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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

むしの世界

2022-06-13 09:03:43 | 日記・エッセイ・コラム
不思議の日本語であるが、
そういうレッテルを張ってみたが、
考えてみれば不思議でも何でもないだろう。
ヒトが言葉を持ってからどれほど経ったのだろうか。
日本語はときの原点を忘れていない。
とすれば不思議ではない。
思うに、
私が念頭に置いてるのは欧米語であって、
それに比してのことです。
実際は世界の言語のほとんどは知らない。
そんな中での一方的な思いです。
そんなことで。
・・・・・
言葉は意識を明確にさせるが、
言葉が無くとも意識はあろうし我もあるだろう。
そこは疑わない。
命とはそういうものだと。
とりわけ自ら動く動物という生き物は。
植物はちょっと分からない。
にしても、
命の戦略はそれなりに持っており、
そこに思いの片鱗はあるだろうと。
でもそれは常に場と一体で場を離れない。
それは「もの」と「こと」の一体性がより強いということ。
動物はそこに融通性があるのです。
中でもヒトは融通性がありすぎる。
その要因は言葉にある。
我・はそれによって表に出てくる。
それも明確に強く出て来るのです。
それが自己中心の利己主義となり、
これまで言ってきた、
それを隠すために偽善を立てるリベラル、
それを隠さず堂々と正面に出す中華思想、
それを言葉の鎖で縛ってしまう原理主義、
となる。
ともかくも命には意思がある。
想えば生命とは摩訶不思議なものである。
生まれ成長しそして必ず滅する。
それは変えられない。
蛇足だがそんな中で、
永遠の命を志向する者がいる。
既に言ったが、
神の手の中で命の永遠性は担保されており、
それを敢えて求めるのは意味がない。
そも個体としての永遠性は矛盾でしかない。
なのに個体でそれを求めようと。
究極の利己主義である。
バカと言うのもバカバカしいほどのバカか。
「ものごと」は一体としてあるが、
それを「もの」と「こと」に分け、
「こと」だけを存在せしめようと、
それも永遠にである。
口ではどうとでも言えると謂う、
言葉の毒の極みでありましょう。
話はそれたが、
動物にはあきらかに意思がある。
でなければ個体として動けない。
だがそれを表に取り出すことができない。
取り出す道具(言葉)がないからだ。
そこで思うのです。
有ると明示はできないとしても、
それは無いということではない。
事実はあるとしか言えないのだ。
それが無意識の意識というもの。
そこでなお想うのです。
現実は必ず「ものごと」として存在する。
それは一体であり決して切り離せないと。
にもかかわらずそれを切り出すのである。
それが言葉である。
切り離せないものを切り出すとは?
それは写して取るのです。
「こと」を脳内に写しそれを取るのです。
それが言葉の所作である。
だとしても勿論現実は何も変わらない。
ただ取り出すだけなら何も変わらない。
だが言葉には力がある。
圧倒的な力がある。
ヒトの存在も「ものごと」としてある。
そこにある自分の「こと」に言葉の「こと」が取り憑く。
そして密接不可分となる。
発した言葉は当然、受けた言葉もまた。
取り憑いた「こと」が「まこと」ならいいが、
でなければ厄介となる。
無意識の意識なら場を離れない。
だから「まこと」をとらえる。
我が出すぎれば場を見失う。
そして「まこと」を外す。
・・・・・
日本語の不思議は不思議ではない。
日本語は言葉の始まりを押さえている。
日本語は「場」を離れない。
常に「場」とともにあろうとする。
場とは「ものごと」の在るところ。
そこを離れないとは、
「ものごと」の一体感を大事にするから、
「ものごと」の繋がりを大事にするから。
私と貴方は確かに違うが、場を通じて繋がっている。
そういう想いの中にある、そういう無意識の意識が。
そこに分断はおこらない。
だからか、
それが一つの音韻に多くの意を持たせる、
そして文に敢えての主語を持ち出さない、
に現れる。
場の力を借りるからそれができる。
ついでながら、
だから日本語はアナログ性が強いのです。
知っておこう、
デジタルは実は穴だらけ、アナログは繋がりである。
デジタルはあくまで仮想、アナログは現実そのもの。
デジタルを否定しないが、アナログが凄いのはそこ。
それもこれもあり、
言葉を持ちながら、
私をあからさまに持ち出さず、
あるがままに場を生きようと、
まるで虫たちの世界のような、
そんな無私の世界を。
日本語では言葉を「ことば」というが、
それは「言葉」と記し「事端」であり、
そして「事場」でもある。
実に興味深い。