ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

1&2と3~

2021-10-18 16:02:25 | 日記・エッセイ・コラム
1という数字は不安定である。
別名単数というが。
現実はすべて神の言葉の顕現であり、
それが「ものごと」(宇宙)である。
それが聖書の思想だと。
神と謂う字も示す偏に申すと記す。
示して申すとは正に言い得て妙。
だとしたら実に感慨深いもの。
1が不安定なのは柱を想定すれば分かりやすい。
聖書を基とする一神教が危ういのはここにある。
全体を1と表現するからだ。
全体は文字通り全体だから本来不安定ではない。
それを1と表現するから不安定になる。
まことに人の言葉は危うい。
・・・・・
一神教の危うさになぜ気付かない。
言葉過多の欧米人らはそれゆえ言葉に頼る。
それがまた気付かない理由である。
言葉を捨てられないのだ。
これ悪循環なり。
つまり現実ではなく概念の奴隷になる。
そういう質を持っている。
全体をまんま受け入れれば自分も全体の内。
これは当然必然当り前。
でも1とすれば時に自分はそこから消える。
自分が別枠になってしまうのだ。
さすれば神は外にしか見えない。
これ矛盾なり。
神はすべてなのにそうではなくなるのだ。
そも人の思いはそれぞれだから神もいろいろ。
多神教になるのが自然で、歴史的にはそうだろう。
その限りでは問題はない。
でも1の危険がつき纏う。
我の神だけが神であると。
だから日本のように神という一般名詞ではなく、
固有名詞(名前)を付けるのだ。
それも1の故ではあろう。
だからか諍いが絶えない。
・・・・・
2という数字も不安定である。
別名複数と謂う。
複数と言えば2以上はすべてそうだが、
2という複数はちょっと特別です。
柱を想定すれば1よりは安定感がある。
でも3~に比べれば不安定である。
にしても二神教というのは聞いたことがない。
あればこれも危ういだろうに。
でもあるのです。
それは一神教に付いている。
それはその影に隠れている。
それを悪魔教という。
一神教が危ういのは、
その1という性質がゆえだが、
そこに悪魔教という影がつき纏うから。
この影がつき纏うというのが、
2という数字の特異なところ。
それゆえか2には別称がある。
それを対という。
別称を付けるほどに特徴的なのです。
これはよく言われる二元論ともなる。
ここに言葉の本質がある。
微妙な違いを感じてそこに線を引く。
そして本来すべてが繋がっている現実を、
バッサリと切って単純化してしまう。
そして分かったような気になる。
線を引くとはそういうこと。
それが言葉の奥義だと。
実際は二元論には見えないだろうが、
それは引く線が数多あるから、
本質は二元論なのです。
しかして二元論が怖いのは、
線を引いたとき他のすべての現実を、
バッサリ切り捨てるところ。
遊びや方便ならいいのだが、
現実と思い込めばそれは真っ赤な嘘。
2という数字はそれを内包する。
・・・・・
3という数字は安定感がある。
先のごとく、
柱を想定すれば分かりやすい。
同じ複数でも2と3~は違う。
3以上が本当の複数だと思う。
2は対とは言うが多数とは言わない。
3はそれ以上の数字を代表している。
それ以上のすべての数字を代表している。
つまり3は現実を示していると。
勝手にそう思っている。
日本の神話では造化三神といって、
原初の神様は三者である。
聖書の天地創造も、
私の解釈では、
それは物と光と事の三者で成っており、
それを為す神は一にして全であるのだ。
キリスト教ではそれを、
「父と子と精霊」と言っている。
当然に基は聖書だから、
「物と光と事」に対比している、
と勝手に思っている。
まあ言葉遊びである。