1という数字は不安定である。
別名単数というが。
現実はすべて神の言葉の顕現であり、
それが「ものごと」(宇宙)である。
それが聖書の思想だと。
神と謂う字も示す偏に申すと記す。
示して申すとは正に言い得て妙。
だとしたら実に感慨深いもの。
1が不安定なのは柱を想定すれば分かりやすい。
聖書を基とする一神教が危ういのはここにある。
全体を1と表現するからだ。
全体は文字通り全体だから本来不安定ではない。
それを1と表現するから不安定になる。
まことに人の言葉は危うい。
・・・・・
一神教の危うさになぜ気付かない。
言葉過多の欧米人らはそれゆえ言葉に頼る。
それがまた気付かない理由である。
言葉を捨てられないのだ。
これ悪循環なり。
つまり現実ではなく概念の奴隷になる。
そういう質を持っている。
全体をまんま受け入れれば自分も全体の内。
これは当然必然当り前。
でも1とすれば時に自分はそこから消える。
自分が別枠になってしまうのだ。
さすれば神は外にしか見えない。
これ矛盾なり。
神はすべてなのにそうではなくなるのだ。
そも人の思いはそれぞれだから神もいろいろ。
多神教になるのが自然で、歴史的にはそうだろう。
その限りでは問題はない。
でも1の危険がつき纏う。
我の神だけが神であると。
だから日本のように神という一般名詞ではなく、
固有名詞(名前)を付けるのだ。
それも1の故ではあろう。
だからか諍いが絶えない。
・・・・・
2という数字も不安定である。
別名複数と謂う。
複数と言えば2以上はすべてそうだが、
2という複数はちょっと特別です。
柱を想定すれば1よりは安定感がある。
でも3~に比べれば不安定である。
にしても二神教というのは聞いたことがない。
あればこれも危ういだろうに。
でもあるのです。
それは一神教に付いている。
それはその影に隠れている。
それを悪魔教という。
一神教が危ういのは、
その1という性質がゆえだが、
そこに悪魔教という影がつき纏うから。
この影がつき纏うというのが、
2という数字の特異なところ。
それゆえか2には別称がある。
それを対という。
別称を付けるほどに特徴的なのです。
これはよく言われる二元論ともなる。
ここに言葉の本質がある。
微妙な違いを感じてそこに線を引く。
そして本来すべてが繋がっている現実を、
バッサリと切って単純化してしまう。
そして分かったような気になる。
線を引くとはそういうこと。
それが言葉の奥義だと。
実際は二元論には見えないだろうが、
それは引く線が数多あるから、
本質は二元論なのです。
しかして二元論が怖いのは、
線を引いたとき他のすべての現実を、
バッサリ切り捨てるところ。
遊びや方便ならいいのだが、
現実と思い込めばそれは真っ赤な嘘。
2という数字はそれを内包する。
・・・・・
3という数字は安定感がある。
先のごとく、
柱を想定すれば分かりやすい。
同じ複数でも2と3~は違う。
3以上が本当の複数だと思う。
2は対とは言うが多数とは言わない。
3はそれ以上の数字を代表している。
それ以上のすべての数字を代表している。
つまり3は現実を示していると。
勝手にそう思っている。
日本の神話では造化三神といって、
原初の神様は三者である。
聖書の天地創造も、
私の解釈では、
それは物と光と事の三者で成っており、
それを為す神は一にして全であるのだ。
キリスト教ではそれを、
「父と子と精霊」と言っている。
当然に基は聖書だから、
「物と光と事」に対比している、
と勝手に思っている。
まあ言葉遊びである。
別名単数というが。
現実はすべて神の言葉の顕現であり、
それが「ものごと」(宇宙)である。
それが聖書の思想だと。
神と謂う字も示す偏に申すと記す。
示して申すとは正に言い得て妙。
だとしたら実に感慨深いもの。
1が不安定なのは柱を想定すれば分かりやすい。
聖書を基とする一神教が危ういのはここにある。
全体を1と表現するからだ。
全体は文字通り全体だから本来不安定ではない。
それを1と表現するから不安定になる。
まことに人の言葉は危うい。
・・・・・
一神教の危うさになぜ気付かない。
言葉過多の欧米人らはそれゆえ言葉に頼る。
それがまた気付かない理由である。
言葉を捨てられないのだ。
これ悪循環なり。
つまり現実ではなく概念の奴隷になる。
そういう質を持っている。
全体をまんま受け入れれば自分も全体の内。
これは当然必然当り前。
でも1とすれば時に自分はそこから消える。
自分が別枠になってしまうのだ。
さすれば神は外にしか見えない。
これ矛盾なり。
神はすべてなのにそうではなくなるのだ。
そも人の思いはそれぞれだから神もいろいろ。
多神教になるのが自然で、歴史的にはそうだろう。
その限りでは問題はない。
でも1の危険がつき纏う。
我の神だけが神であると。
だから日本のように神という一般名詞ではなく、
固有名詞(名前)を付けるのだ。
それも1の故ではあろう。
だからか諍いが絶えない。
・・・・・
2という数字も不安定である。
別名複数と謂う。
複数と言えば2以上はすべてそうだが、
2という複数はちょっと特別です。
柱を想定すれば1よりは安定感がある。
でも3~に比べれば不安定である。
にしても二神教というのは聞いたことがない。
あればこれも危ういだろうに。
でもあるのです。
それは一神教に付いている。
それはその影に隠れている。
それを悪魔教という。
一神教が危ういのは、
その1という性質がゆえだが、
そこに悪魔教という影がつき纏うから。
この影がつき纏うというのが、
2という数字の特異なところ。
それゆえか2には別称がある。
それを対という。
別称を付けるほどに特徴的なのです。
これはよく言われる二元論ともなる。
ここに言葉の本質がある。
微妙な違いを感じてそこに線を引く。
そして本来すべてが繋がっている現実を、
バッサリと切って単純化してしまう。
そして分かったような気になる。
線を引くとはそういうこと。
それが言葉の奥義だと。
実際は二元論には見えないだろうが、
それは引く線が数多あるから、
本質は二元論なのです。
しかして二元論が怖いのは、
線を引いたとき他のすべての現実を、
バッサリ切り捨てるところ。
遊びや方便ならいいのだが、
現実と思い込めばそれは真っ赤な嘘。
2という数字はそれを内包する。
・・・・・
3という数字は安定感がある。
先のごとく、
柱を想定すれば分かりやすい。
同じ複数でも2と3~は違う。
3以上が本当の複数だと思う。
2は対とは言うが多数とは言わない。
3はそれ以上の数字を代表している。
それ以上のすべての数字を代表している。
つまり3は現実を示していると。
勝手にそう思っている。
日本の神話では造化三神といって、
原初の神様は三者である。
聖書の天地創造も、
私の解釈では、
それは物と光と事の三者で成っており、
それを為す神は一にして全であるのだ。
キリスト教ではそれを、
「父と子と精霊」と言っている。
当然に基は聖書だから、
「物と光と事」に対比している、
と勝手に思っている。
まあ言葉遊びである。