ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

アイアム

2023-11-27 08:33:18 | 日記・エッセイ・コラム
これは日本のことです。
同時にシナのことです。
その趣はほぼ真逆だが。
ハテ?何のことかいな。
シナはそのまんまだが。
それは言わずもがな中華思想。
実にまんまであり説明は不要。
でも日本もとは?
・・・・・
ハテ?ハテ?なのだが、
日本もだとは一体何故。
それは聖書に起因する。
あの有名な物語り、出エジプト記。
エジプトでイスラエル人はしえたげられていた。
神はモーセにあなたが行って彼らを導き出すようにと。
でも彼らは私ごときに従うでしょうか。
神の名により行うなら、神の名を聞くでしょう。
ときに何と答えたら。
神はモーセに言われた「わたしは、有って有るもの」。
また言われた、彼らにこう言いなさい、
『「わたしは有る」という方につかわされた』と。
その「 」内を英語ではアイアム(Iam )と言う。
標題はこのアイアムである。
これらはこれを記した人が遺したもの。
原語は英語ではなくヘブライ語ですが。
どちらにしても、それは人の言葉。
でも神の発意ならそれは神の言葉。
それは普通の人らには分からない。
だから人の言葉に置き換えている。
謂わば翻訳しているのです。
ときの人らに伝わるように。
にしても人によっては受取方も異なる。
解釈が違ってくることにも。
私は若い頃これに関する記事を読んだ。
そこではアイアムとは、
時と場所を選ばずすべてに有る、
と謂うものだと。
これはその著者の解釈です。
でも私はそれに納得した。
それも疑問の余地なく。
でも世界ではそうではなさそう。
なぜか人格神的に寄っていると。
日本にも人格神は幾らでもある。
でもそれは大方元は人間である。
神のまま人格神にはならないと。
それはなぜか、
私(日本人)の解釈は、
以下の通りです。
私は当然にアイアムである、
しかしてあなたもアイアムである、
そして彼も彼女もアイアムである、
それに鳥や虫も草や木もそうであろうし、
山や海もまたそうです。
存在するものは皆アイアムである。
そういう世界なのです。
そしてそれらは勿論繋がっている。
個として見えても皆繋がっている。
それがワ(我=和=輪=倭)がアイアムの世界である。
そのワがアイアムを神と呼ぶ。
これは聖書のママ、
だと思うのだが。
でも欧米では、
私のアイアムと神のアイアムが突出する。
神がすべてなら私もその内にある筈。
なのに彼らはそうは思わないと。
私と神が対に立つのである。
その他には何者もなく。
まさに概念の世界。
これが一神教であるがこれは二身教でもある。
神の一身と私の一身との。
だからその信仰がときに過激になる、
ふたつの一身が合体して。
それを原理主義とか謂う。
なおその反動からか反発することも。
そして無神論が現われる。
別名をリベラルとか謂う。
これは神の言葉(現実)を蔑ろにし、
そこに人の言葉(虚構)を被せる。
しかして現実を見失い暴走する。
それを方便とすればいいのに。
ちなみに冒頭で記した中華思想は、
私だけのアイアムで世界を創る。
これは傍らにいた神を見失い、
私だけが取り残されるから。
だから教という名を付すなら一身教がいいかと。
どこか一神教にも似てるし。
さてもグッドな名付けかと。
・・・・・
このこと人の体に譬えれば以下のように。
人の体は60兆個もの細胞で出来ている。
しかもその細胞は一つひとつが命なのだ。
つまり60兆個ものアイアムなのである。
私は脳は許より手や足も私であることを疑わない。
ときに「私」は神にも匹敵する。
すべてに私が有るから。
すべてが私だから。
ではそんな私の本体は何処にあるのか。
脳が分かればそれが分かると考えた人がいる。
でもそれも結局は無理だと。
脳も体の一部位でしかない。
たしかに中枢には違いない。
でも成り立ちからすれば脳は後発である。
最初のひとつに私は既にあったのだから。
本体の私を探すのは神を探すのと同じか。
それは探すものではなく始からあるもの、
そしてそれはそれを無条件に信じるもの。
それでも人は私(=心)が脳にあるように思える。
そう思わせるは言葉のせいである。
言葉にはそう思わせるものがある。
だからそれは神のものだと、てかそのものだとも。
にしても思うのです。
脳は脳の力だけで言葉を得たのではない。
手足などが発する情報を基としてこそと。
すべてのアイアムを総動員してこそです。
それも私だけではなく先人のアイアムも。
そして脳は想う。
すべての部位を。
手足が苦しむとき、手足もだが苦しむのは脳です。
手足が楽しむとき、手足もだが楽しむのは脳です。
それが私と謂うものです。
それが私のこころである。
それが私の大御心である。
大御心と謂えば、ここに日本の國體がある。
國體を構成する人はみんなアイアムであり、
そのアイアムの中心に天皇陛下がおられる。
一君万民・君民一体の中心に。
そして国民一人ひとりの幸せを祈られる。
陛下はそんな祈り人であり祭祀王である。
私で謂えば私の本体のような存在、
まさに神の如き存在である。
そこに大御心ありと。
有り難き哉!
有り難き哉!
・・・・・
だから思うのです。
聖書が神の名をアイアムとしたこと、
まことに畏れいってる次第なのです。
私には、
それはすべての時と場所にあるもの、
そうとしか思えません。
ここに神様がある。
ここに仏様がある。
ここに神仏習合がある。
うん!

コメントを投稿