中華文明は意味不明。
そこに思想が見られないのだ。
皆自分さえよければいいと思っている、
ようにしか見えない。
そんな筈はなかろうと思うのだが、
実のところさっぱり分からない、
まあ私がバカだからだろうと。
ところで日本だが、
これは想うのです、
これはもう「円環の文明」であると。
それも確信的にです。
うん!
・・・・・
言葉とは世界に線を引くこと、
と言っている。
鼻を示すには鼻以外との間に線を引く。
目との間に線を引くだけでは駄目だと。
他にも違いのある部位があるのだから。
だから線引きはそれ以外との間に引く。
何を言いたいのか?
言葉はデジタルでそも二元論的になる。
その線は常にそれ以外を相手とする。
それは対立から始まるのではない。
それ自体から始まるということ。
敢えて言えば対立より対比か。
それも僅かな違いを感得し。
それは神という言葉にも現れている。
神はすべてだとは欧米でも同じ。
でも欧米には対立するものがいる。
だが日本には対立するものがいない。
すべてはすべてであり、
対立するものなどなく、
悪魔はいないのである。
似たものとして鬼があるが、
でも知っての通り、
鬼は「かみ」とも読む。
それは位相の違う同じもの、
そう捉えている。
それに陰陽道というのがある。
起源はシナらしいがそれは横に置いて。
これは陰と陽の対立と依存の関係性の中で世界がなる、
という考え方であろうか。
ということならこれも位相の違いかと。
そも線を引いても分断はできないのだ。
それは仮に引いているだけ。
そも仮想であり方便なのだ。
それを知ってるからか、
日本文明は直線的にはならないと。
というか、
線をぼかしたり薄めたりまた時には際立たせて、
水墨画のごとく変幻自在。
だから「言外の言」とか言ったり、
また「行間を読め」とも言ったり、
またまた余白をも利用してしまう。
日本文明は人の言葉で出来てるが、
神の言葉を離れようとしないのだ。
現実を決して離さないのだ。
そういう文明である。
・・・・・
そも宇宙は円環で出来ている。
地球や月それに太陽も、これらは皆円環である。
太陽系は太陽を中心とする円環である。
銀河系は中心がどこかは知らないがこれも円環である。
さらにそのもっと大きな円環も?
小さいものなら分子も原子もそうかと。
つまり宇宙とは、
並立的かつ入子構造になっている円環の集まり、
ということかと。
だから時もそのように見る。
直線的ではあるが直線ではない。
宇宙がそうであるように時も円環と捉える。
渦を巻きながら循環している大いなる円環だと。
因縁が巡り輪廻は転生する。
でも実際は時などないとも思う。
あるのは今だけ、永遠の今だけ。
その今は常に変化している。
その変化を知るためには物差しが必要。
時とはその物差しである。
それは人が創ったものか。
即ち人の言葉の産物かと。
ちょっとそれたが、
これらを鑑みて、
私は日本文明を円環の文明と言っている。
ちなみに、
だからその社会構造も円環であると。
天皇陛下を中心とした円環構造であると。
そこには上下も左右もない。
それらは相対的なものであり、
あるは中心に近いか遠いかだけ。
近ければ求心力が強くなり、
遠ければ弱くなるだけ、
そういうことかと。
その求心力と遠心力の狭間に自由がある。
自由とは自分を自分として認めること。
それは無秩序の中にはないのです。
秩序があって初めて自由がある。
それは円環の文明にこそある。
宇宙の実相そのものだから。
日本が奴隷を嫌ったのも尤も。
かく思えば、
今更ながら竹田恒泰先生の言葉が身に染みる。
皇統を守ってさえいれば日本は安泰だと。
ほかの問題はすべて二の次でよしと。
僭越ながらまことに同感の至り。
・・・・・
日本人は言葉を恣意的に使わない。
現実自然に即して使う。
現実自然には二元論的対立はない。
そこは入子構造の円環の世界です。
善もなく悪もない世界であり、
人間感覚で言えば、
協調と競争が拮抗してるだけ。
これは陰陽思想にほぼ同じ。
ここに排除の論理はない。
だから本来革命はない。
繋がりの世界だから。
本家?のシナは知らず、
日本はまさにそんな世界。
ワンダーランドな訳である。
覚えておこう。
そこに思想が見られないのだ。
皆自分さえよければいいと思っている、
ようにしか見えない。
そんな筈はなかろうと思うのだが、
実のところさっぱり分からない、
まあ私がバカだからだろうと。
ところで日本だが、
これは想うのです、
これはもう「円環の文明」であると。
それも確信的にです。
うん!
・・・・・
言葉とは世界に線を引くこと、
と言っている。
鼻を示すには鼻以外との間に線を引く。
目との間に線を引くだけでは駄目だと。
他にも違いのある部位があるのだから。
だから線引きはそれ以外との間に引く。
何を言いたいのか?
言葉はデジタルでそも二元論的になる。
その線は常にそれ以外を相手とする。
それは対立から始まるのではない。
それ自体から始まるということ。
敢えて言えば対立より対比か。
それも僅かな違いを感得し。
それは神という言葉にも現れている。
神はすべてだとは欧米でも同じ。
でも欧米には対立するものがいる。
だが日本には対立するものがいない。
すべてはすべてであり、
対立するものなどなく、
悪魔はいないのである。
似たものとして鬼があるが、
でも知っての通り、
鬼は「かみ」とも読む。
それは位相の違う同じもの、
そう捉えている。
それに陰陽道というのがある。
起源はシナらしいがそれは横に置いて。
これは陰と陽の対立と依存の関係性の中で世界がなる、
という考え方であろうか。
ということならこれも位相の違いかと。
そも線を引いても分断はできないのだ。
それは仮に引いているだけ。
そも仮想であり方便なのだ。
それを知ってるからか、
日本文明は直線的にはならないと。
というか、
線をぼかしたり薄めたりまた時には際立たせて、
水墨画のごとく変幻自在。
だから「言外の言」とか言ったり、
また「行間を読め」とも言ったり、
またまた余白をも利用してしまう。
日本文明は人の言葉で出来てるが、
神の言葉を離れようとしないのだ。
現実を決して離さないのだ。
そういう文明である。
・・・・・
そも宇宙は円環で出来ている。
地球や月それに太陽も、これらは皆円環である。
太陽系は太陽を中心とする円環である。
銀河系は中心がどこかは知らないがこれも円環である。
さらにそのもっと大きな円環も?
小さいものなら分子も原子もそうかと。
つまり宇宙とは、
並立的かつ入子構造になっている円環の集まり、
ということかと。
だから時もそのように見る。
直線的ではあるが直線ではない。
宇宙がそうであるように時も円環と捉える。
渦を巻きながら循環している大いなる円環だと。
因縁が巡り輪廻は転生する。
でも実際は時などないとも思う。
あるのは今だけ、永遠の今だけ。
その今は常に変化している。
その変化を知るためには物差しが必要。
時とはその物差しである。
それは人が創ったものか。
即ち人の言葉の産物かと。
ちょっとそれたが、
これらを鑑みて、
私は日本文明を円環の文明と言っている。
ちなみに、
だからその社会構造も円環であると。
天皇陛下を中心とした円環構造であると。
そこには上下も左右もない。
それらは相対的なものであり、
あるは中心に近いか遠いかだけ。
近ければ求心力が強くなり、
遠ければ弱くなるだけ、
そういうことかと。
その求心力と遠心力の狭間に自由がある。
自由とは自分を自分として認めること。
それは無秩序の中にはないのです。
秩序があって初めて自由がある。
それは円環の文明にこそある。
宇宙の実相そのものだから。
日本が奴隷を嫌ったのも尤も。
かく思えば、
今更ながら竹田恒泰先生の言葉が身に染みる。
皇統を守ってさえいれば日本は安泰だと。
ほかの問題はすべて二の次でよしと。
僭越ながらまことに同感の至り。
・・・・・
日本人は言葉を恣意的に使わない。
現実自然に即して使う。
現実自然には二元論的対立はない。
そこは入子構造の円環の世界です。
善もなく悪もない世界であり、
人間感覚で言えば、
協調と競争が拮抗してるだけ。
これは陰陽思想にほぼ同じ。
ここに排除の論理はない。
だから本来革命はない。
繋がりの世界だから。
本家?のシナは知らず、
日本はまさにそんな世界。
ワンダーランドな訳である。
覚えておこう。