先日新聞を見ていたら、
ちょっとした記事があった。
・
思えば自分が卒業するとき、
威厳のある先生がおられた。
見た目は小柄で弱々しそうに見えるが
その存在感に威厳があった。
なのに自分が教師として区切りをつける今、
威厳などなく情けないことですと。
でもある生徒から手紙をもらった。
感じ方はそれぞれだが、
それなりに威厳があったと。
・
そんなことかな。
・・・・・
そこで余談をひとつ。
言葉の意味合いは人それぞれであり、
時代相も違うし、
ニュアンスは異なろうが、
その言葉が浮かんだら、
その言葉に捉われるのです。
一番はそこだと。
何度も言ってるが、
言葉を持った人間は言葉から逃れられない。
捉われると言ってもいい。
ヒトは言葉の囚人なのだ。
しかも当たり前すぎて、そのことに気づかない。
そういうことだと。
他人を責めたり自分を責めたり、
あげくに無差別に人を殺傷するとか、
引きこもったりとか自傷したりとか。
その根っこには言葉がある。
言葉の檻から出られなくなるのだ。
その挙句の仕儀だと。
そう思っている。
だから現実が大事なのだ。
現実を押さえねば。
だがこれが難しい。
繰り返しになるが、言葉を持ったからだ。
現実を現実として見られなくなる。
すべて言葉に置き換えるから。
現今の問題はここにある。
現実を言葉で創り上げてしまうのだ。
そのことを知る者がそれを利用する。
そして世界をまんま仕切ろうとする。
それが只今の状況です。
だから騙されてはいけないと。
それを私はいつも言っている。
歯がゆいが多くは理解しない。
まぁ言葉足らずがすべてだが。
私が言ってるのは、
一々の言葉ではなく、言葉の本質のことで、
そこさえ押さえていればと。
そういうことですが。
・・・・・
ここで本題を少し。
威厳とは他人が見てのことです。
周りの者にはその様に見えるということ。
本人が意識して出せるものではない。
威張っても出せないのだ。
思うに本人の姿勢であり何より覚悟だと。
それには「まこと」が必要なのは基より。
それが伝わってこそだと。
私の結論は「覚悟」です。
覚悟を持って生きてこそ。
だから本人は自分に威厳があるとは思わない。
そういうもんだと。
そこで先の先生のこと、
自分には威厳などないと思っても、
覚悟を持って生きてきたなら、
それを周りは感じるもの、
それが子供ならなお。
その対極にあるのが傲岸不遜である。
そこには覚悟などない。
自分の都合つまり我があるだけ。
だから「ガガアル」と言う。
私も言ってるが、
多分誰かが先に言っている。
・・・・・
対極と言うなら、
似たものに「祈り」と「呪い」がある。
祈りは、
「しき」を持ち「ある」を知って、
震えが止まらなくなった心魂の、
その震えを鎮めるための所為。
それは良きことを願うもの。
先ずは自分だが、
同時に想い人のため、
ときにすべての人のため、
そういうものです。
呪いは、
心魂の震えを鎮めるのは同じでも、
それは人を貶めるもの、
自分の我をさらけ出すもの、
言葉に囚われた我の暴走なのだ。
まさに対極である。
もうひとつ、
似たものに「神風特攻」と「自爆テロ」がある。
かたや戦う相手を定めている、しかも正々堂々、
そして何より命を守るため繋ぐため。
だからそれは死ぬことではない、
それは命の発露に如かず。
かたや戦う相手は不特定多数、しかも騙し討ち、
そしてそれは只の人殺し。
だからそれは単なる自殺である、
人を道連れにしての。
全然違うのだ。
なのに、
神風を美談にしてはならない、
とか言う人がいる。
誰も美談になどしていない。
事実を語っているだけ。
綺麗ごとを言う人ほどそう言う。
実にひねくれている。
・・・・・
ともかくも、有り難いことに、
日本には天皇陛下がおられる。
祭祀王である天皇陛下が。
その祈りは私事ではなく国民のためである。
しかも国民一人ひとりのためなのだ。
国民と謂う概念ではなく、
国民一人ひとりと言うは、
それは現実の国民ということ。
概念ではなく現実なのだ。
まことにしかり。
そんな祈りが国の真ん中にある。
そこで威厳に戻るが、
無私の「まこと」の前で、
威厳がどうのこうのとは、
畏れ多くもおこがましい。
うん!
ちょっとした記事があった。
・
思えば自分が卒業するとき、
威厳のある先生がおられた。
見た目は小柄で弱々しそうに見えるが
その存在感に威厳があった。
なのに自分が教師として区切りをつける今、
威厳などなく情けないことですと。
でもある生徒から手紙をもらった。
感じ方はそれぞれだが、
それなりに威厳があったと。
・
そんなことかな。
・・・・・
そこで余談をひとつ。
言葉の意味合いは人それぞれであり、
時代相も違うし、
ニュアンスは異なろうが、
その言葉が浮かんだら、
その言葉に捉われるのです。
一番はそこだと。
何度も言ってるが、
言葉を持った人間は言葉から逃れられない。
捉われると言ってもいい。
ヒトは言葉の囚人なのだ。
しかも当たり前すぎて、そのことに気づかない。
そういうことだと。
他人を責めたり自分を責めたり、
あげくに無差別に人を殺傷するとか、
引きこもったりとか自傷したりとか。
その根っこには言葉がある。
言葉の檻から出られなくなるのだ。
その挙句の仕儀だと。
そう思っている。
だから現実が大事なのだ。
現実を押さえねば。
だがこれが難しい。
繰り返しになるが、言葉を持ったからだ。
現実を現実として見られなくなる。
すべて言葉に置き換えるから。
現今の問題はここにある。
現実を言葉で創り上げてしまうのだ。
そのことを知る者がそれを利用する。
そして世界をまんま仕切ろうとする。
それが只今の状況です。
だから騙されてはいけないと。
それを私はいつも言っている。
歯がゆいが多くは理解しない。
まぁ言葉足らずがすべてだが。
私が言ってるのは、
一々の言葉ではなく、言葉の本質のことで、
そこさえ押さえていればと。
そういうことですが。
・・・・・
ここで本題を少し。
威厳とは他人が見てのことです。
周りの者にはその様に見えるということ。
本人が意識して出せるものではない。
威張っても出せないのだ。
思うに本人の姿勢であり何より覚悟だと。
それには「まこと」が必要なのは基より。
それが伝わってこそだと。
私の結論は「覚悟」です。
覚悟を持って生きてこそ。
だから本人は自分に威厳があるとは思わない。
そういうもんだと。
そこで先の先生のこと、
自分には威厳などないと思っても、
覚悟を持って生きてきたなら、
それを周りは感じるもの、
それが子供ならなお。
その対極にあるのが傲岸不遜である。
そこには覚悟などない。
自分の都合つまり我があるだけ。
だから「ガガアル」と言う。
私も言ってるが、
多分誰かが先に言っている。
・・・・・
対極と言うなら、
似たものに「祈り」と「呪い」がある。
祈りは、
「しき」を持ち「ある」を知って、
震えが止まらなくなった心魂の、
その震えを鎮めるための所為。
それは良きことを願うもの。
先ずは自分だが、
同時に想い人のため、
ときにすべての人のため、
そういうものです。
呪いは、
心魂の震えを鎮めるのは同じでも、
それは人を貶めるもの、
自分の我をさらけ出すもの、
言葉に囚われた我の暴走なのだ。
まさに対極である。
もうひとつ、
似たものに「神風特攻」と「自爆テロ」がある。
かたや戦う相手を定めている、しかも正々堂々、
そして何より命を守るため繋ぐため。
だからそれは死ぬことではない、
それは命の発露に如かず。
かたや戦う相手は不特定多数、しかも騙し討ち、
そしてそれは只の人殺し。
だからそれは単なる自殺である、
人を道連れにしての。
全然違うのだ。
なのに、
神風を美談にしてはならない、
とか言う人がいる。
誰も美談になどしていない。
事実を語っているだけ。
綺麗ごとを言う人ほどそう言う。
実にひねくれている。
・・・・・
ともかくも、有り難いことに、
日本には天皇陛下がおられる。
祭祀王である天皇陛下が。
その祈りは私事ではなく国民のためである。
しかも国民一人ひとりのためなのだ。
国民と謂う概念ではなく、
国民一人ひとりと言うは、
それは現実の国民ということ。
概念ではなく現実なのだ。
まことにしかり。
そんな祈りが国の真ん中にある。
そこで威厳に戻るが、
無私の「まこと」の前で、
威厳がどうのこうのとは、
畏れ多くもおこがましい。
うん!