聖書の民とは先ずはユダヤ人であろう。
次にキリスト教の欧米系の人々である。
イスラム教の人々はコーランの民だから違うようだが、
旧約聖書も聖典の一つとされており、
だから聖書の民でもあるのだろうと。
こう見てくると聖書の民は実に多い。
ちなみにキリスト教はユダヤ教キリスト派とも謂える。
イエスはあくまでユダヤ教を伝えたのだ。
本来のユダヤ教に戻れと。
しかして、
布教しているときは人?であったが、
天に召されて神となった。
・・・・・
そこで日本人である。
日本人は聖書を持たない。
でも私は「日本人は聖書の民である」と。
それは聖書(創世記)と日本語が符号するからだ。
この世界(宇宙)は一言で言えば、
「もの」と「こと」で出来ている。
神は最初に「天と地」を創られた。
次に「光あれ」と言われたら光があった。
そこから空や陸や海、
それに草や木などの生物を、
さらに諸々創られていった。
最初の天と地は「もの」である。
それ以降は「もの」を基とした現象つまり「こと」である。
光の現象として闇を創り、
天地の現象として空や陸や海を創り、
そしてその他諸々を。
それら一つひとつは事の端である。
それは神の口から出る言葉によって創られた。
言葉とは「ことのは」であり事端に同じ。
日本語(音=かな)で読み解けば明らか。
でも最初に言葉で創られた光は実に微妙。
事実「もの」でもあり「こと」でもある。
現代物理学でもそう扱っている。
現象は「もの」を基とするが「光」があってこそだろう。
だから最初に創られたのが光なのだ。
即ち光は「もの」と「こと」を繋いでいる。
実に不可思議な「もの」であり「こと」であるのだ。
而して物事を分けて考えたとしても、
そも密接不可分且つ一心同体である。
即ち「ものごと」なのだ。
・・・・・
ここに日本の神名の妙がある。
最高神の「天照大神」は太陽神つまり光の化身である。
そこに「大物主」がいて「事代主」がいる。
「もの」と「こと」と「光」が揃っている。
この三者こそ存在の根幹かと。
人はそれを察知していたのか。
実に興味深い。
さらに物と事の違いも神名に表れる。
物は見たり触ったりできる。
分かりやすいのだ。
だから単に物主と。
事は変化の様だから捉えどころがない。
一時的には変化が無いようにも見える。
ゆえにそれは「しる」ものである。
だから「ことしろぬし」と言うと。
漢字なら知とか識だろうが、ここでは代を当てている。
何にしても妙なり。
その基は何と言っても言葉である。
「しる」とは実に言葉の技なのだ。
人間にとっては現象は言葉があってこそ捉えられる。
だから逆に現象を神の言葉に依るとしたのか。
にしても神とは?
架空の存在なのか。
そうとは言えない。
そも宇宙や生命の不可思議を想えば、
そこに人知を越えた計らいがあると、
そう思わざるを得ない。
その根源を神と呼んだ。
そのときから神は在る。
言葉とともに在る人は、
ゆえに神とともに在る。
・・・・・
存在するものはすべて神の手に依る。
だからすべては神の子である。
神の世界に神の子として在る。
その世界(場)を楽園と謂う。
人はそこで禁忌を犯した。
神威の根幹である言葉を手に入れたのである。
ゆえに神の怒りに触れ楽園を追われた。
と聖書は言っている。
それは言葉には毒があるからだ。
注意しなければ簡単に毒される。
それを嘘と謂う。
だから追われたのだ。
そこで思うのだが、
日本人は追われていないのではと。
もとより場としては誰も追われていない。
現に他の生物とともに生きている。
追われたとは次元的なことだと。
それは霊的な次元のことかと。
ともかくも、すべての現象の基は言葉にある。
だから現象が生起するとは言葉が成ることで、
その言葉を「まこと」と謂う。
それ神の言葉なり。
日本人はそれを大事に抱えている。
漢字で記せば「真言」や「誠」である。
特に誠はそのまんまで、
文字通り言が成るのだ。
ゆえに今だ楽園に留まっていると、
そう思うのです。
だから罪を背負っていない。
だから罰も受けていない。
つまり男の労働や女の出産は罰ではないのだ。
むしろ生きがいであり喜びなのだ。
そういうことかと。
・・・・・
日本では神様はどこにでもいる。
己の内にもです。
それに草や木や虫や鳥にも。
だから彼らとはどこまでも対等なのです。
同列かつ並列的に存在している。
だからかときに話しかけもする。
それは決して奇異ではないのだ。
外から見ればそう見えても。
そういう世界に生きている。
日本人は聖書の民だと言っているが、
違うところもある。
だから今はむしろ、
聖書以前の聖書の民かもと、
そう想っている。
うん!
次にキリスト教の欧米系の人々である。
イスラム教の人々はコーランの民だから違うようだが、
旧約聖書も聖典の一つとされており、
だから聖書の民でもあるのだろうと。
こう見てくると聖書の民は実に多い。
ちなみにキリスト教はユダヤ教キリスト派とも謂える。
イエスはあくまでユダヤ教を伝えたのだ。
本来のユダヤ教に戻れと。
しかして、
布教しているときは人?であったが、
天に召されて神となった。
・・・・・
そこで日本人である。
日本人は聖書を持たない。
でも私は「日本人は聖書の民である」と。
それは聖書(創世記)と日本語が符号するからだ。
この世界(宇宙)は一言で言えば、
「もの」と「こと」で出来ている。
神は最初に「天と地」を創られた。
次に「光あれ」と言われたら光があった。
そこから空や陸や海、
それに草や木などの生物を、
さらに諸々創られていった。
最初の天と地は「もの」である。
それ以降は「もの」を基とした現象つまり「こと」である。
光の現象として闇を創り、
天地の現象として空や陸や海を創り、
そしてその他諸々を。
それら一つひとつは事の端である。
それは神の口から出る言葉によって創られた。
言葉とは「ことのは」であり事端に同じ。
日本語(音=かな)で読み解けば明らか。
でも最初に言葉で創られた光は実に微妙。
事実「もの」でもあり「こと」でもある。
現代物理学でもそう扱っている。
現象は「もの」を基とするが「光」があってこそだろう。
だから最初に創られたのが光なのだ。
即ち光は「もの」と「こと」を繋いでいる。
実に不可思議な「もの」であり「こと」であるのだ。
而して物事を分けて考えたとしても、
そも密接不可分且つ一心同体である。
即ち「ものごと」なのだ。
・・・・・
ここに日本の神名の妙がある。
最高神の「天照大神」は太陽神つまり光の化身である。
そこに「大物主」がいて「事代主」がいる。
「もの」と「こと」と「光」が揃っている。
この三者こそ存在の根幹かと。
人はそれを察知していたのか。
実に興味深い。
さらに物と事の違いも神名に表れる。
物は見たり触ったりできる。
分かりやすいのだ。
だから単に物主と。
事は変化の様だから捉えどころがない。
一時的には変化が無いようにも見える。
ゆえにそれは「しる」ものである。
だから「ことしろぬし」と言うと。
漢字なら知とか識だろうが、ここでは代を当てている。
何にしても妙なり。
その基は何と言っても言葉である。
「しる」とは実に言葉の技なのだ。
人間にとっては現象は言葉があってこそ捉えられる。
だから逆に現象を神の言葉に依るとしたのか。
にしても神とは?
架空の存在なのか。
そうとは言えない。
そも宇宙や生命の不可思議を想えば、
そこに人知を越えた計らいがあると、
そう思わざるを得ない。
その根源を神と呼んだ。
そのときから神は在る。
言葉とともに在る人は、
ゆえに神とともに在る。
・・・・・
存在するものはすべて神の手に依る。
だからすべては神の子である。
神の世界に神の子として在る。
その世界(場)を楽園と謂う。
人はそこで禁忌を犯した。
神威の根幹である言葉を手に入れたのである。
ゆえに神の怒りに触れ楽園を追われた。
と聖書は言っている。
それは言葉には毒があるからだ。
注意しなければ簡単に毒される。
それを嘘と謂う。
だから追われたのだ。
そこで思うのだが、
日本人は追われていないのではと。
もとより場としては誰も追われていない。
現に他の生物とともに生きている。
追われたとは次元的なことだと。
それは霊的な次元のことかと。
ともかくも、すべての現象の基は言葉にある。
だから現象が生起するとは言葉が成ることで、
その言葉を「まこと」と謂う。
それ神の言葉なり。
日本人はそれを大事に抱えている。
漢字で記せば「真言」や「誠」である。
特に誠はそのまんまで、
文字通り言が成るのだ。
ゆえに今だ楽園に留まっていると、
そう思うのです。
だから罪を背負っていない。
だから罰も受けていない。
つまり男の労働や女の出産は罰ではないのだ。
むしろ生きがいであり喜びなのだ。
そういうことかと。
・・・・・
日本では神様はどこにでもいる。
己の内にもです。
それに草や木や虫や鳥にも。
だから彼らとはどこまでも対等なのです。
同列かつ並列的に存在している。
だからかときに話しかけもする。
それは決して奇異ではないのだ。
外から見ればそう見えても。
そういう世界に生きている。
日本人は聖書の民だと言っているが、
違うところもある。
だから今はむしろ、
聖書以前の聖書の民かもと、
そう想っている。
うん!