麒麟琳記〜敏腕Pの日々のつぶやき改題

還暦手前の身の回りのこまごま。
スポーツや映画演劇など。

補フェニックス(前半)

2017年12月22日 | スポーツ
前二回の補足。
フェニックスのではなく、
寧ろ「アメフト」の、です。

なにげにQBとか書きましたが、
「クォーター・バック」という
野球でいえばピッチャー、
ラグビーならスタンドオフ的な
「花形」のポジション。
通な人はあえて略語で言うけども、
「キュービー」じゃなく「ケービー」
って発音するのが、素人には
ちょっとカチンと来たりします。

てか、そもそもアメフトって?
から始めてしまおうか……。
イメージとしては矢鱈沢山いる、
と多くの方々が思っているかと。


「フットボール」と言うだけに、
実は、フィールド上には11人。
(1チームね、念のため)

ただ攻撃と守備でチームが替わるし、
かつ自由交代だからワンプレー毎、
例えば前述のQBも替わって良い。

乱暴にいえば、一人の打者に
一球ずつ投手が違って良いルール。

更にキッキングチームもある。
けど、もうこのあたりは省略しよう。

と、でも。前回のブログの
「2ポイントコンバージョン」だけ
ちょいと解説。
ラグビーのトライに当たる
タッチダウン(6点)のあとに
キックで1点が更に加わるのですが、
蹴らずに、再度タッチダウンを狙い
成功すると2点が入るルールのこと。

そんな競技を日本に伝えたのは、
岡部平太(1891~1966)。
福岡出身で、東京高等師範学校
(現・筑波大)に進学。
その際に講道館にも入門して、
圧倒的強さを誇った柔道家でもある。
卒業後渡米。陸上、水泳、バスケ等
とともにアメフトも学び、彼が自著
『世界の運動界』の中で解説。
これがアメリカン・フットボールの
国内最初の学術的な記述と言われる。
大正時代のことだ。

初めての公式戦は1934(昭和9)年。
立教大学のポール・ラッシュ、
明治大学・松本瀧藏(ともに教授)
を中心に神宮外苑球技場で、
学生選抜と横浜在留人が対戦。

彼らと日系二世らで設立した
「東京学生米式蹴球競技連盟」は
立教、明治、早稲田のまず三校から。

現在、日本の頂点を決する
「ライスボウル」の最優秀選手には
日本のアメフトの父と称される
ポール・ラッシュ杯が授与されるが、
立教のチーム名も彼にちなんで
「セント・ポール・ラッシャーズ」。

そのホームページによれば。
1934年、立教対明治の対戦から
日本のアメフトの歴史は始まり、
1951年の甲子園ボウル初制覇。
出場6回、うち優勝4回という
輝かしい成績を残しています。
と。

ちなみに「甲子園ボウル」は
大学日本一を争う1947年からの
タイトルだが「ライスボウル」が
長い間、東西学生オールスター戦
(1948~82年)だった点から、
実質、日本一を決める大会だった。

その第6回から9回に連続出場し、
15、20回も。うち4度の優勝。
相手はすべて関西学院大学で、
65年は両校優勝。そしてこれが
最後の甲子園ボウルとなっている。

かたや明治大学グリフィンズ。
甲子園ボウル出場は5度。
まだ優勝はないが、立教とともに
「ルーツ校」を名乗るだけに、
第2回(48年)に初進出を果たして
以後、68、75~76、85年と
コンスタントな成績を残している。

【ハーフタイム】


コメント
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