ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

奇妙・不可思議

2022-02-21 09:57:08 | 日記・エッセイ・コラム
「もの」と「こと」は一体であり、
「もの」なければ「こと」もなし。
無の世界に「こと」はない。
有であっても変化がなければまた同じ。
言葉ではどうとでも言えるが、
現実は見ての通りで、
「もの」があり、
すべての「もの」は繋がっており、
すべての「もの」は変化している。
そこには「こと」がある。
あらゆる「こと」がある。
・・・・・
ここに妙がある。
ここに不可思議がある。
言葉である。
言葉はすぐれて「こと」である。
それは「もの」から離れた「こと」である。
「こと」単独で存在する。かの如し。
これが妙である。
これが不可思議である。
とはいえ厳密に言えばやはり「もの」と伴にある。
その初めには「もの」がある。
言葉はそも音である。
人の口から出る音(声)である。
そこに思いが乗る。
音には空気が必要です。
空気(の振動)がそれを伝えるから。
だから「もの」と伴にある。
だがいづれからか、
音がなくても存在する。
文字がそのひとつ。
それはそうだが、
文字もあきらかに「もの」を必要とする。
それを留める紙などが必要なのだ。
だからこれも「もの」と伴にある。
思念ならどうか。
これは「もの」から離れてるようだ。
でもやはりダメだ。
脳(を含む身体)が必要である。
と言うことで結局堂々巡り。
それにしても、
「もの」から離れてるように見える。
本当に離れてるのか。
離れてるとすればどこに有るのか。
それは何なのか。
ここに妙がある。
・・・・・
言葉は「もの」ではない。
だから当然「もの」としては存在しない。
上記のように在るのは媒体だけ。
媒体とともに有るのみ。
想えば「もの」には「今」しかない。
それが「もの」の世界である。
だがそれは常に動いている。
言葉はその今を記憶(記録)として残す。
ときに「とき(時)」が創られた。
現代過去未来の登場である。
これは計り(尺度)となる。
人間の最大の発明品である。
これで「こと」が捉えられるようになった。
これが人類の始まりと言ってもよい。
ときに始まりの様が語られる。
物語の登場である、
それが神話。
神話とは如何なるものか。
言うまでもないが人間の原点である。
科学など目ではない。
それにしてもだ、
今まで何度も言ってきたが、
言葉を持った経緯が分からない、
人類(の始まり)としても、
個人(の始まり)としても。
そのうえ言葉は空気のようなもので、
当たり前のようにあって、
その実がよく分からない。
にしても言葉は人を縛る。
それも恐ろしいほどにだ。
しかもそれに気付かない。
ものすごく有用だが同時に猛毒なのである。
毒と薬は同じものだが、
言葉はまさにそれ。
・・・・・
その言葉を人間は持ったのだ。
聖書は初めにその経緯を記す。
人間が禁忌を犯したゆえだと、
だから楽園を追われたと。
物語として象徴的に記しているのだ。
ちなみにその前に、
「こと」の力の基は神の言葉だと、
大前提として神を想定する。
想定と言ったがそれを疑う理由はない。
現に実があって「こと」がある。
そこに基としての力があるのは当然。
それは否定できない。
それを神の力としてもおかしくない。
よって神も否定できない。
信じなくてもいいが、
否定もできないのだ。
そういうこと。
そこで神の言葉と人の言葉の違い、
それはあきらか。
神の言葉は力そのものであり、
「こと」の本源の力である。
人の言葉はそれを知るもの、
知ればその後追いができる、
つまりはなぞっているだけ。
実は何も創らない。
ただ知ることによって再現はできる。
そしてそこに少しは手を加えられる。
ということなのだが、
でもそれが人の力である。
・・・・・
にしても、
今世界は毒が回っている。
それもものすごい勢いで。
典型的にはこのウイルス問題。
ウイルスは人類登場以前から存在する。
もとより神の手の中にある自然物であって、
存在するものはそも共生しており、
ときにその境界で軋轢はあっても。
このこと私は疑わない。
それを人は言葉の力(技術)で弄んだ。
そしてそれが流出した。
そういうことだろうと。
でもそれは人間が創ったものではない、
そもウイルスを創ることなどできない、
結局は自然物なのだ。
それを知ろう。
だから恐れる必要はない。
むしろ怖いのはワクチンである。
どうも従来のものとは相当違うらしい。
自然から離れて弄んだ挙句の、
怪しくも得体の知れないもの。
だから怒っている。
それも怒り心頭だ。
それにしても、
すべては言葉の問題であり、
言葉の毒である。
問題がないのに問題だと騒ぎ立て、
それを理由に問題を創り出す。
もう処置なしである。
私には如何ともし難い。
さなれば最後は神頼み。
でも心配はしていない。
神は必ず成る。