ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

あらためて

2019-10-07 10:02:29 | 日記・エッセイ・コラム
これまで祈りと悟りについて、
折々語ってきたが、
今回あらためて思うところを記したい。
共通しているのは、
60兆個もの細胞(生命体)の超連合体である人が、
その60兆個の細胞一つひとつが目の前の世界と正対し、
ときに同期・同調して一体となる、
その行為だと。
そこは同じなのだ。
・・・・・
人はなぜ祈りや悟りが必要なのか。
それは明白だ。
我を持ったときから、我と世界とを分離したのだ。
本来一体のはずなのに。
その因は言うまでもない、言葉を持ったからだ。
もとより、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
のだが、
その世界(あの世)は一体の世界である。
だがこの世はそうではない。
言葉が溢れている。
言葉は限りなく物事を分離させる。
物事をよく知る者を分別があるという。
分も別もつまりは分離のことだ。
これこそ人の言葉の本質である。
・・・・・
この世では絶えずの分離が常態である。
これが人の悩みの所以であり、
それゆえ不安を抱えて生きる。
為に祈りや悟りが必要なのだ。
その瞬(とき)だけは安寧を得られるから。
ところで祈りと悟りはどう違うのか。
本質は同じに違いない。
先に言った通り、それは目の前の世界と同期・同調することです。
言葉を替えれば、存在の核心(真理)と融合することです。
それを言葉(の組立)で為すことはできない。
なにしろ言葉を持ったことが原因なのだから。
むしろ言葉を捨てなければ…。
祈りはその存在の核心(真理)を絶対者として想定する。
そしてそれを名付けて神と謂う。
神(と謂う言葉)は人が創ったと言う人もいるが、
それは勿論そうですが、
そういうことではなく、
それは本来あるものを感じようとする、
その心なのです。
しかして絶対者にすがり救いを求める。
だから宗教にもなる。
悟りとは絶対者を想定しない。
自らを核心・真理に融合させようとするものだ。
あらゆる修行を行使して。
過去にも数多の人が挑戦してきただろう。
インドにはそういう人が多いと聞く。
なかでも有名なのがお釈迦様である。
お釈迦様はいろんな修行を重ねた後、
菩提樹の下で瞑想し悟りを開いたと。
そして存在の核心・真理を識ったと。
自ら識ったのです。
だから哲学である。
無言の哲学である。
・・・・・
祈りは他力本願である。
だからと言って只の他力ではない。
只の他力は何もしない。
本当の祈りには先ず発意が必要だ。
その上で祈るのです。
もとより発意とは自力(の現れ)だから、
言ってみれば二本の足で立っているのだ。
悟りとは自力である。
どこまでも自力なのだ。
一本足で立つしかない。
どちらが難しいかは明白だ。
でも結局は同じである。
仏教も今はそうなっている。
お釈迦様を(絶対者として)拝んでいるから。
そこには祈りがある。
だから宗教なのです。