ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

悟りと祈り

2019-03-18 18:47:38 | 日記・エッセイ・コラム
仏教にも祈りはあるだろう。
お経を唱えるのは修行でもありましょうが、
すぐれて祈りだと思うのです。
でも仏教の神髄は悟りにある。
悟りとは文字通り、吾(自分)に問うて世界(真理)を識ることです。
お釈迦様は種々の修行のはてに、その悟りを開かれた。
それはお釈迦様一人のことだ。
あくまで当人だけのものです。
だがそこはお釈迦様である、
己の満足だけで良しとせず、
他人に伝えねばならないと。
・・・・・
しかして弟子を持ち、育てられた。
その弟子達がお釈迦様の言葉や行動を書き残している。
それが数々の教典である。
初期の阿含経群や後の般若経・維摩経・華厳経など。
しかしなぜ直接書き残さなかったのか。
思うに、それは言葉では伝えることができないからだ。
それができるなら弟子を取る必要はなく、
書物を書き残せばこと足りる。
まことの悟りを開いたというお釈迦様である、
そんなお釈迦様である、
言葉の本質や限界を知らぬ筈はなかろう。
だから修行なのである。
修行を通じて伝えたのである。
言葉も勿論用いたが。
ところで、お釈迦様は極端な苦行は勧めなかったと云う。
もとより、あらゆる苦行をなされただろう。
それでも悟りは得られなかった。
悟りを開かれたのはその後です。
身体を休めるためもあったのか、
静かに座り続けている時にです。
生命の炎が極端に小さくなったその時か、
その時欲心が無心に転換したのだろうか。
欲心が妨げになるだろうとは思う。
悟りたいという思いは必要だが、過ぎればそれは只の我欲となる。
生きることも同じだろう。
生きることは即ち欲です。
ともかくも欲は必要なのだ、あるがままの欲は。
でも極端な思いは強い欲(我欲)を惹起する。
それは妨げとなるのだ。
だから勧めなかったのだろう。
そこに綾がある。
極端な苦行を経なければ、きっとそれが分からない。
極端な苦行の後に訪れる、静寂がたぶん必要なのだ。
と勝手ながら想像する。
・・・・・
ここで悟りに対する私の解釈を記す。
勿論私一流の言葉遊びです。
悟りとは、
そも一つひとつが自立した生命体である細胞の、
その細胞の60兆個もの超連合体である人間が、
その全ての細胞を整えて世界(宇宙)に正対し、
同期し同調することです。
部分は全体の内に在り、全体は部分によって成る。
人間の身体がそうであるように、全体は部分の超連合体なのです。
部分はそれなりに自立していても、完全な独立体ではないのです。
全体と部分は対立しない、そも同期・同調するのです。
人間はそれを忘れてしまった。
しかも完膚なきまでに。
その因は脳に頼ったからです。
身体の一部であるのに、それがすべてと勘違いした。
脳こそ「私」だと。
現下の世界は正にそうなっている。
実に危うい世界です。
だからまた同じ言葉を贈る。
イエスの言葉です。
「天なる父よ彼らを許してください。
 彼らは自分が何をしているのか分からないのです」
嗚呼免!
なお、悟りと祈りは同じものです。
悟りは内に向かい、後に外に往く。
祈りは外に向かい、後に内に還る。
・・・・・
常人である私には悟りは難しい。
何しろ修行が必要なのだ。
生(存在の真理)を識るために修行するのだが、
修行に邁進すればするほど生(生きること)が覚束なくなる。
これは矛盾である。
だから常人には難しい。
できるのは限られる。
それが正にお釈迦様なのだ。
常人にできるのは「すがる」ことだけです。
これは誰にでもできる。
これを祈りと言う。
思うに、祈りとは生きること(の雑事)を修行とする生き方(道)です。
まんまに生きる、それ自体を修行とするのです。
ちなみに、多くの仏教者も実はそうだろう。
修行とは言っても、それは「仏に帰依」してるに如かず。
つまり、仏を神として祈っているのだ。
私はそう思っている。