ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

世紀の祭り

2019-03-11 09:53:17 | 日記・エッセイ・コラム
ご譲位が迫ってきた。
これは祭りである。
しかも字義のとおり崩御に伴うものではないのです。
まことにまことに目出度い限りであります。
正月も大きな祭りだが、これは毎年あるものです。
今回の代替わりは他に比ぶべきものがない。
世紀のお祭りです。
しかも時が経てば分かるだろうが、
世界のお祭りだと。
まあ勝手な想像ですが。
・・・・・
前にも言ったが、
「まつりごと」とは宗教でもあり政治でもあると、
つまりは人々を仕切るためのものだと。
なお仕切るとは支配することではない、
形容を整えてケジメを付けることです。
今回の件も勿論そうです。
もとより宗教的行事なのだが、政治的意味合いもあるのです。
傾きはあっても、本来一体なのだから。
さりながら、昨今はつまらないことを言う人が多い。
政教分離ゆえ費用は国費から出すべきではないとか。
無視すればいいと思うが、
そうもいかないので、
何かと理由を付けなければならない。
どちらにしても言葉遊びです。
そういうこともあって、やたら簡素化が求められる。
でも頑張って盛大にやってほしい。
歴史・伝統・文化に則って。
これは竹田恒泰先生も言っておられたことです。
祭りは盛大にやってこそです。
少し前にあった米朝首脳会談も祭りだったのです。
これからあるG20の会合もまた祭りなのです。
傾きや意味合いは様々ですが、
結局は祭りなのです。
祭りは盛大に催し、皆が喜んで参加すればいい。
それができれば一応は成功である。
結果を求めるのは当然だが。
まあそれなりで良いのです。
・・・・・
さりながら、注意せねばならない。
心(魂)を仕切るのは祈りであり、
祈りがあればそこに感謝が生まれ、
それが好循環して世界が成るのだ。
その祈りの儀式が祭りなのである。
行動を仕切ろうとするのはいいが、
政教分離の行き過ぎは心を見失い、
どこまでも利(力)を追い求めて、
そして祈りを歪めてしまうのです。
ソ連以来の共産主義国を見れば分かる。
共産という素晴らしい理念はあっても、
裏腹に心(魂)を見失い祈りを忘れて、
現実は激しい権力闘争になってしまう。
だがである、宗教もまた毒となる。
ときに政治以上の苛烈な毒となる。
宗教の名において心を閉じるから。
毒は使い方によっては薬となるが、
薬であってもそれは全き毒となる。
ゆえに私は宗教が嫌いなのである。
・・・・・
私はそれを信仰と言い換える。
その謂いは、
世界(現実)に向かって心を開き、
ひたすらに祈るのであるが、
何に祈っても何を祈っても構わない、
ただ祈ることが大事であって、
それを信仰と言う。
信仰とは本来自由であり、心を解き放つものです。
日本にはそんな信仰が溢れており、
私は日々それを感じているのです。
そんな日本では、
祈る対象に固有名詞(名前)を付ける必要はない。
神という一般名詞があり、それで十分こと足りる。
とはいえ世間には様々な神様がいる。
それぞれに謂われと意味合いを持って。
それもまた良し。
そして、どの神様に祈っても良い。
すべての神様に祈っても良い。
ともかくも自由なのです。
ちなみに、
自由とは欧米から与えられたと思っているようだが、
日本にはそも初めから有ったものです。
・・・・・
ところで、
今回の米朝首脳会談ですが、
これも立派な祭りであった。
開催するのかしないのか、
どこで開催するのか、
どんな議題を持ち出すのか、
誰が出席するのか、
祭りには準備が必要だ。
なかでも開催場所には意味がありそうだ。
なぜなら開催国は双方の仲介をするのだから。
最初はシンガポール、今回はベトナムであったが…。
選ばれたには意味があるだろう。
それにしても分からない。
最初は何も決められなかったのに、
これは成功だと言い、
今回も結局何も決められなかったが、
これは失敗だと言う。
私には同じにしか見えない。
どちらも演技なのだろう。
本当に何もなかったとは到底思えない。
さりながらメディアは当てにならない。
落胆好感を交え好きなことを言う。
本当のことは誰も伝えない。
だから自分で考えよう。
そしてメディアに振り回されることなく、
祭りは祭りとして楽しもう。