標題は二元論と言ってもよかった。
同じような線上にあるが当然に違うもの。
二元論はこれはそも言葉の本質なのです。
言葉はものごとに線を引く。
そしてそれを二つに分ける。
現実は何も変わっていないのに。
ときに人の中では変わるのです。
そして分かったような気になる。
さらに線を引けば二元論からはズレるが。
でも言葉の本質は二元論にある。
そう思っている。
・・・・・
その代表的なものを二つ。
ひとつは陰陽、ひとつは善悪。
他にもあるだろうがここではこれを。
陰陽はどちらかと言えばモノに寄る。
これは二元とは言うものの実際は多元である。
それは現にあるものの様相に如かず。
それを陰と陽という言葉で表現する。
善悪は現実にはないもの。
ヒトの心に現われる模様でしかない。
言葉はそも概念だが、
その初めはすべて現実によっている、
このことに違いはなかろうが、
そこに心の模様が反映される、
そのうち模様が一人歩きする。
これこそが生粋の概念である、
現実によることのない生粋の。
現実が人に影響を与えるのは当然のこと。
でも作られた概念も同様に影響を与える。
それは言葉として当然ですが、
それがなお強烈になるのです。
てかそうなるように、
仕掛ける者がいるのです。
現在の世界はその真っただ中にある。
今般のLGBT~問題にもそれが如実に。
ヒトは現実の存在である。
その命は先ずは身体として現れる。
身体は現実であるが、なら心魂はどこに?
存在とはすべからく波動にあると。
身体も心魂もともに波動なのです。
なかでも心魂は諸に波動そのもの。
だからそれは実としては現れない。
それは身体に乗っているものかと。
そこで思うのです。
命は初めに身体として現れる。
細胞一つひとつがひとつに繋がりながら、
それを何度も繰り返して。
そしてヒトとしてなったときに誕生する。
ときに心魂もなっている。
でも身体が先である。
その人の生き方は先ずは身体に現われる。
身体がその人の生き方を決定づける。
人は人に、犬は犬にと。
だから男は男に女は女にである。
てか神様のいたずらか、
そこが曖昧なこともときにある。
にしてもまんまに生きればいい、
それだけのこと。
こんなことはヒト以外にもあるだろうが、
それはなぜか表には出ない。
それは言葉を持たないから。
ところが人は言葉を持った。
それが人の内奥に意識を持たせる。
それが生き方を定めて文化となる。
繰り返しになるが、今一度。
身体がまず成って、そこに心魂が乗り、
それが言葉をなし、そして意識を育て、
終には文化となる、ここに人間がなる。
かかるがごとくで、
すべてはそも身体からである。
なのに意識が身体を拒否する。
あげく身体を改変しようとは。
論外の論外。
にしても各人それぞれ事情もあろうし、
そこは個人の自由かと。
ともかくまんまに生きればいいだけ。
周りがとやかく言うことはない。
ましてや法律など必要なし。
問題をこじらすだけで、
もう鬱陶しい限り。
・・・・・
ところで二者択一のことだが、
これは大元には二元論がある。
そこから発する選択で、
これがときに猛毒になるということ、
それを思うのです。
様相の違うもの二つから一つを選ぶ。
このことには何の問題もない。
それは良いのだが、
その一方を否定し排除しようとする、
それが問題なのだ。
例えば陰陽や左右、
これは現実にあるものの様相の違いです、
これはどちらを選んでも問題なし、
そこに否定がないからです。
問題は否定を伴うもの、
その典型が善悪の二元論です。
これは生粋の概念であり、
すべては心の模様である。
この宇宙にはそも善も悪もないのだ。
現実は現実だと言うしかない。
同様に事実は事実として、
これは立場や思想それに時代によって捉え方はかわる。
心の模様は変幻自在なのです。
ゆえ模様が如何にあろうとも、
一方が他方を否定し排除してはならない。
それは現実の否定につながる。
いま不快なのは、
それを操ろうとする者がいること、
これは昔からだが昨今は特に酷い。
ときに用いられる言葉がある。
自由、平等、友愛、平和、人権、多様性ほか諸々。
勿論言葉自体に問題などない。
問題となるのは、
そこに「反」の字句を付けて、
意に反するものを排除しようとすること。
御存じのように、
かかる事態は枚挙に暇がない、
政界官界財界学会にメディアそれにSNSなど、
あらゆるものを利用して。
でもって世界が虚と歪の糞まみれ。
異臭と汚物がてんこ盛り。
ハイ!
同じような線上にあるが当然に違うもの。
二元論はこれはそも言葉の本質なのです。
言葉はものごとに線を引く。
そしてそれを二つに分ける。
現実は何も変わっていないのに。
ときに人の中では変わるのです。
そして分かったような気になる。
さらに線を引けば二元論からはズレるが。
でも言葉の本質は二元論にある。
そう思っている。
・・・・・
その代表的なものを二つ。
ひとつは陰陽、ひとつは善悪。
他にもあるだろうがここではこれを。
陰陽はどちらかと言えばモノに寄る。
これは二元とは言うものの実際は多元である。
それは現にあるものの様相に如かず。
それを陰と陽という言葉で表現する。
善悪は現実にはないもの。
ヒトの心に現われる模様でしかない。
言葉はそも概念だが、
その初めはすべて現実によっている、
このことに違いはなかろうが、
そこに心の模様が反映される、
そのうち模様が一人歩きする。
これこそが生粋の概念である、
現実によることのない生粋の。
現実が人に影響を与えるのは当然のこと。
でも作られた概念も同様に影響を与える。
それは言葉として当然ですが、
それがなお強烈になるのです。
てかそうなるように、
仕掛ける者がいるのです。
現在の世界はその真っただ中にある。
今般のLGBT~問題にもそれが如実に。
ヒトは現実の存在である。
その命は先ずは身体として現れる。
身体は現実であるが、なら心魂はどこに?
存在とはすべからく波動にあると。
身体も心魂もともに波動なのです。
なかでも心魂は諸に波動そのもの。
だからそれは実としては現れない。
それは身体に乗っているものかと。
そこで思うのです。
命は初めに身体として現れる。
細胞一つひとつがひとつに繋がりながら、
それを何度も繰り返して。
そしてヒトとしてなったときに誕生する。
ときに心魂もなっている。
でも身体が先である。
その人の生き方は先ずは身体に現われる。
身体がその人の生き方を決定づける。
人は人に、犬は犬にと。
だから男は男に女は女にである。
てか神様のいたずらか、
そこが曖昧なこともときにある。
にしてもまんまに生きればいい、
それだけのこと。
こんなことはヒト以外にもあるだろうが、
それはなぜか表には出ない。
それは言葉を持たないから。
ところが人は言葉を持った。
それが人の内奥に意識を持たせる。
それが生き方を定めて文化となる。
繰り返しになるが、今一度。
身体がまず成って、そこに心魂が乗り、
それが言葉をなし、そして意識を育て、
終には文化となる、ここに人間がなる。
かかるがごとくで、
すべてはそも身体からである。
なのに意識が身体を拒否する。
あげく身体を改変しようとは。
論外の論外。
にしても各人それぞれ事情もあろうし、
そこは個人の自由かと。
ともかくまんまに生きればいいだけ。
周りがとやかく言うことはない。
ましてや法律など必要なし。
問題をこじらすだけで、
もう鬱陶しい限り。
・・・・・
ところで二者択一のことだが、
これは大元には二元論がある。
そこから発する選択で、
これがときに猛毒になるということ、
それを思うのです。
様相の違うもの二つから一つを選ぶ。
このことには何の問題もない。
それは良いのだが、
その一方を否定し排除しようとする、
それが問題なのだ。
例えば陰陽や左右、
これは現実にあるものの様相の違いです、
これはどちらを選んでも問題なし、
そこに否定がないからです。
問題は否定を伴うもの、
その典型が善悪の二元論です。
これは生粋の概念であり、
すべては心の模様である。
この宇宙にはそも善も悪もないのだ。
現実は現実だと言うしかない。
同様に事実は事実として、
これは立場や思想それに時代によって捉え方はかわる。
心の模様は変幻自在なのです。
ゆえ模様が如何にあろうとも、
一方が他方を否定し排除してはならない。
それは現実の否定につながる。
いま不快なのは、
それを操ろうとする者がいること、
これは昔からだが昨今は特に酷い。
ときに用いられる言葉がある。
自由、平等、友愛、平和、人権、多様性ほか諸々。
勿論言葉自体に問題などない。
問題となるのは、
そこに「反」の字句を付けて、
意に反するものを排除しようとすること。
御存じのように、
かかる事態は枚挙に暇がない、
政界官界財界学会にメディアそれにSNSなど、
あらゆるものを利用して。
でもって世界が虚と歪の糞まみれ。
異臭と汚物がてんこ盛り。
ハイ!