ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

有難いこと

2018-02-12 10:00:01 | 日記・エッセイ・コラム
聖書は言っている。
人は禁断の実を食べて、楽園を追われたと。
それは智慧の実であり、神の力である言葉を手に入れてしまったのか。
神はこの世界を創った。
言葉の力によって。
旧約聖書にはそう記されている。
言葉は力なのだ。
また、ヨハネは言っている。
言葉は神そのものだと。
これは新約聖書である。
・・・・・
だから言葉は要注意なのである。
できれば返してしまえばいいものを。
さすれば楽園に戻れるだろう。
でも返さない。
傲慢にも、人は神に似せて創られたと解釈している。
処置なしである。
そして言葉を弄んでいる。
もし人類が滅ぶとすれば、それが因となるだろう。
その兆候はある。
昨今よく言われるのがAI(人工知能)である。
つまりコンピュータである。
コンピュータは何でできているかといえば、それは言葉である。
コンピュータはそもただの電気信号なのだ。
それが意味を持つのは言葉として読み解かれるからである。
つまり言葉なのだ。
その言葉が人の理解を越えてしまうという。
そうなればお手上げである。
制御不能となるのだ。
・・・・・
なら早く返してしまおう
でもどうしたら返せるのか。
返し方が分からない。
ひとつ思い当たる節がある。
それは「祈り」である。
祈りは誰にでもできる。
よく考えてみればいい。
それは神に言葉を返す行為なのだ。
一方的に返す行為なのだ。
祈りは見返りを求めない。
願いを込めても、それは結局己への問いであり、要求ではないのだ。
そこを勘違いしてはいけない。
祈りは要求ではないのだ。
一方的に返す行為なのだ。
だから救われるのである。
・・・・・
祈りは折節にあらねばならない。
常在せねばならないのだ。
さすれば祈りは道となる。
小賢しい計らいを捨てて、お天道様とともに悠々と行く。
神ながらの道・自然(じねん)の道。
その時、道は楽園へと続く道となる。
その道を迷うことなく歩く人がいる。
もっぱらに歩く人がいる。
そういう人が在るのです。
この日本には。
まことに有難いことです。