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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

あらためて思う

2021-07-19 12:12:35 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は概念である。
具象から始まったとしても抽象に向かう。
具象とは現実である。
抽象とは仮想であり、最終的に概念となる。
それは脳内の亡霊でしかない。
つまりは霊なのです。
だから日本人は言う、言葉には言霊がある、と。
字義を追えば当然のこと。
それを知っていた。
それを肝に銘じた。
だから言葉を弄ばない。
だから言葉は「まこと」となる。
まこととは真言であり誠である。
弘法大師の真言であり、新選組の旗印ともなる。
ことの端々にその意趣が表れる。
「理屈と膏薬は何処にでも付く」と言うように、
日本人は理屈を好まない。
そこには必ず詭弁が入る。
だから歌うのです。
歌は思いの表出であり、
そこに詭弁の入る余地はない。
古来より日本が歌う国なのは故である。
万葉集はその原点です。
・・・・・
聖書はだから警告をした。
楽園の追放という物語で。
智慧の実を食したアダムとイヴが、
神の禁忌に触れて追放されたのだ。
智慧の実というのが意味深である。
私はそれを言葉の初めと解釈する。
聖書を知る人はそれを知っている。
あのアップル社のロゴはまさにそれです。
というより社名自体がそもアップルです。
それに先頃閉じられた例の香港の新聞社、
その名前をリンゴ日報と言う。
香港では支持された新聞であった。
これで分かる、
香港人は中華思想から離れている、
ということが。
生来の香港人なら。
・・・・・
その楽園の追放について。
追放されたのは人間です。
他の生物が追放されたとは聞かない。
でもである。
我々は他の生物と共に生きている。
これで追放されたと言えるのか。
聖書を残した人は知っている。
場を追放されたのではない、
霊的に追放されたのだと。
他の生物は人間のような霊性を持たない。
そんなもんは必要がないのだ。
そも霊性に包まれているから。
まんま神の手の中で生きているのだ。
人間はその手から零れた。
それが楽園の追放なのだ。
それでもなお神に手の中にある。
場としては離れていないのです。
言葉を持ったことと、霊的に離れたことは、
同時同義である。
その言葉には霊が宿る。
それを言霊という。
この言霊こそ人間の霊性の基である。
そしてそれは、
楽園から追放された人間の、
楽園への扉なのです。
つまり神との接点なのだ。
私はそれを知る。
・・・・・
日本人はすべてのものに霊が宿ると謂う。
ペットなどには誰でもそうだが、
ときには野の花にも声をかける、
そして使い慣れた道具にまでも。
外国の人はこれを怪訝に思うが。
どうも日本人だけの特性のよう。
なぜなのか。
切り離されたのは人間であって、
他のものはまったき霊性の中にある。
それを知っているのだ。
だから声(言霊)をかける。
かくて、
言霊の幸はふ国、
「まこと」の国、
日本は特別な国となる。
そこではすべてのものに霊的に応じる。
神との繋がりが無意識に表出するのだ。
所謂宗教が必要ない訳です。
以って神国という。
それを思う。