これまで祈りと悟りについて、
折々語ってきたが、
今回あらためて思うところを記したい。
共通しているのは、
60兆個もの細胞(生命体)の超連合体である人が、
その60兆個の細胞一つひとつが目の前の世界と正対し、
ときに同期・同調して一体となる、
その行為だと。
そこは同じなのだ。
・・・・・
人はなぜ祈りや悟りが必要なのか。
それは明白だ。
我を持ったときから、我と世界とを分離したのだ。
本来一体のはずなのに。
その因は言うまでもない、言葉を持ったからだ。
もとより、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
のだが、
その世界(あの世)は一体の世界である。
だがこの世はそうではない。
言葉が溢れている。
言葉は限りなく物事を分離させる。
物事をよく知る者を分別があるという。
分も別もつまりは分離のことだ。
これこそ人の言葉の本質である。
・・・・・
この世では絶えずの分離が常態である。
これが人の悩みの所以であり、
それゆえ不安を抱えて生きる。
為に祈りや悟りが必要なのだ。
その瞬(とき)だけは安寧を得られるから。
ところで祈りと悟りはどう違うのか。
本質は同じに違いない。
先に言った通り、それは目の前の世界と同期・同調することです。
言葉を替えれば、存在の核心(真理)と融合することです。
それを言葉(の組立)で為すことはできない。
なにしろ言葉を持ったことが原因なのだから。
むしろ言葉を捨てなければ…。
祈りはその存在の核心(真理)を絶対者として想定する。
そしてそれを名付けて神と謂う。
神(と謂う言葉)は人が創ったと言う人もいるが、
それは勿論そうですが、
そういうことではなく、
それは本来あるものを感じようとする、
その心なのです。
しかして絶対者にすがり救いを求める。
だから宗教にもなる。
悟りとは絶対者を想定しない。
自らを核心・真理に融合させようとするものだ。
あらゆる修行を行使して。
過去にも数多の人が挑戦してきただろう。
インドにはそういう人が多いと聞く。
なかでも有名なのがお釈迦様である。
お釈迦様はいろんな修行を重ねた後、
菩提樹の下で瞑想し悟りを開いたと。
そして存在の核心・真理を識ったと。
自ら識ったのです。
だから哲学である。
無言の哲学である。
・・・・・
祈りは他力本願である。
だからと言って只の他力ではない。
只の他力は何もしない。
本当の祈りには先ず発意が必要だ。
その上で祈るのです。
もとより発意とは自力(の現れ)だから、
言ってみれば二本の足で立っているのだ。
悟りとは自力である。
どこまでも自力なのだ。
一本足で立つしかない。
どちらが難しいかは明白だ。
でも結局は同じである。
仏教も今はそうなっている。
お釈迦様を(絶対者として)拝んでいるから。
そこには祈りがある。
だから宗教なのです。
折々語ってきたが、
今回あらためて思うところを記したい。
共通しているのは、
60兆個もの細胞(生命体)の超連合体である人が、
その60兆個の細胞一つひとつが目の前の世界と正対し、
ときに同期・同調して一体となる、
その行為だと。
そこは同じなのだ。
・・・・・
人はなぜ祈りや悟りが必要なのか。
それは明白だ。
我を持ったときから、我と世界とを分離したのだ。
本来一体のはずなのに。
その因は言うまでもない、言葉を持ったからだ。
もとより、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
のだが、
その世界(あの世)は一体の世界である。
だがこの世はそうではない。
言葉が溢れている。
言葉は限りなく物事を分離させる。
物事をよく知る者を分別があるという。
分も別もつまりは分離のことだ。
これこそ人の言葉の本質である。
・・・・・
この世では絶えずの分離が常態である。
これが人の悩みの所以であり、
それゆえ不安を抱えて生きる。
為に祈りや悟りが必要なのだ。
その瞬(とき)だけは安寧を得られるから。
ところで祈りと悟りはどう違うのか。
本質は同じに違いない。
先に言った通り、それは目の前の世界と同期・同調することです。
言葉を替えれば、存在の核心(真理)と融合することです。
それを言葉(の組立)で為すことはできない。
なにしろ言葉を持ったことが原因なのだから。
むしろ言葉を捨てなければ…。
祈りはその存在の核心(真理)を絶対者として想定する。
そしてそれを名付けて神と謂う。
神(と謂う言葉)は人が創ったと言う人もいるが、
それは勿論そうですが、
そういうことではなく、
それは本来あるものを感じようとする、
その心なのです。
しかして絶対者にすがり救いを求める。
だから宗教にもなる。
悟りとは絶対者を想定しない。
自らを核心・真理に融合させようとするものだ。
あらゆる修行を行使して。
過去にも数多の人が挑戦してきただろう。
インドにはそういう人が多いと聞く。
なかでも有名なのがお釈迦様である。
お釈迦様はいろんな修行を重ねた後、
菩提樹の下で瞑想し悟りを開いたと。
そして存在の核心・真理を識ったと。
自ら識ったのです。
だから哲学である。
無言の哲学である。
・・・・・
祈りは他力本願である。
だからと言って只の他力ではない。
只の他力は何もしない。
本当の祈りには先ず発意が必要だ。
その上で祈るのです。
もとより発意とは自力(の現れ)だから、
言ってみれば二本の足で立っているのだ。
悟りとは自力である。
どこまでも自力なのだ。
一本足で立つしかない。
どちらが難しいかは明白だ。
でも結局は同じである。
仏教も今はそうなっている。
お釈迦様を(絶対者として)拝んでいるから。
そこには祈りがある。
だから宗教なのです。