ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

誤解してる人

2018-02-19 11:25:28 | 日記・エッセイ・コラム
神道のことを誤解してる人がいる。
誤解と言うか見解の相違かも知れないが。
それはである。
現世のご利益を求めるだけで、
そこに信仰の本が見られない、
とか。
まあそういう一面もあるが。
確かに世界宗教と謂われるものに見られる、
大仰な教典のようなものはなく、
これ見よがしの形而上学もない。
それに、
神道はすべてのものに魂(神)が宿ると考え、
木や石のほか存在するものは何でも祀るのだ。
だからか原始的なアニミズムだとも謂われる。
ゆえに宗教としては低位だなどと。
笑止千万。
実に皮相な見方である。
・・・・・
神道は宗教ではない。
教ではなく道である。
言葉で魂(心)を縛るのは良しとしないのだ。
生きることそのものを良しとする。
そして良き生き方を求める。
それが道である。
そしてそれを求めるときに必要なのが祈りである。
生きるとは祈りであり、道とは祈りの道でもある。
そこに対立・対決はなく、もっぱら調和を求める。
今次の世界は言葉で魂を縛ろうとする。
為に対立するものを排除しようとする。
そんな言説に満ちている。
嘆かわしいことです。
ご承知かと思うが、これを阻止できるのは祈りのみです。
祈りは神に(言葉を)捧げるものです。
神に言葉を返すものです。
例えそれが自らの些細な願いであっても。
己の魂を言葉に載せ、神に捧げるのです。
神はそれを受け取る。
だからそれは、
魂(心)の解放なのです。
そして本当の自由を得る。
生まれたその時のような、
まんまの自由を。
・・・・・
神様の仕掛け(プログラム)は完璧である。
完膚なきまでに公平なのだ。
すべての生物は、
生まれる前にいた場所から来て、
生まれる前にいた場所に帰る、
しかも何も持たずにである。
生まれる前にいた場所とは神の懐である。
すべての命はそこに帰る。
必ずそこへ帰る。
だから公平なのである。
それも完膚なきまでに。
かと言って、現世での不公平を良しとするものではない。
ただ、現世のことは現世で為せである。
しかもである。
聖書によれば、
この世界を創ったのは神なのだから、
現世もまた神の懐である。