「もの」と「こと」は一体であり、
「もの」なければ「こと」もなし。
無の世界に「こと」はない。
有であっても変化がなければまた同じ。
言葉ではどうとでも言えるが、
現実は見ての通りで、
「もの」があり、
すべての「もの」は繋がっており、
すべての「もの」は変化している。
そこには「こと」がある。
あらゆる「こと」がある。
・・・・・
ここに妙がある。
ここに不可思議がある。
言葉である。
言葉はすぐれて「こと」である。
それは「もの」から離れた「こと」である。
「こと」単独で存在する。かの如し。
これが妙である。
これが不可思議である。
とはいえ厳密に言えばやはり「もの」と伴にある。
その初めには「もの」がある。
言葉はそも音である。
人の口から出る音(声)である。
そこに思いが乗る。
音には空気が必要です。
空気(の振動)がそれを伝えるから。
だから「もの」と伴にある。
だがいづれからか、
音がなくても存在する。
文字がそのひとつ。
それはそうだが、
文字もあきらかに「もの」を必要とする。
それを留める紙などが必要なのだ。
だからこれも「もの」と伴にある。
思念ならどうか。
これは「もの」から離れてるようだ。
でもやはりダメだ。
脳(を含む身体)が必要である。
と言うことで結局堂々巡り。
それにしても、
「もの」から離れてるように見える。
本当に離れてるのか。
離れてるとすればどこに有るのか。
それは何なのか。
ここに妙がある。
・・・・・
言葉は「もの」ではない。
だから当然「もの」としては存在しない。
上記のように在るのは媒体だけ。
媒体とともに有るのみ。
想えば「もの」には「今」しかない。
それが「もの」の世界である。
だがそれは常に動いている。
言葉はその今を記憶(記録)として残す。
ときに「とき(時)」が創られた。
現代過去未来の登場である。
これは計り(尺度)となる。
人間の最大の発明品である。
これで「こと」が捉えられるようになった。
これが人類の始まりと言ってもよい。
ときに始まりの様が語られる。
物語の登場である、
それが神話。
神話とは如何なるものか。
言うまでもないが人間の原点である。
科学など目ではない。
それにしてもだ、
今まで何度も言ってきたが、
言葉を持った経緯が分からない、
人類(の始まり)としても、
個人(の始まり)としても。
そのうえ言葉は空気のようなもので、
当たり前のようにあって、
その実がよく分からない。
にしても言葉は人を縛る。
それも恐ろしいほどにだ。
しかもそれに気付かない。
ものすごく有用だが同時に猛毒なのである。
毒と薬は同じものだが、
言葉はまさにそれ。
・・・・・
その言葉を人間は持ったのだ。
聖書は初めにその経緯を記す。
人間が禁忌を犯したゆえだと、
だから楽園を追われたと。
物語として象徴的に記しているのだ。
ちなみにその前に、
「こと」の力の基は神の言葉だと、
大前提として神を想定する。
想定と言ったがそれを疑う理由はない。
現に実があって「こと」がある。
そこに基としての力があるのは当然。
それは否定できない。
それを神の力としてもおかしくない。
よって神も否定できない。
信じなくてもいいが、
否定もできないのだ。
そういうこと。
そこで神の言葉と人の言葉の違い、
それはあきらか。
神の言葉は力そのものであり、
「こと」の本源の力である。
人の言葉はそれを知るもの、
知ればその後追いができる、
つまりはなぞっているだけ。
実は何も創らない。
ただ知ることによって再現はできる。
そしてそこに少しは手を加えられる。
ということなのだが、
でもそれが人の力である。
・・・・・
にしても、
今世界は毒が回っている。
それもものすごい勢いで。
典型的にはこのウイルス問題。
ウイルスは人類登場以前から存在する。
もとより神の手の中にある自然物であって、
存在するものはそも共生しており、
ときにその境界で軋轢はあっても。
このこと私は疑わない。
それを人は言葉の力(技術)で弄んだ。
そしてそれが流出した。
そういうことだろうと。
でもそれは人間が創ったものではない、
そもウイルスを創ることなどできない、
結局は自然物なのだ。
それを知ろう。
だから恐れる必要はない。
むしろ怖いのはワクチンである。
どうも従来のものとは相当違うらしい。
自然から離れて弄んだ挙句の、
怪しくも得体の知れないもの。
だから怒っている。
それも怒り心頭だ。
それにしても、
すべては言葉の問題であり、
言葉の毒である。
問題がないのに問題だと騒ぎ立て、
それを理由に問題を創り出す。
もう処置なしである。
私には如何ともし難い。
さなれば最後は神頼み。
でも心配はしていない。
神は必ず成る。
「もの」なければ「こと」もなし。
無の世界に「こと」はない。
有であっても変化がなければまた同じ。
言葉ではどうとでも言えるが、
現実は見ての通りで、
「もの」があり、
すべての「もの」は繋がっており、
すべての「もの」は変化している。
そこには「こと」がある。
あらゆる「こと」がある。
・・・・・
ここに妙がある。
ここに不可思議がある。
言葉である。
言葉はすぐれて「こと」である。
それは「もの」から離れた「こと」である。
「こと」単独で存在する。かの如し。
これが妙である。
これが不可思議である。
とはいえ厳密に言えばやはり「もの」と伴にある。
その初めには「もの」がある。
言葉はそも音である。
人の口から出る音(声)である。
そこに思いが乗る。
音には空気が必要です。
空気(の振動)がそれを伝えるから。
だから「もの」と伴にある。
だがいづれからか、
音がなくても存在する。
文字がそのひとつ。
それはそうだが、
文字もあきらかに「もの」を必要とする。
それを留める紙などが必要なのだ。
だからこれも「もの」と伴にある。
思念ならどうか。
これは「もの」から離れてるようだ。
でもやはりダメだ。
脳(を含む身体)が必要である。
と言うことで結局堂々巡り。
それにしても、
「もの」から離れてるように見える。
本当に離れてるのか。
離れてるとすればどこに有るのか。
それは何なのか。
ここに妙がある。
・・・・・
言葉は「もの」ではない。
だから当然「もの」としては存在しない。
上記のように在るのは媒体だけ。
媒体とともに有るのみ。
想えば「もの」には「今」しかない。
それが「もの」の世界である。
だがそれは常に動いている。
言葉はその今を記憶(記録)として残す。
ときに「とき(時)」が創られた。
現代過去未来の登場である。
これは計り(尺度)となる。
人間の最大の発明品である。
これで「こと」が捉えられるようになった。
これが人類の始まりと言ってもよい。
ときに始まりの様が語られる。
物語の登場である、
それが神話。
神話とは如何なるものか。
言うまでもないが人間の原点である。
科学など目ではない。
それにしてもだ、
今まで何度も言ってきたが、
言葉を持った経緯が分からない、
人類(の始まり)としても、
個人(の始まり)としても。
そのうえ言葉は空気のようなもので、
当たり前のようにあって、
その実がよく分からない。
にしても言葉は人を縛る。
それも恐ろしいほどにだ。
しかもそれに気付かない。
ものすごく有用だが同時に猛毒なのである。
毒と薬は同じものだが、
言葉はまさにそれ。
・・・・・
その言葉を人間は持ったのだ。
聖書は初めにその経緯を記す。
人間が禁忌を犯したゆえだと、
だから楽園を追われたと。
物語として象徴的に記しているのだ。
ちなみにその前に、
「こと」の力の基は神の言葉だと、
大前提として神を想定する。
想定と言ったがそれを疑う理由はない。
現に実があって「こと」がある。
そこに基としての力があるのは当然。
それは否定できない。
それを神の力としてもおかしくない。
よって神も否定できない。
信じなくてもいいが、
否定もできないのだ。
そういうこと。
そこで神の言葉と人の言葉の違い、
それはあきらか。
神の言葉は力そのものであり、
「こと」の本源の力である。
人の言葉はそれを知るもの、
知ればその後追いができる、
つまりはなぞっているだけ。
実は何も創らない。
ただ知ることによって再現はできる。
そしてそこに少しは手を加えられる。
ということなのだが、
でもそれが人の力である。
・・・・・
にしても、
今世界は毒が回っている。
それもものすごい勢いで。
典型的にはこのウイルス問題。
ウイルスは人類登場以前から存在する。
もとより神の手の中にある自然物であって、
存在するものはそも共生しており、
ときにその境界で軋轢はあっても。
このこと私は疑わない。
それを人は言葉の力(技術)で弄んだ。
そしてそれが流出した。
そういうことだろうと。
でもそれは人間が創ったものではない、
そもウイルスを創ることなどできない、
結局は自然物なのだ。
それを知ろう。
だから恐れる必要はない。
むしろ怖いのはワクチンである。
どうも従来のものとは相当違うらしい。
自然から離れて弄んだ挙句の、
怪しくも得体の知れないもの。
だから怒っている。
それも怒り心頭だ。
それにしても、
すべては言葉の問題であり、
言葉の毒である。
問題がないのに問題だと騒ぎ立て、
それを理由に問題を創り出す。
もう処置なしである。
私には如何ともし難い。
さなれば最後は神頼み。
でも心配はしていない。
神は必ず成る。