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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

しき&ある

2022-06-20 08:15:05 | 日記・エッセイ・コラム
「しき」には識・織・式・色などがある。
これらの元音は「し」である。
その音は「知る」と同じです。
そこで改めて意識のことだが、
意とは音の下に心があり、それは心の音ということ。
識は「しき」だが「し」とも読み、「知る」に同じ。
なら意識とは「心の音をしる」こと。
ちなみに知識とは「しる&しる」であり「しる」を重ねたもの。
ちなみにちなみに意識の識を織とすれば、
それは「心の音を織る」こと。
織ればそこに模様(あや)が現われる。
意識とはその綾のこと。
そこでまた意にもどる。
これは「心の音」だが、それは声のことだろう。
その発信元は音だけで言えば喉である。
でも心がよく分からない。
本当の発信元はそこだと。
先人はそれを心魂とする。
ついでだが、式も色も「しき」であり、
ともかくも、
「しき」は「ものごと」の「あや」であり、
「ものごと」によって字句を変えてるだけ。
ちなみに数式とは数に関わる綾のこと。
ちなみに儀式とは人に関わる綾のこと。
ちなみに色とは物に反射した光の綾のこと。
分かったような分からんような?
てかすべては言葉遊び。
・・・・・
「ある」は「ある」である。
何でこんなことを言うのか。
初めから「ある」からです。
自分も「ある」である。
「ある」ものの中に「ある」である。
それが世界(場)である。
そこに「ある」ものは、
そこに「ある」ものと共にある。
だから互いに影響しあっている。
すべてはつながっているのです。
だが生き物は「ある」をしった。
しったが意識はしない。
声が無いから。
だから無意識の意識と言う。
問題はヒトである。
無意識の意識ではなく、
意識を持ったのである。
つまり声を持ったのだ。
「ある」ものを「ある」と知った。
もとより場は前提であったが、
ときにそれが対象ともなった。
そこで科学だが、
実は科学は何も創らない、
文明を創っていると思うだろうが、
それはそうだが、
実は何も創っていない。
「ある」ものを知って、それをいじってるだけ。
無から有を創ってるのではない。
「ある」ものをいじってるだけ。
それを技術とか言って。
それを知ろう。
要するに、
科学は「ある」ものを「ある」と言ってるだけ。
でもそれが人間の始まりだと。
それが実に決定的なことだと、
でもである。
「ある」を知ったが、「ある」の故が分からない。
「ある」はどこまでも「ある」でしかなく、
それ以上は知りようがない。
ときに神が現われる。
そして神を知る。
神は有るとか無いとか、
信じるとか信じないとかの議論のほか。
神は知るものである。
そして一旦知ったら離れられない。
決して離れられないのだ。
そういうものだと。
・・・・・
だから神話がある。
神話は人間の始まりです。
意識を持った人間の始まりです。
それは声に出して語るもの。
それは声に出して歌うもの。
日本には古事記がある。
日本には万葉集がある。
世界的には聖書がある。
その聖書の出エジプト記で、
モーセが神に会合し言葉を預かったとき、
神にその御名を問うた。
ときに神は「アイ・アム」と答えた。
日本語では、
「在りて在るもの」或いは「在るもの」、
と訳されてるが、
じつに妙である。
それは、
「ある」である、
「ある」でしかない、
「ある」なのだ。
想うに、
日本人は所謂聖書の民ではないが、
なぜか聖書の民的であるのだ。
その精神が符合してると。
やまとごころがです、
それ神の道なり。

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