ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

法の支配

2023-06-05 07:02:38 | 日記・エッセイ・コラム
これってまさに支配の典型。
想えば、
言葉が音の時代は緩やかな助け合い、
そこに所謂リーダーシップが現れる。
それは当然のことでそこに中心ができる。
ときに指導者が現われ仕切ることになる。
これは自然な流れの中での統合であった。
と思うのです。
ときに文字が創られる。
これは真に便利である。
人に意思を伝えるのに。
それを徹底できるのだ。
そこには武力も必要になる。
でも武力だけでは支配できない。
それは支配ではなく混沌を生むだけ。
本体はあくまで言葉である。
言葉こそ鍵なのである。
それを独占するのです。
これが法の支配である。
ときに帝国が発生する。
・・・・・
法の支配は、
それ自体は善でもなく悪でもない、
ただ便利で有用なもの。
でもそれが利用される。
何度でも言うが、
それが「まこと」なら素晴らしい。
でも人の言葉には「うつろ」が纏わりつく。
そしてそれが恣意的に利用される。
ここに支配と謂う仕切りが現れる。
だからか古代帝国は知る限りでは奴隷制であったと。
そう思ってるが、
最古の文明と謂われるシュメール、
そのシュメールは奴隷制ではなかった?
そも帝国ではなく都市国家であったと。
ならエジプトはどうだろう。
よく分からない。
それはさておき、
知る限りは、
法の支配の初めはハンムラビ法典だったと。
それが取り敢えずの帝国の初めであったか。
古くは法と謂えばモーセの十戒、
新しくはムハンマドのコーラン、
これらは法と謂うものなのだが、
神から預ったものだとしている。
その権威を神に求めているのだ。
それを嘘だとは言わない。
神の啓示を受けてのことなら。
でもいつも言ってることだが、
その法は人の言葉で記されている。
ときに神の言葉ではなくなっていると。
もとより、
そこに「まこと」があるなら、
神の言葉としてもいいだろう。
でもそれは無理かと。
人の言葉にも「まこと」はあるだろう。
でもそれは音としての言葉にあるもの。
身体が発した音にこそ心魂は乗るのだ。
それが言葉の始まりでもあろうし。
ところで先に言ったように、
法とはすぐれて文字である。
だからこそ徹底できるのだ。
だがそれは「うつろ」になり易い。
何しろその時代の人に伝えるから。
ときの背景を踏まえねばならない。
時代が変われば変える必要がある。
それを怠れば、
そこに悪意がなくても、
結局恣意的なものになるのです。
だから不断の改定が必要になる。
または不断の解釈変更が必要になる。
それを知ろう。
だからそれを何とかせねば。
ここに政治家の出番がある。
・・・・・
先の広島サミットでの議長国会見で、
岸田首相が言った、
法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を、と。
そのこと尤もだと思う。
問題は法である。
あきらかにロシアはその法を認めていない。
私もその法というのがよく分からない。
国連憲章の規約がそれらしいが?
ちなみに私は国連をまったく信用していない。
何しろ未だに旧敵国条項が改正されていない。
一般採決では賛成大多数反対無なのにである。
何やらパリ講和会議での人種平等条項に似て。
いつもその後ろで反対してるのはアメリカだ。
それに五大国には拒否権ってのが未だにある。
なおそこに戦後できた国のシナが入っている。
なおなお真赤な嘘の南京?事件を認めてる風。
等々いかがわしいことばかり。
こんなことでは法に意味なし。
それに最初に言ったが法は中立である。
善でも悪でもないと。
ちなみに私は法律家を信用していなかった。
それは正義の番人などと言うから。
法律の番人だと言うなら分かるが。
でも北村弁護士の話ならまあいいかと。
その話はまた別。
それはともかく、
それに法はすべてを網羅することはできない。
書いてあることの解釈でも問題が起こるのに、
書いてないことはハテどうするのか。
何をしてもいいのか。
そんな筈はなかろう。
ならば、
むしろ書いてないことの方が大事だと。
それは倫理感や道徳とか謂うもの。
これは歴史伝統文化の賜物で、
法の登場前からあるもの、
それを不文律と謂う。
法はこの不文律に支えられている。
だから最近の風潮にはため息を吐くしかない。
何でも規則や仕組みを作れば解決するかの様。
不文律あってこそなのに。
人間力あってこそなのに。
ちなみに、
余計なことだが、
現下の圧倒的なロシア叩きは、
ソ連崩壊からの経緯を語らず、
眼前の事象にのみ目を奪われ、
お涙頂戴の善意に訴えるのみ。
今や政治はプロパガンダに終始しており、
それが人々の脳内に深く入り込んでいる。
この様はどこか反日自虐史観にそっくり、
なんとも気持ちが悪い。
・・・・・
そこで民主主義を思う。
法律家は法律の番人である。
法律を作るのは国会議員である。
国会議員よ良き法律をつくってくれ。
そして後は行政と司法に任せる。
それで丸く収まる。
ということだが、
どっこいそうは問屋が卸さない。
今や国会が糞くらえ状態。
子供国会などと言えば子供に失礼なぐらい。
皇位継承問題が最後の砦だが、
その前に訳の分からん法律が、
例のLGPT~かんてらの法律が。
心の機微に触れる思いを規制しようと。
そんなもん法律で規制するんじゃねい。
不文律の中で始末するものだ。
表に出て犯罪化すれば致し方なし
ときに法律で始末するも良し。
それも既存の法律で十分。
なのに何でだ。
終いに怒るで。
てか、

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