ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

円環の文明

2022-12-12 09:33:54 | 日記・エッセイ・コラム
中華文明は意味不明。
そこに思想が見られないのだ。
皆自分さえよければいいと思っている、
ようにしか見えない。
そんな筈はなかろうと思うのだが、
実のところさっぱり分からない、
まあ私がバカだからだろうと。
ところで日本だが、
これは想うのです、
これはもう「円環の文明」であると。
それも確信的にです。
うん!
・・・・・
言葉とは世界に線を引くこと、
と言っている。
鼻を示すには鼻以外との間に線を引く。
目との間に線を引くだけでは駄目だと。
他にも違いのある部位があるのだから。
だから線引きはそれ以外との間に引く。
何を言いたいのか?
言葉はデジタルでそも二元論的になる。
その線は常にそれ以外を相手とする。
それは対立から始まるのではない。
それ自体から始まるということ。
敢えて言えば対立より対比か。
それも僅かな違いを感得し。
それは神という言葉にも現れている。
神はすべてだとは欧米でも同じ。
でも欧米には対立するものがいる。
だが日本には対立するものがいない。
すべてはすべてであり、
対立するものなどなく、
悪魔はいないのである。
似たものとして鬼があるが、
でも知っての通り、
鬼は「かみ」とも読む。
それは位相の違う同じもの、
そう捉えている。
それに陰陽道というのがある。
起源はシナらしいがそれは横に置いて。
これは陰と陽の対立と依存の関係性の中で世界がなる、
という考え方であろうか。
ということならこれも位相の違いかと。
そも線を引いても分断はできないのだ。
それは仮に引いているだけ。
そも仮想であり方便なのだ。
それを知ってるからか、
日本文明は直線的にはならないと。
というか、
線をぼかしたり薄めたりまた時には際立たせて、
水墨画のごとく変幻自在。
だから「言外の言」とか言ったり、
また「行間を読め」とも言ったり、
またまた余白をも利用してしまう。
日本文明は人の言葉で出来てるが、
神の言葉を離れようとしないのだ。
現実を決して離さないのだ。
そういう文明である。
・・・・・
そも宇宙は円環で出来ている。
地球や月それに太陽も、これらは皆円環である。
太陽系は太陽を中心とする円環である。
銀河系は中心がどこかは知らないがこれも円環である。
さらにそのもっと大きな円環も?
小さいものなら分子も原子もそうかと。
つまり宇宙とは、
並立的かつ入子構造になっている円環の集まり、
ということかと。
だから時もそのように見る。
直線的ではあるが直線ではない。
宇宙がそうであるように時も円環と捉える。
渦を巻きながら循環している大いなる円環だと。
因縁が巡り輪廻は転生する。
でも実際は時などないとも思う。
あるのは今だけ、永遠の今だけ。
その今は常に変化している。
その変化を知るためには物差しが必要。
時とはその物差しである。
それは人が創ったものか。
即ち人の言葉の産物かと。
ちょっとそれたが、
これらを鑑みて、
私は日本文明を円環の文明と言っている。
ちなみに、
だからその社会構造も円環であると。
天皇陛下を中心とした円環構造であると。
そこには上下も左右もない。
それらは相対的なものであり、
あるは中心に近いか遠いかだけ。
近ければ求心力が強くなり、
遠ければ弱くなるだけ、
そういうことかと。
その求心力と遠心力の狭間に自由がある。
自由とは自分を自分として認めること。
それは無秩序の中にはないのです。
秩序があって初めて自由がある。
それは円環の文明にこそある。
宇宙の実相そのものだから。
日本が奴隷を嫌ったのも尤も。
かく思えば、
今更ながら竹田恒泰先生の言葉が身に染みる。
皇統を守ってさえいれば日本は安泰だと。
ほかの問題はすべて二の次でよしと。
僭越ながらまことに同感の至り。
・・・・・
日本人は言葉を恣意的に使わない。
現実自然に即して使う。
現実自然には二元論的対立はない。
そこは入子構造の円環の世界です。
善もなく悪もない世界であり、
人間感覚で言えば、
協調と競争が拮抗してるだけ。
これは陰陽思想にほぼ同じ。
ここに排除の論理はない。
だから本来革命はない。
繋がりの世界だから。
本家?のシナは知らず、
日本はまさにそんな世界。
ワンダーランドな訳である。
覚えておこう。