不思議の日本語であるが、
そういうレッテルを張ってみたが、
考えてみれば不思議でも何でもないだろう。
ヒトが言葉を持ってからどれほど経ったのだろうか。
日本語はときの原点を忘れていない。
とすれば不思議ではない。
思うに、
私が念頭に置いてるのは欧米語であって、
それに比してのことです。
実際は世界の言語のほとんどは知らない。
そんな中での一方的な思いです。
そんなことで。
・・・・・
言葉は意識を明確にさせるが、
言葉が無くとも意識はあろうし我もあるだろう。
そこは疑わない。
命とはそういうものだと。
とりわけ自ら動く動物という生き物は。
植物はちょっと分からない。
にしても、
命の戦略はそれなりに持っており、
そこに思いの片鱗はあるだろうと。
でもそれは常に場と一体で場を離れない。
それは「もの」と「こと」の一体性がより強いということ。
動物はそこに融通性があるのです。
中でもヒトは融通性がありすぎる。
その要因は言葉にある。
我・はそれによって表に出てくる。
それも明確に強く出て来るのです。
それが自己中心の利己主義となり、
これまで言ってきた、
それを隠すために偽善を立てるリベラル、
それを隠さず堂々と正面に出す中華思想、
それを言葉の鎖で縛ってしまう原理主義、
となる。
ともかくも命には意思がある。
想えば生命とは摩訶不思議なものである。
生まれ成長しそして必ず滅する。
それは変えられない。
蛇足だがそんな中で、
永遠の命を志向する者がいる。
既に言ったが、
神の手の中で命の永遠性は担保されており、
それを敢えて求めるのは意味がない。
そも個体としての永遠性は矛盾でしかない。
なのに個体でそれを求めようと。
究極の利己主義である。
バカと言うのもバカバカしいほどのバカか。
「ものごと」は一体としてあるが、
それを「もの」と「こと」に分け、
「こと」だけを存在せしめようと、
それも永遠にである。
口ではどうとでも言えると謂う、
言葉の毒の極みでありましょう。
話はそれたが、
動物にはあきらかに意思がある。
でなければ個体として動けない。
だがそれを表に取り出すことができない。
取り出す道具(言葉)がないからだ。
そこで思うのです。
有ると明示はできないとしても、
それは無いということではない。
事実はあるとしか言えないのだ。
それが無意識の意識というもの。
そこでなお想うのです。
現実は必ず「ものごと」として存在する。
それは一体であり決して切り離せないと。
にもかかわらずそれを切り出すのである。
それが言葉である。
切り離せないものを切り出すとは?
それは写して取るのです。
「こと」を脳内に写しそれを取るのです。
それが言葉の所作である。
だとしても勿論現実は何も変わらない。
ただ取り出すだけなら何も変わらない。
だが言葉には力がある。
圧倒的な力がある。
ヒトの存在も「ものごと」としてある。
そこにある自分の「こと」に言葉の「こと」が取り憑く。
そして密接不可分となる。
発した言葉は当然、受けた言葉もまた。
取り憑いた「こと」が「まこと」ならいいが、
でなければ厄介となる。
無意識の意識なら場を離れない。
だから「まこと」をとらえる。
我が出すぎれば場を見失う。
そして「まこと」を外す。
・・・・・
日本語の不思議は不思議ではない。
日本語は言葉の始まりを押さえている。
日本語は「場」を離れない。
常に「場」とともにあろうとする。
場とは「ものごと」の在るところ。
そこを離れないとは、
「ものごと」の一体感を大事にするから、
「ものごと」の繋がりを大事にするから。
私と貴方は確かに違うが、場を通じて繋がっている。
そういう想いの中にある、そういう無意識の意識が。
そこに分断はおこらない。
だからか、
それが一つの音韻に多くの意を持たせる、
そして文に敢えての主語を持ち出さない、
に現れる。
場の力を借りるからそれができる。
ついでながら、
だから日本語はアナログ性が強いのです。
知っておこう、
デジタルは実は穴だらけ、アナログは繋がりである。
デジタルはあくまで仮想、アナログは現実そのもの。
デジタルを否定しないが、アナログが凄いのはそこ。
それもこれもあり、
言葉を持ちながら、
私をあからさまに持ち出さず、
あるがままに場を生きようと、
まるで虫たちの世界のような、
そんな無私の世界を。
日本語では言葉を「ことば」というが、
それは「言葉」と記し「事端」であり、
そして「事場」でもある。
実に興味深い。
そういうレッテルを張ってみたが、
考えてみれば不思議でも何でもないだろう。
ヒトが言葉を持ってからどれほど経ったのだろうか。
日本語はときの原点を忘れていない。
とすれば不思議ではない。
思うに、
私が念頭に置いてるのは欧米語であって、
それに比してのことです。
実際は世界の言語のほとんどは知らない。
そんな中での一方的な思いです。
そんなことで。
・・・・・
言葉は意識を明確にさせるが、
言葉が無くとも意識はあろうし我もあるだろう。
そこは疑わない。
命とはそういうものだと。
とりわけ自ら動く動物という生き物は。
植物はちょっと分からない。
にしても、
命の戦略はそれなりに持っており、
そこに思いの片鱗はあるだろうと。
でもそれは常に場と一体で場を離れない。
それは「もの」と「こと」の一体性がより強いということ。
動物はそこに融通性があるのです。
中でもヒトは融通性がありすぎる。
その要因は言葉にある。
我・はそれによって表に出てくる。
それも明確に強く出て来るのです。
それが自己中心の利己主義となり、
これまで言ってきた、
それを隠すために偽善を立てるリベラル、
それを隠さず堂々と正面に出す中華思想、
それを言葉の鎖で縛ってしまう原理主義、
となる。
ともかくも命には意思がある。
想えば生命とは摩訶不思議なものである。
生まれ成長しそして必ず滅する。
それは変えられない。
蛇足だがそんな中で、
永遠の命を志向する者がいる。
既に言ったが、
神の手の中で命の永遠性は担保されており、
それを敢えて求めるのは意味がない。
そも個体としての永遠性は矛盾でしかない。
なのに個体でそれを求めようと。
究極の利己主義である。
バカと言うのもバカバカしいほどのバカか。
「ものごと」は一体としてあるが、
それを「もの」と「こと」に分け、
「こと」だけを存在せしめようと、
それも永遠にである。
口ではどうとでも言えると謂う、
言葉の毒の極みでありましょう。
話はそれたが、
動物にはあきらかに意思がある。
でなければ個体として動けない。
だがそれを表に取り出すことができない。
取り出す道具(言葉)がないからだ。
そこで思うのです。
有ると明示はできないとしても、
それは無いということではない。
事実はあるとしか言えないのだ。
それが無意識の意識というもの。
そこでなお想うのです。
現実は必ず「ものごと」として存在する。
それは一体であり決して切り離せないと。
にもかかわらずそれを切り出すのである。
それが言葉である。
切り離せないものを切り出すとは?
それは写して取るのです。
「こと」を脳内に写しそれを取るのです。
それが言葉の所作である。
だとしても勿論現実は何も変わらない。
ただ取り出すだけなら何も変わらない。
だが言葉には力がある。
圧倒的な力がある。
ヒトの存在も「ものごと」としてある。
そこにある自分の「こと」に言葉の「こと」が取り憑く。
そして密接不可分となる。
発した言葉は当然、受けた言葉もまた。
取り憑いた「こと」が「まこと」ならいいが、
でなければ厄介となる。
無意識の意識なら場を離れない。
だから「まこと」をとらえる。
我が出すぎれば場を見失う。
そして「まこと」を外す。
・・・・・
日本語の不思議は不思議ではない。
日本語は言葉の始まりを押さえている。
日本語は「場」を離れない。
常に「場」とともにあろうとする。
場とは「ものごと」の在るところ。
そこを離れないとは、
「ものごと」の一体感を大事にするから、
「ものごと」の繋がりを大事にするから。
私と貴方は確かに違うが、場を通じて繋がっている。
そういう想いの中にある、そういう無意識の意識が。
そこに分断はおこらない。
だからか、
それが一つの音韻に多くの意を持たせる、
そして文に敢えての主語を持ち出さない、
に現れる。
場の力を借りるからそれができる。
ついでながら、
だから日本語はアナログ性が強いのです。
知っておこう、
デジタルは実は穴だらけ、アナログは繋がりである。
デジタルはあくまで仮想、アナログは現実そのもの。
デジタルを否定しないが、アナログが凄いのはそこ。
それもこれもあり、
言葉を持ちながら、
私をあからさまに持ち出さず、
あるがままに場を生きようと、
まるで虫たちの世界のような、
そんな無私の世界を。
日本語では言葉を「ことば」というが、
それは「言葉」と記し「事端」であり、
そして「事場」でもある。
実に興味深い。