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読書日記

いろいろな本のレビュー

「笛吹き男」の正体 浜本隆志 筑摩選書

2025-01-30 14:50:37 | Weblog
 「笛吹き男」とは、ハーメルンに伝わる伝説で、見知らぬ男が町に現れ、笛を吹いてネズミを集め退治するが、住民が約束の報酬を支払わないことに怒り、町中の子供を集めて連れ去る。1284年に実際起こった、子供130人の行方不明事件がもとになっている。本書はこの事件の真相について考察したものであるが、周辺の歴史を検討するだけでも手間のかかる仕事であり、結構めんどくさい。著者はそれを手際よくまとめており、読み物としても楽しめる。

 事件に関しては第二章で「子供十字軍説」や「舞踏病説」などが挙げられているが、著者は東方の植民地に農民を入植させたことを指すのではないかという説を唱えている。植民請負人(ロカトール)が交通の要衝であるハーメルンで農民のみならず、六歳から十三歳の子供であれば少し待てば入植地で大きな戦力になるから、連れて行ったのだと。この植民請負人(ロカトール)と契約していたのがドイツ騎士修道会総長であった。ドイツ騎士修道会の使命は、「異教徒」とされていた東欧のヴェンド人やスラブ人をキリスト教化することにあった。彼らは最新の武器で武装した騎馬隊を中心に構成された獰猛な先頭集団で、多くの異教徒を殺戮したキリスト教原理主義の団体であった。このような状況下、北の辺境地域で切り取った広大な占領地はドイツ騎士修道会によって守られ、ここへ農民を入植させるために、植民請負人(ロカトール)と契約を結んで植民を募集したと著者はいう。

 この東方植民運動を近現代のナチスの東方植民運動(東方生存権確保)と関連付けたのが本書の眼目で、「笛吹き男」伝説がドイツ史の中で再び甦ることになった。ドイツ騎士修道会に相当するのがナチスの親衛隊(SS)で、これに貢献したんがハインリッヒ・ヒムラーである。ポーランド侵攻とソ連に対するバルバロッサ作戦。第二次世界大戦の悪夢がここに始まる。そして「笛吹き男」に擬せられるのが、ヒトラーである。本書によるとナチスの場合、直接的に笛に相当するのがヒトラーの好んだワグナーの「リエンツイ序曲」だという。この序曲はナチスの党大会でよく演奏された。党大会の照明の光と音楽、そしてヒトラーの演説。身振り手振りよろしく何万人という群衆を扇動していくテクニックは一級品だ。東方植民運動を煽動する植民請負人(ロカトール)そのものと言えよう。

 そしてドイツ騎士修道会のキリスト教原理主義は、アーリア人至上主義というおぞましい人種問題に変形していく。その中で生まれたのがレーベンスボルン(生命の泉)というものだ。これは親衛隊(SS)の下部組織で、目的はドイツ民族の「北方化」という人口政策上の目標の促進にあった。「北方系」(金髪・碧眼)の女性たちが意図的に親衛隊員と結婚させられて子供を産ませられる生殖施設である。実際「北方系」の多いスエーデンでかなりの子供が生まれたようだが、その他の占領地でのレーベンスボルンの子供たちを拉致してドイツへ送って養子縁組させるようになった。子供を拉致する、これはまさにハーメルン伝説のアナロジーと言えよう。「歴史は繰り返す」。この言葉の重みをしっかり受け止める必要があろう。まだまだ歴史を学ぶ意味はある。

あぶない中国共産党 橋爪大三郎 峯村健司 小学館新書

2025-01-23 10:05:43 | Weblog
 世界最大の共産主義国家中国の動向は常に世界の注目を引き付ける。自由主義国家にとって最大の脅威になっているこの国の共産主義の実態を二人の専門家の問答形式でわかりやすく解説したもの。ほとんどは既知の情報だったが、今改めてわかった事実もあって参考になった。まず中国共産党の領袖毛沢東はマルクスの暴力革命論に乗っかって激しい闘争に明け暮れたが、これは「革命的ロマン主義」というべきもので、そんな危険な人物が共産党のリーダーになったのかというと、それはナショナリズムの育たなかった中国で、中国の人々にナショナリズムとは何かを教えることができたからだと橋爪氏はいう。「自分たちは中国人だ」という意識を植え付けたということで、これは今も共産党を支える重要なテーマとなっている。そして党の重要なものとしてスパイ活動があげられる。今や世界最大のスパイ組織といえるが、毛沢東の側近として仕えた周恩来はスパイマスターだったという。彼は6人のスパイを国民党内に送り込んで、内戦が終わるまで誰がスパイだったかわからないほど国民党を欺き、重要な軍事情報は全部、共産党側に筒抜けだったと峯村氏はいう。毛沢東と周恩来の関係も謎の部分が多い。なぜ周恩来が毛沢東に粛清されずに居れたのか、並みの人間ならばこの独裁者に長年使仕えることは至難の業で、何か周に秘策があったのではとも思うが定かではない。しかし毛は自分が周より先に死ぬと後が心配なので、周がガンに冒されたときも治療を受けさせず死を早めさせたというのは有名な話だ。権力側の人間のすさまじい闘争を目の当たりにした感じがする。

 この中国共産党と上海にあった日本軍の特務機関が連携していたという指摘(橋爪)は重要だ。日本軍は、共産党に教えてもらった情報をもとに、軍事作戦を展開していたのだ。日本軍が闘ったのは国民党であり、共産党ではなかった。共産党は適当に逃げ隠れして日本軍と国民党軍の弱体を待って漁夫の利を得たわけだ。延安への長征というがあんな僻地に誰もいかないわけで、日本軍と国民党軍の戦いを高みの見物と決め込んでいたのだ。したがって中国共産党が主権の正当性を主張するためには是非とも国民党の残滓を受け継ぐ台湾を併合するしかない。併合の重要な活動として「統一工作戦線」を峯村氏は挙げる。これはかつて国民党の内部を分裂させたり、友好勢力を増やしたりする伝統的手法で、習近平はこれのプロだという。共産党の幹部は彼を「どん臭くてパッとしない」と侮ってはいけない。「彼は党内で台湾問題に最も精通している傑物だ」と言ったという。福建省に17年間勤務し、台湾相手に「統一工作戦線」を実践してきたのだろう。よって任期中に台湾進攻の可能性は無きにしも非ずということになる。

 習近平は毛沢東同様死ぬまで権力の座に座ろうとしていることは明らかで、これはナンバー2を置かないことからも明らかだ。後継者を指名すればその人物に地位を追われる可能性があるので事前に防いでいると思われる。またあれだけ腐敗摘発の名目で政敵を叩いてきたので、今の地位を維持しなければ復讐される危険がある。降りるにおりられないのが実情だろう。国家としては迷惑な話だが、それを許してしまう党の構造に問題がある。峯村氏が「中国共産党とは」と中枢の幹部に尋ねると、「世界最大の黒社会(マフイア組織)だ」と即答したという。都市整備のための立ち退きの手法を見ていると確かにヤクザの地上げと同じという気がする。党の中で地位を得なければ利権をもとに蓄財もできないということで、若いうちは懸命に汚れ仕事も引き受けて働くというのはまさにヤクザと同じだ。幹部になって国家予算を蚕食する、これで果たして革命政党と言えるか。いや、言えないと思う。しかし党員は生殺与奪の権を党にグリップされているので異論を唱えることができない。共産党は共産党のためにあり、権力を持つために権力を持つ。共産党はとっくに革命をやめて政権を維持すること自体が目的になっている。これは資本家や起業家の入党を認めていることからもわかる。これだと革命の課題である資本家を打倒できない。マルクスレーニン主義に反するのだ。

 日本はこの辺の事情をよく考えたうえで中国との外交をやっていかなければならない。この本を外務省の人間はしっかり読んで、それを契機に専門家を招いて研究する組織を立ち上げる必要があろう。弱腰な態度を見せると足元を見られるのは明白。このままでは台湾有事に日本が台湾を助けるということはありえないだろう。腰が引けているからだ。

二〇三高地 長南政義 角川新書

2025-01-17 09:51:23 | Weblog
 副題は「旅順攻囲戦と乃木希典の決断」である。日露戦争における旅順攻略戦は双方に多大の犠牲者を出したことで有名だが、とりわけ日本軍の犠牲者数は半端ではなかった。その原因の一つに司令官の乃木将軍の無能を取り上げることがままある。特に司馬遼太郎は『坂の上の雲』で徹底的に乃木の指揮ぶりを非難し無能と断定している。これによってロシア側の堅固な要塞に無意味な突撃攻撃を繰り返したというイメージが読者に植え付けられたのは確かである。最もこれについては日本軍の武器がロシア軍に比べてあまりにお粗末だったという面もある。司馬は第二次大戦時に戦車兵としてノモンハン事件に参戦したが、薄い鉄板の戦車で広大な平原の中を重厚な戦車のソ連軍と戦うという経験をしたが、そのあほらしさが原体験となってこの旅順攻囲戦に投影していることは確かだ。

 今回この本を買って読んだのは、この巷に流布している乃木将軍無能説にどう対応しているか知りたかったからだ。本書は旅順攻囲戦の詳細を記述している点、大変な労作だと思うが最後の章に「軍参謀長」伊地知幸介と、私の知りたい「軍司令官」乃木希典の評価が書かれている。それによると、伊地知は特別任務や情報収集任務に秀でた人物だったが、、軍参謀長としての能力には問題があった。優柔不断で決断力に乏しかったようである。対して乃木の評価はどうか。結論から言うと、乃木には判断ミスがあったというものの、決断力と統率力に優れ、個々の幕僚の能力を引き出すという点、自己が指揮する軍が苦戦している最中でも視野狭窄に陥ることなく、満州軍全体の利益を考えることのできた大局観、連合艦隊に配慮し陸海軍共同作戦を成功に導いた優れた人格、国際社会の輿論に配慮して戦時国際法を尊重する美点もあり、これらの長所は、名将という名に恥じないものであろうと評価している。

 また日露戦争後に軍人遺家族の援護や廃兵慰問にも熱心であったとのこと。彼自身この戦争で二人の息子を失くしている。司令官の息子であれば、最前線を避けて安全な所での任務に就かせることもも可能だったかもしれないが、それをやらなかったすなわち身内を贔屓しなかったことは評価すべきことと思う。その辺の倫理観は並ではない。後に学習院の院長になり、明治天皇の崩御に際して妻の静とともに殉死したことはその発露と言える。夏目漱石は小説『こころ』の最後に、こう書いている。西南戦争で敵に軍旗を奪われて以来、明治45年までの35年間、死ぬ機会を待っていた乃木将軍にとって「生きていた35年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろう」と先生は考えたと。主人公の先生は乃木将軍の殉死に触発され自裁するのだが、明治という時代に殉ずるのだと述べている。このように乃木将軍は夏目漱石にとっても注目すべき人物だった。乃木の倫理観の集大成がこの殉死であったと言えるだろう。因みに乃木が妻の静と自決する様子は『殉死』(文春文庫)に詳しい。『坂の上の雲』であれだけ批判的な記述であったものが、本編では荘厳な感じに転じている。死にゆく人物の描写となれば当然と言えるかもしれない。

 そして本編の最後にこうある、悪条件が重ねる中で群を立て直し「負けいくさ(ロストバトル)を逆転勝利に導いた、近代史上稀有な軍人なのである。それゆえ、乃木は軍司令官として名将と評されて然るべきだといえようと。泉下の乃木はきっと喜んでいるだろう。

歌に私は泣くだろう 永田和宏 新潮社

2024-12-25 13:43:20 | Weblog
 前掲『あの胸が岬のように遠かった』は永田氏が歌人河野裕子と知り合い、恋愛し、結婚するまでを河野の遺した日記等をもとに年代記としたものだった。本書はそれより前の作品で、副題が「妻・河野裕子闘病の十年」とあるように2000年の9月に乳がんと診断されてから亡くなるまでの十年間の闘病生活を二人の短歌を交えて記したもの。美しい恋愛を経て結婚した二人が妻の闘病でどのような心情になるのかを赤裸々に描いており、小説以上に読みごたえがある。

 本書によると河野はいつも不機嫌だったらしい。著者曰く、「不機嫌のおおかたは、自分の身の不具合であった。肩こりは手術以前からの持病に近いものであったが、手術で左の乳房の手術をしてからは、それが線維化し、外から触ってもわかるほど固くなってしまった、。(中略)医者は、癌の再発には注意を向けてくれるが、病気以外の訴えには少しも注意を向けてくれないというのが、彼女の常に口にしていた不満であった。医者ばかりでなく、家族の誰も私の苦しみをわかってくれない、というところに彼女の不満が移りつつあった。(中略)しんどいもう死にそうというのがいつもの訴えであった。食事のときも、私が疲れていてもそれにはお構いなしに、毎晩のようにその訴えが繰り返された。私の方がそうとうに参ってしまった」と。でも後からわかったことだがと言って著者はいう、「それは彼女が明らかに私を試しているということであった」と。愛を確かめていたのだった。病身でありながら夫の愛を確かめようとするその貪欲さに驚きを隠せない。並みの意志力ではない。

 その時の彼女の歌二首、「今ならばまつすぐに言う夫ならば庇ってほしかった医学書閉じて」 「文献に癌細胞を読み続け私の癌には触れざりし君には」。愛は無償の行為を要求するが、まさに妻はこれを夫に要求したわけだ。しかも十年間も。
時とともに河野の精神状態は一層攻撃的になっていった。年に二、三度、手の付けられない状態に陥った。それは愛用していた睡眠導入剤の副作用であったろうと著者は述べている。夫を愛するが故の憎しみ、このアンビバレントな振幅の中に生きざるを得なかった著者の苦悩は並大抵ではない。私は本書を読んでいて、島尾敏雄の『死の棘』を思い出した。夫の浮気がもとで妻のミホが精神に異常をきたすようになる話だが、著者もこれに触れている。曰く、「島尾敏雄という小説家の存在を、いつもお守りのような気分で意識していた。ミホの場合は夫への不信が根源にあったが、河野の場合は置いてきぼり感であったのだろう」と。

 そして最後の一首、「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。これで河野は著者を愛していたことがわかる。看病の中であれだけ不満を述べ憎しみを露わにした彼女ではあったが、すべて愛情の裏返しであったことがわかる。歌人たるものこれだけの愛憎の深さがなければ成り立たぬ営為であることが端無くも明らかになった格好だ。河野は64歳で亡くなったが、結婚後40年経ってもこれだけの感情を夫に持てるというのが私からすると驚異的に思えるのだが、世間の人の評価はどうなんだろう?そして死の前日に、著者が口述筆記で書き残した数首のうちの一首、「さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ」  裕子  最後に愛憎を越えた悟りの境地に入った。見事というほかはない。合掌 

あの胸が岬のように遠かった 永田和宏 新潮文庫

2024-12-04 11:00:01 | Weblog
 永田和宏氏は歌人・細胞生物学者。京都大学再生医科学研究所教授、京都産業大学教授を歴任。歌人としても有名で、現在朝日歌壇選者として毎週彼の選んだ読者の短歌を読むことができる。昭和12年生まれで現在77歳。団塊の世代である。本書は妻で歌人の河野裕子(かわのゆうこ)との馴れ初めから結婚までを永田氏本人の自伝を絡めて書いている。河野裕子氏は著者によると2010年8月12日乳がんのため亡くなった。発病してから10年の闘病生活があったとある。本書は彼女の死後、妻が遺した日記と手紙を時系列にそって構成し、二人の愛の実相を赤裸々に描いている。普通は公開を憚るものだが、著者にとっては書かずにはいられないほどの青春記だったのだろう。一読して二人の情念の激しさに圧倒された。

 二人の出会いは大学時代の短歌会においてであった。著者は京大生、河野氏は京都女子生であった。お互い惹かれあうところがあり、交際が始まる。その詳細は手紙と添えられた短歌に詳しい。精神的に求め合う側面と肉体的に結ばれたいという欲望が交錯する。形而上と形而下の葛藤だ。その表象がタイトルの「あの胸が岬のように遠かった」である。これは著者の作品「あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまで俺の少年」から取ったものだ。意味は「女性の胸は、若い男性にとって手の届かない憧れである。『岬のように遠』いのである。それに手を伸ばせない自らの少年性の口惜しさを嘆く歌である。なんとうぶな二人であったかと、こうして書きつつ、わが子を励まし、応援するような気分にもなってくる」と自註がある。この時期河野には別に好意を抱いている男性がいたようで、このことについての苦悩が手紙に表明されている。それを受け取った著者のショックも尋常ではない。最後は二人は結婚することになるのだが、青春の悩みオンパレードという感じで、恋愛小説のような感じで読んでしまった。

 「あの胸が岬のように遠かった」の一年のち、「なぜかそれまで頑なに拒んでいた彼女が胸を開いた。初めて触れた乳房」となった時の河野の歌。「ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり」が素晴らしい。なんか与謝野晶子の歌のようで、才能を感じさせる。著者の解説は「若い少女のブラウスの中に、透き通ってくる初夏の光が明るい。(中略)無垢ゆえに何ら臆することのない大胆さと、誇らしささえ感じられる歌である」で、的確な批評である。恋する二人は結婚を前提として付き合うが、著者の大学院進学問題などがあって生活の基盤をどうするかという課題に直面する。河野は25歳までに結婚したいと言うし(因みに彼女は著者の一級上)、その中での妊娠中絶事件。それを克服して結ばれた二人。一読して二人は人生を深堀りしたという感想を持った。さすが歌人だけあって二人とも感情の量が多い。特に河野の激情は抑制が効かなくなると、関係の破壊に通ずる危うさを持っているだけに、著者は忍耐と寛容の精神で対応したのだと思う。恋人同士の日々のやり取りを手紙で文章化して、あるいは歌にして表現することはそれだけでドラマティック(誇張表現)になるという側面はあるものの、一瞬一瞬を誠実に生きた証がこの本にはあって、感動した。

アカシアの大連 清岡卓行 講談社文庫

2024-11-21 14:49:55 | Weblog
 この古い小説を取り上げたのは、前掲の『淀川にちかい町から』の作者岩阪恵子との関連からである。彼女は関西学院大学文学部に入学後、詩を書き始めるが、関学の同窓会誌のインタビューに語ったところによると、大学二年の時、関学に吉本隆明が講演会に来て、自分も詩を書いているがどういう勉強をしたらいいか等質問をした。その時の吉本の答えは、「30分でも1時間でもいいから、毎日鉛筆を握って紙に向かいなさい。書けなくったていいんです。毎日続けることが大切なんです」というものだった。その時ある詩人を紹介されて、毎月十数編の詩を送り続けて、添削してもらうことになったという。その人が清岡卓行で四年後岩阪は彼と結婚することになる。清岡48歳、岩阪24歳であった。清岡は二年前に妻と死別しており、再婚であった。何とも数奇な運命である。清岡の勧めで小説も書くようになったと述べている。

 清岡と言えば、高校の国語の教科書に「ミロのビーナス」というエッセイが定番のように載っている。教科書の古典教材と言っても過言ではない。「美術品であるという運命をになったミロのビーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである」という文章で終わるアレである。ミロのビーナスはギリシャ彫刻の典型として、早くからルーブル美術館に展示されて世界的な名声を博するようになった、日本にも来て400万人を動員したことは夙に有名である。その立役者はアンドレ・マルローだった。因みに「ミロのビーナスはなぜすばらしいのか」について山田五郎氏がUチューブの「大人の教養講座」で蘊蓄を傾けられているので見ていただけたらと思う。山田氏によるとビーナスの両手がどうなっていたかは大体わかってきているということで、具体例を絵で示されていた。いつまでも「可能なあらゆる手への夢を奏でるのである」と言ってる場合ではない。両手はこうなっていてこれはこういう意味で素晴らしいというエッセイが望まれる時代になっているのではないか。

 さて『アカシアの大連』であるが、表題作を含めて五編の作品からなっているが、表題作は戦前の中国大陸の大連で少年時代を過ごした少年の体験が種々描かれている。なんか上澄み液の中にいるような感じで、植民地支配の自己嫌悪とか贖罪感とは無縁の不思議な一編である。大連はアカシアの木が多いので有名だが、それが彼の生活の快適さを象徴するものとして使われている。主人公は大連一中から第一高等学校へ進学するエリートである。その高みから吐き出される言葉は詩人のそれに近く、どろどろとした葛藤がない。まさに一編の詩である。本作によって清岡は芥川賞を受賞した。この小説の最後主人公はある少女との結婚を決意するということになっているが、この年(1970年)に岩阪恵子と結婚している。巻末の自筆年譜によると、その二年前の1968年に妻を失くしており、翌年小説の第一作「朝の悲しみ」にその心情を吐露している。そしてその翌年弟子の岩阪と結婚するわけだが、普通まだ喪も明けきらないうちにと思ってしまうが逆に言えば彼女に対する愛情が強かったのだろう。よって「朝の悲しみ」は一つのケジメで「アカシアの大連」は未来への希望を綴ったとも言えようか。岩阪恵子の存在が創作の原動力になったことは間違いない。愛の力は強いのである。

 私が読んだ文庫本『アカシアの大連』は昭和48年初版、昭和57年第9刷というもので、よくなくさずに持っていたものだと思う。今回岩佐恵子氏から清岡卓行氏、そしてミロのビーナスから山田五郎氏へと知的な旅行が出来て幸せな時間を過ごすことができた。

淀川にちかい町から 岩阪恵子 講談社

2024-11-15 09:01:00 | Weblog
 本書は1993年10月に発刊されたもので、30年前の作品である。なぜこの本を知ったかというと、先にブログに挙げた車谷長𠮷の『癲狂院日乗』(新書館)で、車谷が本作品を褒めていたので、読んでみた。表題作を含めて10編から成る短編小説集で、どれも大阪が舞台である。大阪が舞台となれば織田作之助の作品がまず挙げられるが、本書は作之助より後の昭和30年以降のもので、舞台も淀川周辺であるところが特徴である。著者は大阪の旭区出身であり、作之助のように大阪市内の中心ではない。でも使われている大阪弁は懐かしさを覚えるのもので、上品な感じを与える。

 どの作品も市井の庶民の生活を過不足なく描いており、高評価の理由も納得できる。人と人の距離が近いのが大阪の特徴だが、それが見事に表現されている。表題作もいいが、個人的には「釘を打つ」が独居老人の日常をリアルに描いており、今の世相を予見したような内容になっている。主人公の伴造は元大工だが、22年前に妻が病死して、子供もおらず今は独居老人だ。市役所の老人福祉課の職員がいろいろ相談に来てくれるが、伴造はなかなか心を開かない。近所の若い主婦からはゴミ当番をしっかりしてくださいというクレームを受けたり、彼女の二人の娘との日々のやり取りにも心を開けない。悪意の第三者を相手に日々苦闘している感じがリアルだ。

 家に風呂はなく銭湯に行っているが、最近は銭湯もどんどん閉店してこれから先どうなるかわからない。また最近腹の具合がよくない。徐々に悪くなっていく感じだ。一度は医者に行こうかとも考えたが、「だが医者へ行って、この体をどうしようというのだ、とさらに突っ込んで考えたとき、彼は、もうええやないか、もうたくさんや、と自分に呟いたのだった。もうわしは充分生きた。女房に死なれたとき、いやそれとも会社を辞めたときだったか、あとは余生やいつまで生きんならん命でもない、と思わなかっただろうか」となって、自死を考えるようになる。人間、晩年になってどう生きるかはそれぞれに事情によって千差万別だが、最低限自尊心を損なわないような生き方をしたいという思いは個人的にはある。もし自分が伴造のような状況になったら自分はどうするだろうか。自分で考えるのはめんどくさいから、とりあえず施設に入ってみよう、それから考えようとなるが、入ったら最後死ぬまで出られない。この見極めが難しい。そして最後の場面、伴造は台所の三和土の上にロープをかけるための釘を打つ。そしてこう結ばれる、「勝手口から梯子を運び入れ、攀じ登る。これが最後の仕事になるな、、、、、、、、、、そう思ったとたん足がふるえ、梯子がカタカタと音をたてた。五寸釘の先を舌で湿らせ、あらかじめ見当をつけておいた場所にゆっくり確実に打ち込んでいく。金槌の音が、耳に軽快に響いた」。

 元大工としての仕事が自分の未来を閉ざすものであるとは、何とも悲しいことである。「金槌の音が、耳に軽快に響いた」は人様の家や自分の家を建てる時の表現に使いたいところだが、ここでは残念ながらそうではない。でもこれによって作者の、伴造の人生に対する顕彰の気持ちが出ていて素晴らしい。岩阪氏ははじめ詩人として出発したらしいが、その感性がよく出ていると思う。今回車谷のおかげで、岩阪恵子という作家を知ることができた。他の作品も読んでみたい。

めちゃめちゃわかるよ!印象派 山田五郎 ダイヤモンド社

2024-10-30 13:53:24 | Weblog
 本書は、西洋絵画の巨匠とその名作を紹介するYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』にアップした動画の中から、印象派とその関係する画家の部分をまとめたものである。私はこの動画のフアンで、山田氏の博識と説明の周到さにいつも感心している。時折混ざる大阪弁もご愛敬というか気さくな感じがあって、この番組の人気の要因になっていると思う。年譜によれば、氏はもともと東京生まれだが、小学生の時父上の仕事の関係で西宮市に移り、その後中学高校時代を豊中市で過ごし大阪弁をマスターしたらしい。

 西洋絵画に関する啓蒙的な本で先駆的なものは、高階秀爾氏の『名画を見る眼1・2』(岩波新書)だろう。最近カラー版の改訂版が出たが、今読んでも50年前の古さは感じない。残念ながら高階氏は10月17日に92歳で逝去された。次にこの分野で西洋絵画の普及に功績のあった人と言えば、中野京子氏だろう。絵画をめぐる人物と歴史をわかりやすく説明して大変な人気だ。中野氏の成功以後、西洋名画に関する本が爆発的に増え、特に新書市場をにぎわせている。そして最近は「印象派」に関するものが相次いで出版されている。本書や『旅する印象派』(富田 章 東京美術)などがそれだ。因みに富田氏は高階氏の弟子で、10月30日の朝日新聞朝刊に追悼文を書いておられる。

 さて本書に戻り中身を概観すると、イギリスで印象主義を先取りしていたターナーにはじまり、ミレー、クールベ、マネ、ブーダンら写実主義者を経て、印象派の中核を担ったバジール、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガ、カサット、モリゾ、カイユボットとスーラ、ポスト印象主義のセザンヌ、ゴーガン、ゴッホと、計18人を紹介している。どの画家のエピソードも面白く、作品が沢山紹介されているので、読んでいて楽しい。冒頭のターナーについては、夏目漱石の『坊ちゃん』で有名だ。坊ちゃんが教頭の赤シャツ、美術教師の野だいこと釣りに行き、松を眺める場面。「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だにいうと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何のことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから、黙っていた。ーーーーー。赤シャツと野だが話題にしたターナーの作品は「金枝」(1834年)で確かに赤シャツの言う通りの図柄である。私は少年時代からこの部分が好きで、漱石ってなんと洒脱な作家なんだろうと彼のフアンになった。野だの太鼓持ち的なお追従と赤シャツのぺダンティックなターナー発言。まさに江戸落語の世界だ。漱石はロンドン留学中にターナーの画を何度も見たのであろう。本当に教養がある。この資質は田舎者の森鴎外には残念ながらない。ターナーの「ラム城 日の出」や「緋色の日没」などは明らかにモネの「印象 日の出」を先取りしている。

 取り上げられた18人の画家のエピソードはそれぞれの画家の人生をたどって作品との有機的関係を読者に提示する。その中で多くの優れた考察が味わえる。中では上記のモネの項が個人的には面白かった。モネははじめ人物画を描いていたが、その後それをやめて修行のように睡蓮ばかり描き続けたが、それはなぜかという問題。著者の回答は、本書で確認してもらいたいが、人間の感情をガチっとつかんでいてさすがと思わせるものであった。本書はいわば18篇の短編小説集のようなもので、おまけに絵画作品も目で味わえるので、読んでいて楽しい。

 最近の「オトナの教養講座」で山田氏は自身がガンであることを発表された。どこの由来のガンかは不明だが、肝臓や骨に転移しているとのこと。私は大いにショックを受けたが、放射線治療の効果で元気を取り戻したことを聞いて少し安堵した。ガンとの戦いは大変だが、頑張って欲しい。そして今まで通りあの軽妙な語り口で博覧強記ぶりを発揮して欲しい。

癲狂院日乗 車谷長吉 新書院

2024-10-12 08:46:58 | Weblog
 作家・車谷長吉は2014年(平成27年)69歳で亡くなったが、これは彼の日記である。癲狂院とは精神病院のことであるが、彼がそこに入院していたということではなく、強迫神経症のため通院しながら作家活動の日々を記したものだ。一読してこれほど赤裸々に自分の私生活と心情を吐露したものを見たことはない。これは彼の小説全般に通じるもので、その祖型がこの日記に凝縮されている。一方で彼の作家生活を支えたのは妻の順子である。順子とは詩人の高橋順子氏のことで、二人は平成5年10月17日に結婚した。長吉48歳、順子49歳であった。結婚前、長吉は絵手紙(はがき)を頻繁に順子に送っており、それが縁で結婚に至ったらしい。その手紙をまとめたものを読んだことがあるが、結構マメに文章も工夫して書いている。当時は順子氏の方が詩人として有名であったが、このマメさが彼女の心にヒットしたのであろう。

 日記では彼女のことを「順子ちゃん」と呼んで甘えたぶりを披露している。そして夜の夫婦生活のことも赤裸々に書いている。以前長吉が小説の題材に親戚縁者の負の歴史を取り上げたことが多くあった。その時母親は「書かんとってな」と懇願したにもかかわらず彼はそれを無視した。それで親戚との関係がぎくしゃくしてしまったことが幾度となくあった。順子氏も多分この件に関して書かないでと注意したと思われるが、長𠮷は聞き入れなかったのだろう。一事が万事、他者に対する厳しい批評・観察はそこかしこに現れる。編集者に対しては、「自分がいい原稿がとれさえすればそれでいいのだ」「これが編集者の本質だ」「編集者K氏が食道がんだと聞く。私は昔、この男に甚だしい侮蔑を受けた。まだ53歳でかわいそうにとも思うが『早く死ね』とも思う」等々。

 作家業については、「私は飽くまでアマチュアの書き手として書いて行きたい。プロの作家とは、編集者の注文に応じて原稿を書く人であり、アマチュアとは自分の内心の声にのみ従って書く人を言う。私は書きたい時に書きたいものだけを書く人でありたい」「平成7年私は『漂流物』(「文学界」平成7年2月号)で芥川賞に落選した。受賞したのは毒にも薬にもならない平凡な日常を書いたK氏のYという作品だった」など直球の連投である。自分の病気については、「強迫神経症の私は日に何度も手を洗わないではいられない。一日50回近くになるのではないだろうか」「強迫神経症になってから性欲が徐々に衰えてきた。これはドグマチン(抗鬱剤)の副作用であるという。云々」。また「胃痛、嘔吐あり」も頻繁に出てくる。 このように車谷長吉は狷介さと繊細さを併せ持つ稀有な作家だった。平成7年の芥川賞は逃したが、平成10年『赤目四十八滝心中未遂』で直木賞を受賞して面目を保った。

 ところで病気と闘いながらの日常だが、日記には会社勤めをしていたという記述がある。このような人物を雇う会社ってどうゆう会社なんだろうと思ったが、たまたま実家の書棚を整理していて見つけた『文学界』(平成17年4月号)の中の辻井喬の「世捨人ぶらない世捨人」にその解があった。その号は車谷の特集で、「愚か者のダンディズム」と銘打って玄侑宗久との対談と作品『灘の男』と辻井の文章が載っている。辻井喬は西武セゾングループの社長であった堤清二の作家としての筆名である。辻井によると、「新潮」の編集長が「文学的才能はあるんだが、なんとなくもう一つという感じでまだ作品を発表するまでにならない。関西から東京に戻ってきたところで、今困っているから、どこかアルバイト先はないだろうか」ということで車谷を連れてきたとのこと。そこでセゾングループの社史編集室の事務局で働くことになったらしい。直言居士だが「変わった男だが悪い奴じゃないという印象を持たれるようになりました」と評価している。

 辻井はその文章で、車谷の小説は私小説というべきものではないと言っている。題材を実体験から取っているが、社会的広がりや時代的な視野を持っているので、私小説という日本独特の心境小説とは一線を画しており、「彼の文章は、気持ちをきちんと書いてあって、実にいい文章です」と大いに評価している。私も車谷のフアンとしてうれしい限りだ。新潮文庫で代表作が読めるので、ぜひ一読されたい。

世界史の原理 茂木誠 宇山卓栄 ビジネス社

2024-10-04 08:37:19 | Weblog
 題の前に「日本人が知らない!」とあり、「異色の予備校講師が、タブーなしに語り合う」という惹句もある。そして腰巻に「なぜ日本文明は、独自性を保てたのか?」と著者の写真が載っている。装丁を見ると学術書ではなく「軽い読み物」の方に少し傾いた本だという予感がしたが、読んでみると確かにそうだった。「世界史の原理」とあるが、「原理」を辞書で引くと、「物事の根本にあって、それを成り立たせる理論・法則」とある。世界史にそんなものがあるのかと思って、「おわりに」を読むと、「危機の時代においてわれわれの祖先がいかに対応し、死に物狂いで独立を保ってきたか。諸外国との比較の中でそれを知れば、この国を守っていこうという気持ちになり、あなたの明日からの生き方も変わってくるでしょう」とあった。先日、自民党の総裁選挙の決選投票で敗れた女性候補が言いそうなせりふである。まあこれが本書のスタンスである。

 本書のエピソードは大体知っていたが、初見のものもあった。それは第二章の中の『「先住民」の世界史』で、アイヌは日本の先住民族ではなく、鎌倉時代に渡来してきた少数民族であるというものだ。アイヌはシベリア起源の北方民族と縄文系擦文文化人との混血だということをミトコンドリアのDNAを持ち出して結論づけている。あいにく証拠となる染色体の議論の詳しい出典が明示されていないので、ほんとかいなと思った読者も多かったのではないか。中でも私がおや?と思ったのは次の記述だ。『今日、人工的あるいは政治的都合でカテゴライズされた「アイヌ民族」は日本に約1万3000人いるとされます。こうした人工的「アイヌ民族」が自治権や自治区の獲得に向けて、今後、政治闘争を仕掛けてくることも予想されます』。(宇山)「仕掛けてくる」の主語は書かれていないが、いずれにせよ少し悪意を感じた。著者は知里真志保や姉の知里幸恵のことを思い浮かべただろうか。『知里真志保の生涯』(藤本英夫 新潮選書 1982年)を読んでみてほしい。アイヌの苦闘の歴史を知って共感をする立場に立てば、もう少し別の言い方ができたかもしれない。

 「アイヌ先住民説」を科学的に根拠が乏しいと一蹴しする一方、「アイヌの持つ文化を日本文化の民族的多様性を示す貴重な文化財として守っていくべきだと私もおもいます」(茂木)とバランスをとる発言をしている。しかし、2008年の「アイヌ先住民決議」について、この時の内閣総理大臣は福田康夫だと指摘したうえで、「これによって北海道を中心に莫大な公金投入が行われ、さまざまなハコモノが建てられ、様々な利権団体に公金がバラ撒かれました。同じことはLGBT理解増進法(2023)でも言えるでしょう」(宇山)「官僚・政治家が歴史を知らなこういうことになるのです」(茂木)と自民党右派もさもありぬべしという発言をしている。

 本書の最後に日中戦争が中国共産党の策略によって拡大し、結局共産党が日本軍と国民党に勝利して、中華人民共和国が成立したというエピソードが載っているが、そう直線的に言えるものではない。さらなる研究が必要だ。私としては今度の衆院選での自民党の議席数に本書がどれくらい寄与するのか注目している。まあ50万部売れたら、影響するかもしれないが、1~2万部では厳しいだろう。中身の評価は分かれるだろうが、気楽な読み物として割り切れば、まあまあ面白い本であった。ものを知るということは世界を広げるということを改めて実感させてもらった。まだまだ勉強すべきことは多い。