ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

「こと」わり

2022-02-14 09:11:09 | 日記・エッセイ・コラム
「ことわり」には「ことわり」たいものがある?
「理」には「断り」たいものがある、ということだが、
「ことわり」とは「こと」を「わる」ことである。
 つまり事を割るのである。
「こと」とは現象(すべて)である。
 それは神の口から出る言葉により成るのだが、
「こと」とは「もの」の変化の様であり、
 それはすべて繋がっている。
 もとは「ひとつ」なのだ。
 それを割るのである。
 それを知ると謂う。
 知るとは割った間の僅かな違いに着目して、
 心を現実に馴染ませる人間の技である。
 その道具が言葉である。
 神の言葉を真似て創ったもの。
 にしても断りたいとは。
 現実は神の理(ことわり)であり断れない。
 それを忘れて、
 現実を人の理(ことわり)で埋め尽くせば、
 現実を見失う。
 それを断りたいのです。
 うん!
・・・・・
禅問答ではある。
禅問答はなかなかに良い。
現実を否定しない。
現実と伴にある。
言葉過多言葉過信の欧米人らはそれが分からない。
だからつまづく。
言葉につまずくのだ。
今そんな世界が広がってる。
典型的な言葉が「平等」である。
平等はもともと在るもの。
存在の平等に疑問の余地はない。
生き物であってもだ。
生き物は生まれる前にいた場所に必ず帰る。
そこに違いはない。
完膚なきまでの平等なのだ。
さりながら生まれる時や場所などは異なる。
だから違いは避けられない。
しかも一つとして同じものはない。
皆それぞれなのだ。
その違いこそ貴方であり、
その違いこそ私である。
それを否定すれば、
そのとき貴方は消える。
その存在が消える。
今「ジェンダーフリー」とか言って、
違いを否定して世を惑わす者がいる。
バカな話だ。
違いを否定すれば、
貴方も私も消える、
しかない。

犬に生まれれば犬を生き、
猫に生まれれば猫を生きる。
男に生まれれば男を生き、
女に生まれれば女を生きる、
身が男で心が女ならばそれを生きる、
貴方は貴方、
私は私、
そして貴方も私も在る。
・・・・・
日本は「こと」を知る。
だから「こと」を祀る。
「もの」と「こと」は一体だが、
なぜか「こと」を祀る。
「もの」はむしろその依代とする。
にしても祀っているのは、
単に「こと」というのではない。
その奥にある基としての力であろう。
ときに神道は神ではなく人を祀っていると。
例えば天満宮。
そこには菅原道真が祀られている。
だからそう言えなくもない。
でもそこに遺体はない。
墓ではないのだ。
祀っているのは物ではなく事なのだ。
道真という「もの」の変化の様(生きた様)であり、
それはまさに「こと」である。
それは心魂と言ってもいいが、
心魂とは「こと」ではあるが、
むしろ「こと」の本源である。
ここに妙がある。
本源とは、
神の口から出る言葉であり、
それが「こと」の本意なら、
結局は神を祀っているのだ。
・・・・・
思えば欧米らの一神教には闇がある。
彼らは神はすべてだと言いながら、
神を人の言葉の中に閉じ込める。
聖書(出エジプト記)の中で、
モーセは荒野を彷徨っているとき、
神に会合し神から言葉を預かった。
ときに神に名を問うた、
神は応えた「我は在りて在るもの」だと。
これはつまり、神はすべてだと、
存在(ものごと)のすべてだと。
なのにである。
彼ら一神教徒らは、
自分も含めてすべてが神的な存在なのに、
自分の外に神を置くのだ。
これが神を閉じ込めるとの意で、
ときに自分の居場所が見えなくなる。
そして闇を彷徨い神をも超えようとする。
彼の世界では、
そういう闇が広がっている。
厄介なこと限りなし。

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