言葉は概念である。
具象から始まったとしても抽象に向かう。
具象とは現実である。
抽象とは仮想であり、最終的に概念となる。
それは脳内の亡霊でしかない。
つまりは霊なのです。
だから日本人は言う、言葉には言霊がある、と。
字義を追えば当然のこと。
それを知っていた。
それを肝に銘じた。
だから言葉を弄ばない。
だから言葉は「まこと」となる。
まこととは真言であり誠である。
弘法大師の真言であり、新選組の旗印ともなる。
ことの端々にその意趣が表れる。
「理屈と膏薬は何処にでも付く」と言うように、
日本人は理屈を好まない。
そこには必ず詭弁が入る。
だから歌うのです。
歌は思いの表出であり、
そこに詭弁の入る余地はない。
古来より日本が歌う国なのは故である。
万葉集はその原点です。
・・・・・
聖書はだから警告をした。
楽園の追放という物語で。
智慧の実を食したアダムとイヴが、
神の禁忌に触れて追放されたのだ。
智慧の実というのが意味深である。
私はそれを言葉の初めと解釈する。
聖書を知る人はそれを知っている。
あのアップル社のロゴはまさにそれです。
というより社名自体がそもアップルです。
それに先頃閉じられた例の香港の新聞社、
その名前をリンゴ日報と言う。
香港では支持された新聞であった。
これで分かる、
香港人は中華思想から離れている、
ということが。
生来の香港人なら。
・・・・・
その楽園の追放について。
追放されたのは人間です。
他の生物が追放されたとは聞かない。
でもである。
我々は他の生物と共に生きている。
これで追放されたと言えるのか。
聖書を残した人は知っている。
場を追放されたのではない、
霊的に追放されたのだと。
他の生物は人間のような霊性を持たない。
そんなもんは必要がないのだ。
そも霊性に包まれているから。
まんま神の手の中で生きているのだ。
人間はその手から零れた。
それが楽園の追放なのだ。
それでもなお神に手の中にある。
場としては離れていないのです。
言葉を持ったことと、霊的に離れたことは、
同時同義である。
その言葉には霊が宿る。
それを言霊という。
この言霊こそ人間の霊性の基である。
そしてそれは、
楽園から追放された人間の、
楽園への扉なのです。
つまり神との接点なのだ。
私はそれを知る。
・・・・・
日本人はすべてのものに霊が宿ると謂う。
ペットなどには誰でもそうだが、
ときには野の花にも声をかける、
そして使い慣れた道具にまでも。
外国の人はこれを怪訝に思うが。
どうも日本人だけの特性のよう。
なぜなのか。
切り離されたのは人間であって、
他のものはまったき霊性の中にある。
それを知っているのだ。
だから声(言霊)をかける。
かくて、
言霊の幸はふ国、
「まこと」の国、
日本は特別な国となる。
そこではすべてのものに霊的に応じる。
神との繋がりが無意識に表出するのだ。
所謂宗教が必要ない訳です。
以って神国という。
それを思う。
具象から始まったとしても抽象に向かう。
具象とは現実である。
抽象とは仮想であり、最終的に概念となる。
それは脳内の亡霊でしかない。
つまりは霊なのです。
だから日本人は言う、言葉には言霊がある、と。
字義を追えば当然のこと。
それを知っていた。
それを肝に銘じた。
だから言葉を弄ばない。
だから言葉は「まこと」となる。
まこととは真言であり誠である。
弘法大師の真言であり、新選組の旗印ともなる。
ことの端々にその意趣が表れる。
「理屈と膏薬は何処にでも付く」と言うように、
日本人は理屈を好まない。
そこには必ず詭弁が入る。
だから歌うのです。
歌は思いの表出であり、
そこに詭弁の入る余地はない。
古来より日本が歌う国なのは故である。
万葉集はその原点です。
・・・・・
聖書はだから警告をした。
楽園の追放という物語で。
智慧の実を食したアダムとイヴが、
神の禁忌に触れて追放されたのだ。
智慧の実というのが意味深である。
私はそれを言葉の初めと解釈する。
聖書を知る人はそれを知っている。
あのアップル社のロゴはまさにそれです。
というより社名自体がそもアップルです。
それに先頃閉じられた例の香港の新聞社、
その名前をリンゴ日報と言う。
香港では支持された新聞であった。
これで分かる、
香港人は中華思想から離れている、
ということが。
生来の香港人なら。
・・・・・
その楽園の追放について。
追放されたのは人間です。
他の生物が追放されたとは聞かない。
でもである。
我々は他の生物と共に生きている。
これで追放されたと言えるのか。
聖書を残した人は知っている。
場を追放されたのではない、
霊的に追放されたのだと。
他の生物は人間のような霊性を持たない。
そんなもんは必要がないのだ。
そも霊性に包まれているから。
まんま神の手の中で生きているのだ。
人間はその手から零れた。
それが楽園の追放なのだ。
それでもなお神に手の中にある。
場としては離れていないのです。
言葉を持ったことと、霊的に離れたことは、
同時同義である。
その言葉には霊が宿る。
それを言霊という。
この言霊こそ人間の霊性の基である。
そしてそれは、
楽園から追放された人間の、
楽園への扉なのです。
つまり神との接点なのだ。
私はそれを知る。
・・・・・
日本人はすべてのものに霊が宿ると謂う。
ペットなどには誰でもそうだが、
ときには野の花にも声をかける、
そして使い慣れた道具にまでも。
外国の人はこれを怪訝に思うが。
どうも日本人だけの特性のよう。
なぜなのか。
切り離されたのは人間であって、
他のものはまったき霊性の中にある。
それを知っているのだ。
だから声(言霊)をかける。
かくて、
言霊の幸はふ国、
「まこと」の国、
日本は特別な国となる。
そこではすべてのものに霊的に応じる。
神との繋がりが無意識に表出するのだ。
所謂宗教が必要ない訳です。
以って神国という。
それを思う。