ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

設計図

2023-04-17 09:50:40 | 日記・エッセイ・コラム
これは命の設計図のことである。
人は人になり犬は犬になる。
これ自然の理なり。
だから設計図はあるのです。
当然にあるのです。
それがどこにあるのか分からなかった。
今は一応分かっている?
それはDNAである。
あのDeNAではない。
・・・・・
最初の細胞は一つである。
有性生物はその初めは二つかもですが、
やはり一つとしておこう。
人の場合は、
それが60兆個もの塊りとなる、
と言うこと。
その設計図は一つひとつの細胞の中にある。
ちなみにだから言うのです。
一つひとつの細胞に「私」はあるのだから、
どこかの部位をもって私だとは言えないと。
たとえそれが脳であろうと。
それに私とは実に曖昧なものです。
細胞の一つひとつが私であっても、
それがそれぞれに自己主張すれば、
所謂私は支離滅裂四分五裂となる。
私として生きることなどできない。
現実はそんなことはなく、
私は私として生きている。
さらに想えば、
それも私一人で生きているのではない。
多くの人々や物事によって生かされている。
なら所謂私を一つの細胞とすれば、
その塊り(家族・社会・国家・世界)もまた私である。
つまり上位の私だと謂えるのです。
そう言うことだと。
だからです、
全体と部分は対立するものではない、
共働するものです。
それにも関わらず、
欧米的思考、それはリベラルと言われるが、
その思考は偏っています、
余りにも私に偏っている。
しかもそれに気づかない。
むしろそれが良いものと。
それが現下の世界である。
てかまた話がそれた。
・・・・・
DNAのことだが、
これは生き物には漏れなくあり、
その身体を成すのに無くてはならぬものです。
しかもそれは一つの細胞/DNAから始まる。
人ならそれが60兆個にもなる、
たった10か月余りで。
それに聞いた話しでは、
その間に生物進化の全過程をたどるとか。
そして誕生する。
誕生後もDNAは影響を与える。
それは当然のことだが、
それが所謂文化にも言えるのか。
それはちょっと違うと。
でも人以外はそれも違うと。
彼らにも文化のようなものがあるだろう。
それは彼らの生き方としてある。
それは身体と伴にある。
そも身体とは切っても切れないもの。
身体がその行動を規定する。
でも環境の違いもあり、
同じような種でも違いが現れる。
だから文化らしいものもあるだろう。
でもそれはDNAの範囲内かと。
それを通常は本能と謂うと。
本能という言葉は最近は余り使われない。
特に科学者あたりでは。
こんな便利で的確な言葉はないのに。
てか又それたが、
なら文化にDNAは関わらないのか。
そんなことはあり得ない。
大元はDNAにある。
でもあきらかにそれは別物です。
それはどんなものか。
本当にあるのか、
あります。
それは言葉である。
それが「文化」を創る。
それは「文化」という言葉にあきらか。
文とはつまりは言葉である。
それが化けるのである。
それが文化である。
だから言葉はもう一つのDNAだと言える。
日本語は日本人のDNAなのです。
それを知ろう。
・・・・・
人間の言葉は元は一つだと、聖書によればだが。
人類の歴史を想えばそうとしか思えない。
その大元はやはりDNAであろう。
だから言語にも系統がある。
所謂DNAに系統があるように。
でも今もって分からないと、
日本語の系統がである。
独立した言語の様。
真に興味深い。
日本語の不可思議、
波動に意味あり、
その奥の深さ。
一音一意に、
一字一意、
面白い。