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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

二者択一

2023-09-18 11:19:04 | 日記・エッセイ・コラム
標題は二元論と言ってもよかった。
同じような線上にあるが当然に違うもの。
二元論はこれはそも言葉の本質なのです。
言葉はものごとに線を引く。
そしてそれを二つに分ける。
現実は何も変わっていないのに。
ときに人の中では変わるのです。
そして分かったような気になる。
さらに線を引けば二元論からはズレるが。
でも言葉の本質は二元論にある。
そう思っている。
・・・・・
その代表的なものを二つ。
ひとつは陰陽、ひとつは善悪。
他にもあるだろうがここではこれを。
陰陽はどちらかと言えばモノに寄る。
これは二元とは言うものの実際は多元である。
それは現にあるものの様相に如かず。
それを陰と陽という言葉で表現する。
善悪は現実にはないもの。
ヒトの心に現われる模様でしかない。
言葉はそも概念だが、
その初めはすべて現実によっている、
このことに違いはなかろうが、
そこに心の模様が反映される、
そのうち模様が一人歩きする。
これこそが生粋の概念である、
現実によることのない生粋の。
現実が人に影響を与えるのは当然のこと。
でも作られた概念も同様に影響を与える。
それは言葉として当然ですが、
それがなお強烈になるのです。
てかそうなるように、
仕掛ける者がいるのです。
現在の世界はその真っただ中にある。
今般のLGBT~問題にもそれが如実に。
ヒトは現実の存在である。
その命は先ずは身体として現れる。
身体は現実であるが、なら心魂はどこに?
存在とはすべからく波動にあると。
身体も心魂もともに波動なのです。
なかでも心魂は諸に波動そのもの。
だからそれは実としては現れない。
それは身体に乗っているものかと。
そこで思うのです。
命は初めに身体として現れる。
細胞一つひとつがひとつに繋がりながら、
それを何度も繰り返して。
そしてヒトとしてなったときに誕生する。
ときに心魂もなっている。
でも身体が先である。
その人の生き方は先ずは身体に現われる。
身体がその人の生き方を決定づける。
人は人に、犬は犬にと。
だから男は男に女は女にである。
てか神様のいたずらか、
そこが曖昧なこともときにある。
にしてもまんまに生きればいい、
それだけのこと。
こんなことはヒト以外にもあるだろうが、
それはなぜか表には出ない。
それは言葉を持たないから。
ところが人は言葉を持った。
それが人の内奥に意識を持たせる。
それが生き方を定めて文化となる。
繰り返しになるが、今一度。
身体がまず成って、そこに心魂が乗り、
それが言葉をなし、そして意識を育て、
終には文化となる、ここに人間がなる。
かかるがごとくで、
すべてはそも身体からである。
なのに意識が身体を拒否する。
あげく身体を改変しようとは。
論外の論外。
にしても各人それぞれ事情もあろうし、
そこは個人の自由かと。
ともかくまんまに生きればいいだけ。
周りがとやかく言うことはない。
ましてや法律など必要なし。
問題をこじらすだけで、
もう鬱陶しい限り。
・・・・・
ところで二者択一のことだが、
これは大元には二元論がある。
そこから発する選択で、
これがときに猛毒になるということ、
それを思うのです。
様相の違うもの二つから一つを選ぶ。
このことには何の問題もない。
それは良いのだが、
その一方を否定し排除しようとする、
それが問題なのだ。
例えば陰陽や左右、
これは現実にあるものの様相の違いです、
これはどちらを選んでも問題なし、
そこに否定がないからです。
問題は否定を伴うもの、
その典型が善悪の二元論です。
これは生粋の概念であり、
すべては心の模様である。
この宇宙にはそも善も悪もないのだ。
現実は現実だと言うしかない。
同様に事実は事実として、
これは立場や思想それに時代によって捉え方はかわる。
心の模様は変幻自在なのです。
ゆえ模様が如何にあろうとも、
一方が他方を否定し排除してはならない。
それは現実の否定につながる。
いま不快なのは、
それを操ろうとする者がいること、
これは昔からだが昨今は特に酷い。
ときに用いられる言葉がある。
自由、平等、友愛、平和、人権、多様性ほか諸々。
勿論言葉自体に問題などない。
問題となるのは、
そこに「反」の字句を付けて、
意に反するものを排除しようとすること。
御存じのように、
かかる事態は枚挙に暇がない、
政界官界財界学会にメディアそれにSNSなど、
あらゆるものを利用して。
でもって世界が虚と歪の糞まみれ。
異臭と汚物がてんこ盛り。
ハイ!