がある。この寺小屋が恵庭における初等教育の始まりで,現在の恵庭小学校の前身である。

また,明治21年には山森丹宮及び中山久蔵から境内地の寄進を受け,苫小牧中央院の漁村出張説教所として設置された。これが本寺の創始とされる。開山は勅特賜性海慈船禅師(大休悟由大和尚,永平寺64世),開基は初代村議会議員山森丹宮である。

なお,山森丹宮は盤尻用水組合の発起人でもある。盤尻用水記念碑には,「盤尻用水組合は,明治二十四年十月(1891年),山森丹宮氏,小柳三太夫氏(福井県人)らが発起人となり,盤尻番外地において漁川から取水する権利を得て約36haを開田したのが始まりである。大正九年三月(1920年)の拡張確認申請の時は116.5haとなり,明治二十四年より大正九年までの三十年の永きに亘り,山森丹宮氏は医業のかたわら寝食を忘れて尽力された・・・」とある。

さらに,大正12年(1923)には三世押見龍江師が就任し,北広島説教所(現来広寺)や千歳説教所(現大禅寺)の設立,「皇軍戦没者招魂供養の碑」建設,「リズムの学園恵庭幼稚園」設立などに尽力した。この流れを引き継ぎ,現在も学童保育に力を注いでいる。

なお,本尊は釈迦牟尼佛(脇侍,文殊菩薩・普賢菩薩)であるが,平成28年に新本尊「釈迦三尊像」(主尊:釈迦如来坐像,脇侍:迦葉尊者・阿難尊者,作者は江場琳黌・琳観仏師)を奉迎予定であるという。

寺では,節分厄払い,地蔵供養祭,彼岸会法要,両祖報恩会,盂蘭盆会万灯供養など年間恒例行事の外に,写経の集い,座禅の集いなども開催している。

 

◆天瑞山大安寺の概要

所在地:恵庭市大町4丁目

本寺:大本山永平寺(福井県永平寺町)

本尊:釈迦牟尼佛(脇侍,文殊菩薩・普賢菩薩),なお平成28年に新本尊「釈迦三尊像」を奉迎予定(主尊:釈迦如来坐像,脇侍:迦葉尊者・阿難尊者,作者は江場琳黌・琳観仏師)。

開創・開山:明治21年,勅特賜性海慈船禅師(恵庭市史では,勅賜性海慈船禅師とある)

開基:山森丹宮(創立発願総代:山森丹宮,新田時二郎,近藤春蔵,林愛助,渡邊寮蔵)

歴代住職:勅特賜性海慈船禅師(開山,大休悟由大和尚,永平寺64世),金翎宣鳳大和尚(一世,加藤金翎師),月海良光大和尚(二世,松樹良光師),吞舟龍江大和尚(三世,押見龍江師,大正12年就任),徳應香積大和尚(四世,押見香積師,昭和37年就任),大光俊哉大和尚(五世現董,押見俊哉師,平成16年就任)。恵庭市史では,開創住職が松樹良光,二世住職が松樹良渓とある。

沿革(歴史)

明治20年(1887):中山久蔵が移民子弟の教育のために寄付をする。当時,苫小牧中央院(明治12年に開拓使の許可を得て曹洞宗第二説教所として設置)の二世住職加藤金翎師は「私設簡易科洞門小学校(現恵庭小)」をこの地に設立,教育に当たった。この寺小屋が恵庭における教育の始まりとされる。

明治21年(1888):同年1月に山森丹宮,中山久蔵から境内地の寄進を受け,3月7日苫小牧中央院の漁村出張説教所として設置。同年5月松樹良光が教員として奉職(明治30年5月まで)。松樹良光師(松前龍雲院,花園道堅師の徒弟)は,明治35年正式に来村し教化に努める。

明治42年(1909):大休悟由禅師から御染筆・金襴袈裟を親授,永平寺御直末となる。

明治44年(1911)9月7日:寺号公称(天瑞山大安寺)を許可される(同年2月出願)。本堂,庫裏を建設。

昭和5年(1930):大安寺説教所(現北広島市,来広寺)設立。

昭和9年(1934):皇軍戦没者招魂供養之碑建立。

昭和16年(1941):大安寺説教所(現千歳市,大禅寺)設立。

昭和33年(1958)6月:大安寺付属「リズムの学園恵庭幼稚園」設立。

昭和42年(1967):本堂再建。

昭和43年(1968):開創80周年,本堂落慶法要。

昭和45年(1970):婦人会結成。

昭和52年(1977):梅花講設立,庫裏建設。

昭和53年(1978):開創90周年,庫裏落慶,

昭和59年(1984):納骨堂(常照殿)一期建立。

昭和62年(1987):納骨堂二期建立,山門建立。

昭和63年(1988):開創百周年,山門・納骨堂落慶。

平成12年(2000):地蔵堂建立。

平成25年(2013):新本尊(釈迦三尊像)鑿入れ式。

参照:恵庭市史,大安寺HP

  

◆曹洞宗

曹洞宗とは何か? 禅宗の一宗派である(日本では,曹洞宗,臨済宗,黄檗宗などが代表的宗派)。道元禅師(1200-1253)が鎌倉時代に宗の国に渡り,天童山で天竜如淨に師事,1226年に帰国して伝道したことに始まる。当時,「臨済将軍曹洞土民」の言葉があったそうだが,臨済宗は武家政権に支持され,曹洞宗は地方豪族や下級武士,一般民衆に広まった。

祖師:道元禅師(中国から日本へ伝えた),瑩山禅師(全国に広めた)を両祖とする。

本尊:釈迦(釈迦牟尼仏。本来禅宗では特定の本尊を持たず仏殿正面には釈迦如来像や菩薩,脇には達磨大師や開山祖師の像を祀る)。

経典:釈迦の悟りの体験を重視するため,経典への拘りはない。慣習として,「大般若波羅密多経」等が唱えられる。

教義:只管打坐(しかんたざ,ひたすら座禅すること),修行の方法は座禅であるとする。臨済宗は座禅を悟りに達する手段と考え,座禅中に公案を思索する(公案禅)のに対し,曹洞宗は座禅に目的を求めず黙々と壁に向かって坐禅する(黙照禅)。「修行の結果,仏になるのではなく,修行することが仏の行」と教える。

本山:永平寺(福井県,道元禅師開山),總持寺(横浜市,瑩山禅師開山)

所属寺院は15,000寺,1,200万人の檀徒を抱えると言われる。

なお,恵庭にはもう一つ曹洞宗系の「龍仙寺」(恵庭市有明町,北広島市龍仙寺別院)が平成12年に活動を始めている。

<座禅>

曹洞宗は「只管打坐」と言うが,そもそも座禅とは何か? 座禅は,体と心を正しい形に調え背筋を伸ばして座り(息を深く吸い,背筋を伸ばして左右対称な姿勢をとる),美しい心の形を合掌で表す(掌をぴったりと合わせ,肘を張って指先を鼻の頭とほぼ同じ高さにする)ことだと言う。精神を統一し,無念無想の境地に入り悟りを求める。座禅の作法である。

忙しい時代を生きる我々には,無私の時間,無念の境地が必要かもしれない。門前に立ってそう思った。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家や信者の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の寺-1,恵庭の古刹 「千歳山天融寺」(真宗大谷派)

2015-02-21 16:45:09 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「寺院」の章

恵庭開拓の時代,移住した人々は小さな祠(郷里の神社から分霊を得た)を祀り,春には五穀豊穣を祈り,秋には収穫を感謝した。もう一つ,開拓者の拠り所となったのは,祖先を祀る寺院であったに違いない。開墾作業の過労や馴れない寒さに病気で亡くなった人も多く,葬儀の執行が必要であった。

一方,開墾に取りかかったものの,子弟教育の場所がないことには困惑した。移住者たちは土地を提供し寺を建て(最初は説教所であった),僧侶に読み書きなど初等教育を依頼したのは必然だったろう。いわゆる寺小屋である。分教場(小学校)が出来るまで幼児教育の役割を担った寺院は道内にも数多い。

そして,開拓から140年。恵庭は人口が増加し,市街地が拡大し,経済規模も大きくなった。しかし足元を見れば,高度成長の時代は既に終焉し,老齢化,少子化が進んでいる。今や開拓以来の苦労を知る人もない。平成の世は安寧の時代のように見えなくもないが,一方では経済格差の拡大,テロリズムの横行,温暖化と異常気象など不安に満ちた時代でもある。将来が見えにくい時代だからこそ,個々人がどう生きるかを問われよう。自然環境を大事にすること,歴史や文化を大事にすること,個の心を大切にすること等々が,今まで以上に大切になって来るだろう。

神社仏閣を巡る時間があっても良い。

と言うことで,恵庭にある寺院を訪ねることにする。恵庭にはどんな寺院があるのか? 開創は? 宗派は? その歴史は? 恵庭散歩の一章である。

 

  

 

1.千歳山天融寺(ちとせざんてんゆうじ),真宗大谷派(東本願寺)

所在地は恵庭市上山口,国道36号線を札幌方面から進むと恵庭バイパスの漁川大橋を渡った左側にある。道の駅「花ロードえにわ」の漁川対岸である。JR恵み野駅(またはJR恵庭駅)から約1.8km,徒歩で22分ほどの距離にある。

この寺を訪れたのは,立春が過ぎ,久々に春の陽射しを感じる日の朝だった。国道36号線に面した駐車場に車を停め,山門に向かった。朝日が当たる門柱は質素なレンガ造りで,北海道の開拓時代を思い起こさせる。境内には,櫟,銀杏,櫻,柳など木々が繁り,正面に本堂が望める。山門を入ると,左手には親鸞聖人行脚像,鐘楼堂がある(写真は2015.2.20撮影,以下同じ)。散歩中のご夫妻が,何時もそうしていると言うように,自然な仕種で親鸞聖人像に手を合わせ通り過ぎた。

さらに進み,駐車場につながる道路側には納骨堂「無良寿堂」と本寺の開基「淨華院之碑(明治四十三年四月二十日新羅天融)」が建っている。また,右手には会館「光照殿」が配置されているが,モダンな造りだ。天融寺HPには,会館「光照殿」,新納骨堂「第二無量寿堂」,新書院(客殿)などが平成時代に完成とある。この寺には,開拓時代以来の古い歴史と新しさが混合した空間がある。第二無量寿堂も絵になる建造物だ。

話は変わるが,現在恵庭市民会館の東側,会瀬洞門通りグリーンベルトにある「山口県人恵庭開拓記念碑」は,この寺の境内から移転再建したものである。碑の基石には,「山口県移住者の子孫は,恵庭の礎となった先人の苦労を偲び偉業を讃えるため,明治44年(1911)11月3日天融寺境内に記念碑を建立した。現存の碑は,当初の碑が損傷著しくなったため,昭和31年(1956)10月8日この地に再建されたものである」とある。本寺が開拓と共にあったことを伺わせる史実である。

本寺の開創は,明治19年(1886)現在地に説教所が開かれたのが始まりとされる(天融寺HPによる。恵庭市史には,明治20年5月東本願寺札幌別院が派出布教にあたったのが始まりで,明治23年浄土真宗大谷派説教所を漁村に設置とある)。明治19年と言えば,山口県岩国・和木地方から団体移民40戸が漁川沿いに入植した年で,恵庭開拓への団体移住初年に当る。このことから考えても,本寺は恵庭における最古寺の一つと言えよう。

<北海道有形文化財指定の御本尊>

この寺では,御本尊に触れねばなるまい。御本尊は「阿弥陀如来立像」,昭和34年2月24日北海道の有形文化財に指定されている。天融寺HPから引用すると,「本像は明治38年,天融寺開山新羅天融が京都市本町の仏工田中文弥(定朝法印38世)より譲り受け,本山の点検裏書を受けて天融寺として安置したものである。・・・おそらく新羅天融は明治36年から37年にかけてご本尊を求めて上京し,この御木像に巡り合い,天融寺へ請来したものと思われる」とある。また,北海道教育委員会「道指定文化財概要一覧(有形文化財)」によれば,「ヒノキ材寄木作りの漆箔像で百毫と眼(玉眼)に水晶が用いられています。左肩から右肩をおおっている衲衣のひだ,ふっくらとした顔,両手の肉付きなどが鎌倉時代の代表的な仏師法印運慶の作風を伝えており,その門人法眼安阿弥快慶の作と言われています。修理の際,鎌倉時代に造られたことを示す建保2年(1214)と記された文書が体内から発見され,製作年代が明らかにされた像として注目されています。像の高さは77.5センチメートルあります」と説明されている。

一般公開されていないが,写真を見ると,その姿は気品にあふれ,ふくよかで美しく,非常に荘厳である。

天融寺では,元旦慶讃法要,新年交礼法要,永代経法要,婦人会報恩講,春・秋季彼岸会,お盆法要,宗祖聖人報恩講,秋初穂感謝法要,御正忌法要(親鸞聖人祥月命日),大晦日夜の鐘などの年中行事に加え,各月の4日と27日は定例布教日として法座が開催されている。

◆千歳山天融寺の概要

所在地:恵庭市上山口

本尊:阿弥陀如来立像(像高77.5cm,檜漆箔,明治38年に開山新羅天融が京都の仏工田中文弥から譲り受け,本山の裏書を受けて本尊として安置した。胎内文書から,建保2年(1214,鎌倉時代前期)仏師安阿弥陀仏快慶の作とされてきたが,作風から運慶派の作品だろうとされる。昭和34年,北海道有形文化財に指定される)

開創:明治19年

歴代住職:新羅天融(開山),宮本教順(第二世),宮本龍音(第三世),宮本哲雄(第四世),宮本正尊(第五世,現職)

沿革(歴史)

明治19年(1886):現在地に説教所が開かれる(天融寺HPによる。恵庭市史には,明治20年5月東本願寺札幌別院が派出布教にあたったのが始まり。明治23年浄土真宗大谷派説教所を漁村に設置とある)。

明治37年(1904)8月8日:「千歳山天融寺」の寺号公称が許可される(明治27年4月に公称出願しているが許可されず,明治35年11月に再出願した)。

明治40年(1907)4月:旧本堂,庫裏など完成。

昭和3年(1928):鐘楼堂(現)完成。

昭和14年(1939):本堂(現)新築完成(昭和12年2月改築出願,同3月10日許可)。

昭和35年(1960):旧納骨堂完成(天融寺HPによる。恵庭市史には昭和34年12月とある)。

昭和39年(1964):書院と渡り廊下を改築。

昭和46年(1971):庫裏の改築及び会館新築完成。

昭和61年(1986):天融寺開教百年慶讃法要。

平成7年(1995):新納骨堂(無量寿堂)新築完成。

平成9年(1997):新書院(客殿)完成。

平成23年(2011):会館「光照殿」,新納骨堂「第二無量寿堂」完成。

なお,宮本正尊住職から「天融寺の歴史等については,近く発刊予定の天融寺寺誌に詳しい」と伺いました。

参照:恵庭市史,天融寺HP,北海道教育委員会「道指定文化財概要一覧(有形文化財)」

   

 

◆日本の仏教

ここで,仏教について概観しよう。「仏教」はインドの釈迦(釈迦牟尼の略,ゴータマ・シッダッタ,紀元前5~7世紀)を開祖とする宗教。人の一生は苦しみの連続,その苦しみから抜け出すのが解脱で,修行により解脱できるとする理念を基本とする。

日本への伝来は飛鳥時代とされる(538年とする説)。伝来後に混乱はあったものの,奈良時代には国家鎮護の手段とされ,次第に寺院が大きな力を発揮するようになる。平安時代に入り,最澄と空海が唐から戻り天台宗と真言宗を開くと,鎮護国家の仏教としての役割を持つ一方,民衆救済の実践仏教として次第に広まり定着して行った。

そして,鎌倉時代には,鎌倉新仏教と呼ばれる,浄土宗(法然),臨済宗(栄西),曹洞宗(道元),浄土真宗(親鸞),日蓮宗(日蓮)など,日本独自の仏教宗派が成立する。念仏か禅か題目かどれか一つの行を積めば救われるとする教えは分かりやすく,民衆の心を掴んだのだろう。これら宗派が現代に連なる日本仏教の源となっている。

文化庁「宗教統計調査結果」(平成24年12月31日)によれば,仏教系宗教法人は全国に77,400法人(寺院75,911,教会993,布教所82,神社24,その他390)あり,法人格を得ていない団体を含めばその数は85,238に上る。また,信者数は8,500万人とされる。

◆真宗大谷派(東本願寺)

それでは,真宗大谷派とは何か? 真宗大谷派は親鸞を宗祖とする浄土真宗の宗派の一つで,京都市の真宗本廟(東本願寺)を本山とし,所属寺院数が全国で8,900寺を数える大きな教団である。なお,浄土真宗系の教団組織(真宗教団連合,10派で構成)には,もう一つの大きな宗派である浄土真宗本願寺派(通称西本願寺)がある。後者は,龍谷山本願寺(大谷祖廟)を本山とする。前者は「お東さん」,後者は「お西さん」と親しみを込めて呼ばれている。

宗祖(開山):親鸞(1173-1262),第三代覚如(1271-1351)が本願寺の実質的開基とされる。

本尊:阿弥陀如来(一仏を本尊とし,寺院に安置する影像は親鸞聖人や高僧,歴代門首など)。

本山:真宗本廟(東本願寺,京都)。

経典:釈迦が説いた「浄土三部経」(中でも仏説無量寿経)や親鸞の著述。

教義:本願念仏による往生を説く。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土へ生まれることが出来るとする専修念仏が基本理念である。

各種資料によると,真言宗大谷派の作法は以下のとおりだと言う。専修念仏の理念から,出家しなくとも阿弥陀仏の本願を信じて肉食妻帯(在家仏教)を認め,迷信や占いを排除してお守りや朱印を扱わず,戒名でなく法名(釈○○,釈尼○○,釈を冠するのは釈迦の弟子を意味する),位牌を用いず過去帳や法名軸を掛け,焼香は2回するが額の前で香を頂く作法をせず,線香は立てず折って寝かせ,般若心経を読まずお盆にも精霊棚を設けず,ひたすら念仏を唱える,等々。

組織は大きく布教活動も多岐に亘っている。学校法人,大谷保育協会(全国に500の保育所をもつ)などの実績は,私たちの知るところである。

恵庭市内では,千歳山天融寺(恵庭市上山口)と恵庭山島松寺(恵庭市下島松)が真言宗大谷派である。

注意:わが国の寺院は,檀家と呼ばれる信者を抱え,先祖を供養する一方経済的基盤を檀家の財施に依っている場合が多い(檀那寺)。一般の方が境内へ立ち入るときは,許可を得るなど礼節を重んじること。


恵庭の神社-5,恵庭開拓期以前の神社 「弁天社」「稲荷神社」

2015-02-03 10:16:52 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「神社」の章

前回まで,恵庭にある4神社を紹介したが,いずれもこの地を開拓した先人達が祠を建て五穀豊穣を祈願したのが創祀となっている。開墾の辛苦の中で開拓民の心の拠り所となったのが神社であったのだろう。この時代(明治)は,私たち民族に神を崇拝する気持ちが根強くあった。

それでは,恵庭の開拓が始まる以前はどうだったのか? カリンバ遺跡で知られるように,3~4000年前には縄文人が住んでいた。更に,鎌倉から江戸時代の頃(800~140年前)はアイヌ文化が栄えていた。彼らの宗教観はどうだったのか? また,阿部屋仁兵衛や山田屋文右衛門が漁太に漁場を設けた頃(場所請負制度の時代,江戸末期),彼らはこの地に神社を祀ったのだろうか? 

5.恵庭開拓期以前の神社

5-1 縄文時代

縄文時代の宗教観は精霊信仰(アニミズム)であったと考えられている。自然界の諸事物に霊魂,精霊が宿るとする概念である。縄文人は採集狩猟によって暮らしていたので,生死に関わる程の厳しい外圧(飢餓)を常に自然から受けていた。この外圧が,精霊信仰を育てたと言える。然る状況下では生命の誕生と死が特に重んじられ,生活の中の儀式として形式されて行く。例えば,妊婦の形をした埴輪がある。また,屈葬と言う埋葬形式が見られるが,これには死者が蘇るのを恐れた,子宮内の胎児の姿から再生への願望を表現したなどの意味があると解説されている。

アニミズムは日本だけのものではない。アフリカでも,中南米のインカやマヤの世界でも見られる現象である。人類は自然と対峙し,自然を崇めることから宗教心を得ていたのだろう。

5-2 アイヌの宗教

アイヌの宗教観も万物に霊魂を認めるアニミズムが基本である。最高の統一神を立てず,神と人間,自然と人間が共存する世界を考えている。熊,狐,鳥や魚も神の仮の姿で,神の国から人間界に来ているのだと考える。従って,死して神の国へ帰る熊送り(イオマンテ)の儀式や家屋葬送などに祭祀の特徴が表れている。また,シャーマニズムがあったことも想像に難くない。

5-3 漁太にあった「弁天社」「稲荷神社」

江戸幕府の時代,松前藩の統治や場所請負制度で蝦夷地に倭人が入るようになると,アイヌとの商売が始まる。当時の主な交通手段は川であったから,この地方でも漁太などに船着き場が形成された。弘化3年(1846)松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」には,「イザリブトには弁天社,蔵々あり」の記述があると言う(恵庭市史)。また,明治初年の太政官「神仏判然令」には,漁太に「弁天社」と「稲荷社」があったと記載されている(恵庭市史)。

弁天(弁財天)は,河川の女神とされる。日本各地でも弁天社が水辺に多く存在するのは,河川神であったからであろう。漁太に「弁天社」が祀られたのも頷ける。漁業の隆盛と交易の安全を祈願したものだろう。弁天(弁財天)は財福の神として,七福神の一人として信仰される。

稲荷神社の存在は山田屋の守護神であったことによると言う。山田屋文右衛門は文化2年(1805)漁太に漁場を開設し,「稲荷神社」を祀った。恵庭市史では,既存の弁天社に稲荷を合祀したのではないかと推察している。その後,大正13年(1924)になって稲荷神社は恵庭神社に合祀された。

5-4 盤尻の「神明社」「水天宮」

盤尻の開拓時代のことである。恵庭市史によると,盤尻に「神明社」「水天宮」が祀られたとある。その後,これらの神社はどうなったのか?

「神明社」は,明治39年(1906)に祭神を天照大神として,漁村字盤尻885番地の1に祀ったのが創祀で,昭和41年(1966)に御陵神社を合祀していたが,昭和47年(1972)になって豊栄神社に合祀された。

「水天宮」は,昭和2年(1927)10月20日に祭神を水波能女神として,漁村字盤尻744番地に祀られたとある。恵庭市史では,「水天宮」の管理が北電発電所主任となっていることから,発電所の建設と関係があるのかもしれない(当別電気(後の北電)が漁川に発電所を建設。昭和3年には王子製紙が恵庭発電所を完成)。その後の存在については確認していない。春になったら訪ねてみようと思う。

5-5 神社本庁包括以外の神社

神社本庁に包括されない単立社や未公認神社は数多くあり,整理できないので,ここでは取り上げない。ただ,恵庭市内にも,天理教分教会,金光教教会,立正佼成会道場,出雲大社三神協会,等々の看板が街角で見かけられ,インターネット上でも所在地情報が発信されていることに鑑みれば,これら信者の裾野も広いのだろう。

◆神道

ふるさと恵庭の歴史を探訪する一環として,恵庭の神社を紹介してきた(本ブログ「恵庭の神社-1~5」)が,最後に神道について触れねばなるまい。

神道は古代日本に起源を辿ることが出来る。日本起源の日本に根付いた宗教と言えるだろう。自然や自然現象,古代神話に登場する祖霊たる神,偉人などを祀る多神教である。講談社の日本語大辞典1998によれば,「日本固有の民俗的信仰。自然崇拝や祖先崇拝,天皇を中心に営まれた国家的祭祀から民間の信仰行事まで,さまざまな信仰形態を含む。教義体系は外来の仏教や儒教の影響を受けつつ立てられた。随神の道」とある。そして,神と人間とを結ぶ作法が祭祀であり,その祭祀を行う場所,神が鎮座する場所が神社ということになる。

神道は,皇室神道,神社神道,民族神道,教派神道,古神道,国家神道のように分類されるというが,よく分からない。むしろ,「祭り型」「教え型」に大別されると聞けば,そうかなとも思う。

日本国内で85,000の神社があり,約1億600万人の支持者がいるとの記載がある(宗教年鑑)。しかし,支持者の数は神社の自己申告であり確定的なものではないだろう。一方,日本人の7割程度は無信仰とのアンケート結果があるそうだ。

宗教は何かと問われた時,私たちは時に応じて「無信仰」「神道」「仏教」と使い分けて応える。強い信仰心は無いけれど,季節や人生の節目には神に祈り,五穀豊穣を願って神を祀り,祖先を敬う気持ちで仏を拝む。ゆるい信仰心で,神道と仏教の双方を信じている(キリスト教や他宗教の方も勿論いらっしゃるが)。ゆるい信仰心は多神教に通じるものだろう。アニミズムのDNAが残っているのかもしれない。

宗教の歴史は,権力者の統治手段に利用された歴史である。宗教戦争があり,権力闘争から分派が繰り返され,或いはまた狂信的な集団が他を排除する歴史であった。そう考えると,無信仰と言われるような「緩やかな信仰心の時代こそ平和な時代」ということにならないか。多様な宗教が平和共存するためには,信仰心は緩やかに,複数の信仰心を抱えるもよし,他教の存在をも認める度量が必要だろう。今の日本のように,「無信仰」と言いながら,人々の心に「神道」「仏教」等が曖昧に存在する現象は,案外良い形なのかもしれない。

無信仰と頑なに考える人も,神社・仏閣・教会に詣でてみたらよい。無心に祈る「行為」の中に,或いは古い建物に,人類が辿った歴史の重みを感じることだろう。境内の荘厳さに触れることは,乾いた砂漠の恵雨のようなものだ。

念のため,日本国憲法第二十条には,「信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある。

(写真は伊勢神宮を詣でる人々,2009.2.14)


恵庭の神社-4,柏木・北柏木・柏陽地区が祀る 「柏木神社」

2015-02-02 10:58:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「神社」の章

旧国道36号線に面して鳥居が建っている。奥には小さな神殿が見える。境内には柏木中央会館があり,境内の広場は駐車場を兼ねている。市内を横切る旧国道の交通量は減少したとはいえ,かなりの車両が門前を行き交っている。

柏木神社に参拝したのは,日中に溶けた雪が寒波で凍りついた冬の朝だった。柏木神社の境内は一面池のように凍っていた。慣れないスケート靴を履いた幼児のように歩を進めて,神社に詣でた(写真は2015.1.28撮影)。

 

4. 柏木神社(かしわぎじんじゃ)

柏木神社,昭和47年までは相馬神社と呼んでいた。所在地は,恵庭市柏木町3丁目18番地。道道江別恵庭線(旧国道36号線)に面して,葬儀場メモリアル香華殿の近くにある。境内には柏木中央会館がある。

祭神は,天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)。日本神話の神で,天地開闢に関わった別天津神の一柱とされる。

本神社は,札幌市平岸にある相馬神社分霊を勧進し,農業の守護神として開祀したのが始まりであるが,相馬神社はもともと妙見社の系列であった。即ち,天のはるか彼方に隠れていた天之御中主神が日蓮宗の妙見菩薩と同一視されるようになり,庶民の信仰対象となったのである。明治時代の神仏分離により,妙見社系の神社は祭神を天之御中主神に統一した経緯がある。

ともかく,「妙見菩薩」は長寿,息災,招福のご利益があり,眼病の神としても信仰が篤いとされる。恵庭市史によると,馬の疫病が蔓延したので,札幌市平岸鎮座相馬神社の分霊を勧請したとあるが,通じるものがあろうか。また,境内の「柏木神社略記」には,御神徳の項に,天地自然万物の生成発展を主宰する神,宇宙根源の大元霊神であり,五穀農耕の粗神であり開運厄除,衣食住守護,諸業繁栄を司され,水の徳顕著で生命を守護されるとある。

社殿は「流造」(全国で最も多い本殿形式)。構造は,切妻造(山形の形状をした屋根)・平入(棟と並行する側に入口)であるが,側面から見た屋根形状は対称形ではなく,正面側の屋根を長く伸ばしている。屋根には大社造同様の優美な曲線が与えられる特徴がある。恵庭市内の他の神社は,直線的な外観の神明造であるもで,この様式は珍しいかも知れない。

氏子は恵庭市柏木地区・北柏木地区・柏陽地区とあり,これら地区の神社なる位置づけであろうか。確認はしていないが,地区代表が氏子総代を勤めるような形態なのか。境内の柏木中央会館は恵庭市地域集会施設に指定されており,境内広場も恵庭市の災害時一次避難所に指定されている。また,神職は常駐しないが,創祀の経緯からみて相馬神社(札幌)の宮司が祭祀を司っているのだろう。

この神社の立ち位置(組織形態)を示すように,神社及び境内は極めてシンプルな印象を受ける。

柏木神社の概要

所在地:恵庭市柏木町551番地

祭神:天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)

創祀:明治41年(1908),柏木神社資料では明治45年3月15日創立としている。

祭礼日:9月第二日曜日

社殿様式:流造

由緒(歴史)

明治41年(1908)11月3日:馬の疫病が蔓延したので,川上基松,長岡栄次郎,田原玉次郎らが発起人となり,札幌市平岸鎮座相馬神社の分霊を勧請し,恵庭村字柏木545番地に祀った。

明治42年(1909)9月10日:本殿造営(10坪)。

明治45年(1912)3月15日:川上基松氏が境内地440坪を寄進し,平岸相馬神社の遥拝所として創立登記する。恵庭(柏木)相馬神社。

昭和11年(1936):本殿改築,社務所兼公会堂(26坪)を設置。

昭和47年(1972):恵庭(柏木)相馬神社から柏木神社に改名。

昭和52年(1977):鳥居設置(鉄管)。

昭和57年(1982):老朽化のため社務所兼公会堂を取り壊し,恵庭市の地域会館兼社務所を設置。

平成6年(1994)10月21日:平岸相馬神社から独立し,宗教法人格を取得。

平成11年(1999)11月25日:神社本庁所属神社成立。

平成12年(2000)5月29日:相馬神社から境内地及び建物の所有権譲渡成立。

参照:恵庭市史,北海道神社庁公式HP(2015),柏木神社案内板


恵庭の神社-3,島松住民と共にある 「島松神社」

2015-01-31 13:48:49 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「神社」の章

「恵庭の碑」を探し求めて,昨年この島松神社を訪れたことがあったので(本ブログ「恵庭の碑-5」2014.12.10),所在は知っていた。今回は,年が明けての参拝である。訪れたのは,前日の大雪が残る或る日の早朝だった。拝殿までは脇の公道から除雪された道が通じていたので行くことが出来たが,鳥居のある本殿正面は雪に埋もれていた。

 

 

3.島松神社(しままつじんじゃ)

所在地は,恵庭市島松本町4丁目3番地(JR島松駅の東方向,徒歩で8分ほどの所)。下島松地区に接し,市街地南東角の一画である。三方を住宅に囲まれているが,閑静な環境である。

祭神は豊受大神(豊宇気姫神とも)。古事記に登場し,伊勢神宮の外宮に祀られている事でも知られる。「ウケ」は食物のことで,食物・穀物を司る女神とされる。この地は,開拓の時代から農業に従事する人々が多い地域で,春には五穀豊穣を祈願し,秋には収穫を祝う祭りが執り行われてきたことだろう。明治26年,島松地区の住民が祠を建て,天照皇大神及び豊宇気姫神を歓請して祀ったのが始まりで,明治34年に神社創建が認可されている。

社殿は「神明造」148m2(写真は2014.12.4,2015.1.28撮影)である。伊勢神宮に代表される古い神社建築様式で,直線的な外観が特徴である(両国国技館の吊り屋根もこの形)。北海道神社庁HPによると,氏子世帯数13,000世帯,崇敬者1,700人とある。島松地区住民にとって身近な神社と言うことだろうか。

境内には,菱型石の忠魂碑が建っている(写真は2014.12.4撮影)。忠魂碑の右肩に彫られた文字は風化して(削られたのか)読めない。恵庭市史によると,明治37~38年戦役における記念碑として建設されたとある(明治四十一年九月十八日建之と基石に刻まれている)」。なお,忠魂碑を囲む石柱によれば,この忠魂碑は昭和九年七月七日移転改築されている。

神職は常駐しないが,祭祀は北広島にある神社の宮司が兼務し斎行すると聞いた。

 

島松神社の概要

所在地:恵庭市島松本町4丁目3番地

祭神:豊受大神(とようけのおおかみ)

旧社格:無格社

創祀:明治26年(1874),北海道神社庁HPでは明治34年(1901)

祭礼日:9月17日

社殿様式:神明造

由緒(歴史)

明治26年(1874)9月1日:島松地区住民が島松村539番地(西七線南二十号)に祠を建立,天照皇大神(伊勢神宮より分霊)及び豊宇気姫神(伊勢神宮外宮より分霊)を歓請して祀った。

明治34年(1901)9月25日:氏子総代原田三十郎らが島松村ルルマップ193番地へ島松神社の創建を申請,同年10月2日認可,本殿及び拝殿を建立(恵庭市史による。北海道神社庁HPでは同年8月25日社殿落成,一社創立の出願を9月25日提出とある)。

明治36(1903)7月30日:境内地を島松村529番地の2へ変更移転の出願,同年10月30日許可。

昭和6年(1931)6月2日:社殿改築を出願,同年9月3日許可,同月15日竣工。

その後,社殿は改築されていると思われるが資料を見ていない。

参照:恵庭市史,北海道神社庁公式HP(2015)

  

この神社は,市街地にある公園のような雰囲気だ。境内には広場があり駐車場になっているが,祭の催しの出来る空間でもある。また,境内に土俵がある。何処の神社でも昔は,秋祭りに奉納の腕白相撲が行われ賑わったものだ。今も続いているのだろうか。


恵庭の神社-2,加越能開耕社ら移住者が創祀した 「恵庭神社」

2015-01-30 09:49:17 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「神社」の章

恵庭から長沼に通勤していた頃,基線通り(道道45号線)でなく川沿大通り(漁川に沿って)をしばしば通ったので,恵庭中央パークゴルフ場の近くに,鬱蒼とした杜があることは知っていた。季節によって,森の奥に小さな社殿が垣間見え,周辺には畑が広がる地帯である。村人たちが祀る神社(鎮守の杜)だろうと想像はしていたが,車を停めて立ち寄ることもなかった。

冬のある日,この神社を参拝した。道路脇,鳥居の近くに「恵庭神社,千歳郡恵庭村大字漁村鎮座」の石柱が建っている。鳥居をくぐると静寂に包まれる。社殿に向かう新雪には,狐の足跡が一直線に伸びていた(写真は2015.1.24撮影)。

 

 

2.恵庭神社(えにわじんじゃ)

所在地は恵庭市中央10番地。恵庭からは漁川に沿って走る「川沿大通り」を北上し,恵庭中央の交差点(信号)を直進し,春日地区との境界信号の手前左側(漁川との間)にある。北海道神社庁HPでは,JR恵庭駅から車で15分とあるが,JR島松駅からの方が近いだろう。

祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ),稲荷大神(いなりおおかみ),春日大神(かすがのおおかみ)を合祀している。ここで,天照大神(神宮においては通常,天照皇大神という)は日本神話に登場する神で,皇室の祖神,日本民族の総氏神とされる。天照大神を祀る神社を神明神社といい全国各地にあるが,その総本社は伊勢神宮の内宮である。また,稲荷大神は稲荷大明神,お稲荷さんとも呼ばれ,本来は穀物・農業の神であるが現在は加えて産業全般の神・屋敷神とされる。春日大神は神道,武道の神である。

この神社は,加賀,越中,能登からの移住者が郷里で信奉していた祭神を奉斎したのが始まりで,さらには合併によりいくつかの神が合祀された歴史を有する。例えば,大正年間に漁太にあった旧稲荷神社を合祀しているが,この旧稲荷神社は江戸時代(場所請負制度時代)山田文右衛門が祀ったものと思われる。

境内に立つと,開拓に苦労し,地域の発展に尽力した先人たちの魂の叫びが聞こえるようだ。昔ながらの鎮守の森が残っている。この神社は,開拓の時代から現在まで,村人の祀りごとに深く係わってきたのだろう。

社殿は神明造(社殿面積33坪)。伊勢神宮に代表される古い神社建築様式で,直線的な外観が特徴である(両国国技館の吊り屋根もこの形)。北海道神社庁HPによると,氏子世帯数が250世帯とある。

神職は常駐しないが,豊栄神社(恵庭市大町)の宮司が兼務する。

 

                                      

恵庭神社の概要

所在地:恵庭市中央10番地

祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ),稲荷大神(いなりおおかみ),春日大神(かすがのおおかみ)

旧社格:村社

創祀:明治26年(1874)

祭礼日:9月15日

社殿様式:神明造

由緒(歴史)

明治26年(1874)9月:加越能開耕社を中心とする,加賀,越中,能登の人々が移住し,永住の地とするにあたり西三線南十五号の漁川堤防地に神籬を祀り,千歳神社の社掌溝口五左衛門を招いて祭事を行った(恵庭市史による。北海道神社庁HPでは春日大神を奉斎し春日神社を創建とある)。

明治28年(1876):漁村十七号の堤防地に祠を建立し,郷里において尊崇していた神明,稲荷,春日の三社の祭神を奉斎し,春日神社と称した(恵庭市史による。北海道神社庁HPでは島松赤玉神社及び天照大神を合祀とある)。

大正5年(1916):西三線南十九号に移す。

大正10年(1921)9月20日:漁村612番地(現在地)に社殿を改築する。

大正13年(1924):漁太にあった旧稲荷神社と,西三線南十四号にあった赤タモ神社(明治38年赤タモの樹を神木として祀った)を合祀。同6月10日,恵庭神社と改称創建を申請。

昭和2年(1927)10月11日:恵庭神社認可される。

昭和3年(1928)9月10日:村社に列せられる。

昭和21年(1946):宗教法人設立。

参照:恵庭市史,北海道神社庁公式HP(2015)

 

今は市街地から外れているが,明治から大正の時代,鉄道が開設されるまでは,漁川に沿ったこの辺りが生活の中心であったと言えるだろう。村人がこの杜に集ったことを,鎮守の森は見守ってきた。そして今,杜は静寂を湛えている。この杜の静寂こそ,恵庭神社の良い所だ。

貴方も境内に佇めば,時代の喧騒を忘れ静かな時が得られるだろう。


恵庭の神社-1,大国魂大神と豊宇気姫神を祀る 「豊栄神社」

2015-01-29 11:01:22 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭散歩-「神社」の章

私達は,神社とどのような関わりをもって暮らしているのだろう? 

「初詣に行った」「七五三のお参りをした」「結婚式を挙げた」「五穀豊穣を祈願した」「地鎮祭を行った」等々,誰もが少なからず神社参詣を体験している。或いはまた旅の途中で,由緒ある神社に詣で,歴史に思いを馳せ,世界の平和を祈り,穏やかな気持ちになった経験もあるだろう。祭礼儀礼を信仰形態とする神社神道が主体となった現在,大衆の信仰心が薄れても,地方が衰退し村祭りが消えたとは言え,私達の心の片隅には神社を意識する何かが存在する。

新年を迎えたばかりの或る日,恵庭の神社に詣でようと思い立った。

恵庭市内には,北海道神社庁に包括される4神社が祀られている。即ち,「豊栄神社」「恵庭神社」「島松神社」「柏木神社」である。後述するが,これら神社の創祀は北海道開拓と深い関連があり,それぞれの地域に密着した存在である。先ずは,「豊栄神社」を訪ねよう。

 

1.豊栄神社(とよさかじんじゃ)

「とよさかじんじゃ」と読む。所在地は恵庭市大町3丁目6番5号,JR恵庭駅の北東に位置し,駅から徒歩10分,恵庭市エコバスの停留所もある。恵庭中学校,柏木小学校に隣接して東側,旧道に面していると言った方が分かりやすいか。参拝した日は,大雪の後で車道は狭くなっていたが,境内は除雪が行き届いていた。社務所前に駐車スペースがある。

祭神は,大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)と豊宇気姫神(とようけひめのかみ)。大国魂大神官幣大社札幌神社(現北海道神宮)から奉還した祭神であるが,古事記や日本書紀に登場する「大国主」の別称とされる。一方,豊宇気姫神山口県からの移住者が故郷の豊栄神社の祭神豊宇気姫神の分霊を仰いだことに由来する。古事記に登場し,伊勢神宮の外宮に祀られている事でも知られるが,「ウケ」は食物のことで,食物・穀物を司る女神とされる。

創祀は明治7年(1874)で、恵庭で最古の神社である。地域の住民が小さな祠を建て五穀豊穣を願ったのが始まりで,明治19年以降に山口県からの団体移住者が郷里神社の分霊を得て祀った旧豊栄神社が礎になっている。

社殿は「神明造」(写真は2015.1.24,1.28撮影)である。伊勢神宮に代表される古い神社建築様式で,直線的な外観が特徴である(両国国技館の吊り屋根もこの形)。北海道神社庁HPによると,氏子世帯数1万世帯,崇敬者300人とある。恵庭最古の神社であり,市街地にあることから参拝者も多い。

境内には,推定樹齢三千年と称される櫟の大木(径150cm,樹高20m)が神木として植えられている。「昭和四十三年開道百年を迎えるに当たり記念事業として恵庭営林署に乞い受け昭和四十六年八月十八日移植完了す・・・」と説明板にある。記述によれば,「太古の老樹は深山ラルマナイ漁分担区標高500m地にあり神武天皇紀元前と推定され,明治四十二年の山林火災でも唯一生き残り,昭和二十九年の未曾有の大風水害にも堂々としていた。この尊厳の姿を永久に慕って欲しい」とある。

また,境内に「幸せを呼ぶ御柱」(平成22年11月23日奉斎,写真は2015.1.28撮影)がある。平成二十五年の第六十二回式年遷宮にあわせて,伊勢神宮より御神木を頂き奉斎したものだと言う。説明板によると,三本の御柱には「健康(長寿・無病・健やか)」「安全(平穏・除災・無事故)」「繁栄(子授け・招福・愛・志)」の祈願が込められており,神殿に置かれた三つの幸神臼には「子宝」「合格」「成就」の願いを込めて奉斎した,とある。

  

豊栄神社の概要

所在地:恵庭市大町3丁目6-5

祭神:大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)と豊宇気姫神(とようけひめのかみ)

旧社格:村社,郷社

創祀:明治7年(1874)

祭礼日:9月20日

社殿様式:神明造

由緒(歴史)

明治7年(1874)6月15日:移住者が集まり,茂漁386番地(現大町214)の境内に稲荷大神を奉斎する祠を建立し,五穀豊穣を祈念し収穫感謝祭を行った。

明治24年(1891)8月25日:七坪の社殿を建立し,官幣大社札幌神社(現北海道神宮)から大国魂大神を奉還し祭神とする(発起人塩谷栄作,野原久造,山森丹宮ら,氏子23名)。札幌神社の遥拝所として氏子崇敬者の信仰篤く,「絵庭神社」と称す。

明治34年(1901)9月25日:恵庭神社としての公称認可を受ける(8月24日神社創立を出願)。無格社。

明治44年(1911)7月19日:旧豊栄神社を恵庭神社に合祀し,神社名を豊栄神社に変更公称の許可を受ける。(なお,旧豊栄神社は,明治19年以降山口県から団体移住した人々が岩国の郷社である豊栄神社の祭神豊宇気姫神の分霊を仰ぎ,中島501番地に祠を建立奉斎し,明治36年豊栄神社として公称許可されていた神社である。明治39年には社殿の新築もなり,氏子数155戸を数えていた。旧恵庭神社と旧豊栄神社は同一部落であったため,氏子総代相謀り合祀したものである)。この合祀により,祭神は大国魂大神と豊宇気姫神の二柱となる。

昭和9年(1934)8月27日:社殿造営完成。

昭和11年(1936)7月16日:村社列格となる。

昭和20年(1945)10月:郷社に列せられる。

昭和28年(1953)4月13日:宗教法人に認証される。

昭和47年(1972):漁村字盤尻885番地に祀られていた「神明社」(明治39年創祀,祭神天照大神。昭和41年には御陵神社を合祀)を合祀する。

昭和56年(1981)9月:現在の社殿が完成。

昭和58年(1983)4月1日:敬神婦人会設立。

昭和60年(1985)12月:社務所,職舎を改築する。

昭和63年(1988):氏子篤志者から神輿が奉納され,市民青年による神輿を担ぐ会「恵祭會」が発足。

平成4年(1992)9月15日:演舞場,神輿庫,お守所の改築。

平成16年(2004)12月:御鎮座百三十年記念事業として,境内参道の改修と石灯籠12基を設置。

平成17年(2005)6月12日:御鎮座百三十年記念大祭,記念式典斎行。同年9月20日記念誌刊行。

平成22年(2010)11月23日:伊勢神宮から御神木を頂き,「幸せを呼ぶ御柱」を奉斎。

年中行事

1月:歳旦祭,どんど焼き

2月:厄除け祓い,境内にて餅撒き

3月:人形供養祭

5月:春季例祭,境内にて餅撒き

6月:夏越の大祓い式

9月:秋季例大祭(宵宮祭,例大祭・神輿入りの前に境内にて餅撒き,後日祭)

10月:七五三詣

11月:新嘗祭

12月:古神札焼納祭,年越大祓式,除夜祭

 

社務所で,本間后宮司からお話を伺った。豊栄神社は,開拓以来地域住民と共にあったこと,祭司がいる恵庭唯一の神社であること,昔のように子供たちが集えるような神社でありたいこと,等々。

旧道から第一の鳥居を潜り,第二の鳥居を過ぎて参道に立てば,周囲を住宅に囲まれた境内とは思えぬ静寂が訪れる。冬の木漏れ日が参道に映え,神明造の本殿は荘厳である。この神社は,これからも市民の鎮守として崇拝者に応えるだろう。或いはまた,神社を巡る旅人が立ち寄っても良い。不安と憂いを抱える現代人が心の安らぎを求めて参拝するも良い。神職が常駐する神社だからこそ,お祓いや祈願に対応でき,絵馬の奉納,お御籤を引き,護符を求めることが出来る。

礼拝して世界の平和を願った。何故かしら,静寂の底から力が湧き出でるを覚えた。

因みに

日本には約8万の神社があると言う。この数は,文部科学大臣が所轄する包括団体に所属する神道系宗教法人の数であるから,未公認神社を含めれば膨大な数になるだろう。

ここでいう文部科学大臣所轄の包括団体とは,神社を束ねる団体宗教法人で(神社本庁,神社本教,北海道神社教会,本尊御嶽本教,石鎚本教など),全国に約15団体登録されている。中でも「神社本庁」が最大の組織で,組織率が99%を超え,各都道府県に神社庁を配し活動している。

北海道神社庁誌(平成11年)によれば,道内で北海道神社庁所属604社,北海道神社教会所属61社,単立社69社,未公認神社1,925社とある。

参照:恵庭市史,北海道神社庁公式HP(2015),豊栄神社資料(2015)


恵庭の碑-10,新しく歴史に刻む 「拓望」の碑

2014-12-24 16:01:39 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

昭和31年(1956)の「経済白書」に,「もはや戦後ではない」の言葉が使われ(初出は中野好夫,文芸春秋1956.2),当時流行語になった。ここに書かれた真の意味は,「今までは戦後復興ということで成長の伸び代が十分にあったが,戦前の生産水準にまで回帰してしまった以上,この先,この成長をどうやって続けたらよいものだろうか」という,困惑気味なものだったそうだ。ところが実際には,「復興期から脱して,高度成長という明るい未来がやって来る」と独り歩きしてしまう。

事実,この後の昭和時代後半(昭和30~50年代)は,各地に工業団地などが造成され,街の姿が大きく変貌することになる。ここで取り上げた「拓望」の碑は,恵庭工業団地の造成,発展に尽力した方々が,今後の発展を祈念して建立したものである。建設年は平成4年6月。関係者は,昭和44年から始まった工業団地組合の事業完了に際し,「拓望」の言葉を刻み,地域繁栄への夢を託したのだ。

歴史のモニュメントとして,末永く語り継がれることだろう。

 

◆「拓望」の碑(平成4年6月吉日建立,恵庭市北柏木町3丁目)

 

拓望」と刻まれた石碑が恵庭市北柏木町3丁目(柏木工業団地通りの楓球場南側)に建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑表面には「拓望」と大書された文字と恵庭市長浜垣実の名前,裏面には恵庭市工業団地組合による「碑文」が記されている。

碑文を転記する。

「碑文,この地帯はかしわの木と野生スズランが群生する火山灰台地を明治三十年代より先人達が開拓の鍬を入れ幾多の苦難に耐えて実り豊かな農地を築き上げて来たところである。恵庭町が昭和三十九年に道央新産業都市に指定され,この地一帯の約七十八ヘクタールが工業用団地として決定し,これを契機に利便性のよい国道三十六号線沿いに数社の企業が工業用地として取得した。昭和四十四年二月札幌通商産業局の恵庭工業用団地造成調査報告書の趣旨にそって,同年十月地域をより一層発展させる為工業団地組合を設立し,以後二十二年余にわたり六十二社の企業の誘致を見た。ここに事業完了にあたり一同相計り,企業各社の繁栄と郷土恵庭市の発展を念願し記念の碑を建立する。平成四年六月吉日,組合設立月日昭和四十四年十月十六日,総面積七七八二四八.一二平方米,組合員十六名,恵庭市工業団地組合」

また,基石には工業団地組合の役員ほか組合員氏名(組合長平野貞雄,副組合長渡辺茂治,会計五束道信,理事中島正雄,理事山本継三,監事柴田稔,監事山本渉,組合員山岸貢ら9名,及び物故組合員元組合長松本定見ら7名)と建立年月日(平成4年6月)が記されている。