ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

洗脳

2018-02-05 11:02:40 | 日記・エッセイ・コラム
テレビのバラエティ番組でのことだが、
洗脳について興味ある話をしていた。
詳細は余り覚えていないが、
当人は家族そろって洗脳されていたという。
母親が洗脳されれば家族全員がそうなるらしい。
時に子供であった彼は、
それを20年もかけて抜けたというのである。
・・・・・
面白いのは、
洗脳されている間は、
当然のことだが、
自分が洗脳されているとは、
少しも思わない。
それが洗脳なのだが。
だから、
オウム真理教事件のような、
端から見れば、
明らかに洗脳されている人を見れば、
それは洗脳されていると言い、
哀れで可哀そうだと思うのだ。
他人のことは分かるのである。
洗脳とはかくあるものかと、
つくづく思う。
・・・・・
人以外の生物は洗脳されない。
それは言葉を持たないからだ。
つまり洗脳とは言葉の技だと知るべし。
言葉を捨ててひたすら現実に寄り添えば洗脳とは無縁だろう。
それこそ生きることそのものだから。
生命は現実の中で生まれ、現実の中で生き、現実の中で去る。
去るとは生まれる前に居た場所に帰ることである。
その場所もまた現に実にあるのだ。
だからである。
いつも言う、言葉は要注意であると。
そも現実から生まれたあだ花なのに、
その言葉が現実を規定しようとする。
くどい様だが、
現実を離れれば嘘になる、
必ず嘘になる。
それが言葉というものです。
・・・・・
だからか聖書は語る。
ゆえに人は神の怒りを買って楽園を追放されたのだと。
智慧の実を食べたばかりに。
神の言葉は真理である、
では人の言葉は…。
神ならぬ人の身で真理を語ろうとするな。
覚悟して慎み深く扱えばまだ良いのだが。
傲慢に扱えばそれは嘘になる。
必ず嘘になる。
それを知らねばならない。
だが、その嘘に染まっている人々がいる。
それがリベラルである。
まったく聞く耳を持たないのだ。
哀れにも洗脳された人々である。