世界は広いからいろいろ。
文明もいろいろ。
とはいえ、文化はともかく文明は収斂される。
今に残る文明は三つ四つ。
欧米文明イスラム文明中華文明それにインドに日本ってところ。
にしても私から見れば、
欧米とイスラムは同根に見える、
根っこに聖書があるから。
その欧米文明が今は世界の本流である。
ここで謂う直線の文明とは、
この文明のこと。
・・・・・
言葉とは世界に線を引くこと、
と言ってる私には、
文明が直線的になるのは自然なこと。
引かれた線は場の波動を際立たせる。
言葉によって波動が増幅されるのだ。
それが文明の基である。
であるが直接的には言葉が文明を創っている。
さりながら基は波動にある。
すべては波動にあるのです。
それが見えにくくなる。
言葉過多がそれを隠す。
それが直線の文明です。
それは理屈っぽくなる。
すべては言葉による。
それは線から始まる。
線は物事を二つに分ける。
それは所謂二元論といい、
彼らはそれを好むようだ。
そして得意げに線を引き、
分けて分けて分けまくる。
かくて一応の結論に至る。
それが彼らの思考である。
だからか論理的に見える。
でもそれは終わりでない。
それは始まりでもある。
そしてそれを繰り返す。
しても決して真理には届かない。
それはそうで言葉は分けるだけ。
場の波動(真理)を分けるだけ。
掴めるとしたら、
場と同期同調するしかない。
そう思うのだが、
それはさておき、
だからか、
その流れから時をも直線的に捉える。
幼稚(野蛮)な時代から高尚な時代へ進むと。
発展史観とでも言うべきか。
所謂マルクス史観が典型的。
ではその発展の先には何が。
そこに答えはないのだ。
だから終末思想がある。
始まりがあれば終わりもあると。
でも終わりは終わりではない。
終わりは始まりでもあると。
ならそれは循環だろうが。
まあどうでもいいけど。
結局は方便なのです。
・・・・・
線を引く彼らは社会にも線を引く。
線を引くことが大きな力となるからだ。
自分を優位に立たせるために。
それが階級社会をつくる。
その形がピラミッドのようになる。
極一部の人が頂上にいる。
次に上級管理人らが少々。
次に中間管理人や一般民衆が、
その下に多くの奴隷らが、
ということに。
これが彼らの社会の構造である。
それは大古の昔からそして今も。
だとしても、
さすがに現下は奴隷はいない?
ということになってはいるが?
一寸疑わしい。
一時はよく言われた。
1%の人が99%の人を支配してると。
実際はその1%のさらに1%だろう。
彼らが線を引いている。
好き勝手に線を引いている。
しかして言葉を使って支配している。
だからメディアを支配する。
人事権と生活権をからめて。
ためには財力が必要なのだ。
だから同時に金融をも支配。
これでいよいよ雁字搦めに。
よくできている。
でもどうだろう、
この状況は不自然である。
ピラミッド型社会には無理があるのです。
引いた線が切れてしまえば、
つまり嘘がバレたらお終い。
多勢に無勢なのだ。
この型はだから現実には勝てない。
だからもの凄く不安定なのだ。
ゆえに必ず壊れるのです。
シナの易姓革命のように。
一寸違うのはその大きさ。
謂わば超大型版の易姓革命になる
これが超大型になるには訳がある。
それはなんと神をも巻き込むから。
と言うことで、
リベラルと中華思想はよく似てる。
だからか手を繋ぎながらも大喧嘩。
面白い!
・・・・・
ところで日本はちょっと違う。
てかちょっとどころではない。
それを私は円環の文明と言っている。
循環と言ってもいい。
ならインドはどうだろう。
インドもひとつの文明である。
それは概ね循環的に見えるのだが。
そこにはカーストという階層制がある。
それは厳しいものらしい。
なら階級と謂うべきか。
そこは日本とは違う。
日本には階級がないのだ。
ちなみに身分は階級ではない。
役割分担を表わすもの。
ということです。
念のため。
文明もいろいろ。
とはいえ、文化はともかく文明は収斂される。
今に残る文明は三つ四つ。
欧米文明イスラム文明中華文明それにインドに日本ってところ。
にしても私から見れば、
欧米とイスラムは同根に見える、
根っこに聖書があるから。
その欧米文明が今は世界の本流である。
ここで謂う直線の文明とは、
この文明のこと。
・・・・・
言葉とは世界に線を引くこと、
と言ってる私には、
文明が直線的になるのは自然なこと。
引かれた線は場の波動を際立たせる。
言葉によって波動が増幅されるのだ。
それが文明の基である。
であるが直接的には言葉が文明を創っている。
さりながら基は波動にある。
すべては波動にあるのです。
それが見えにくくなる。
言葉過多がそれを隠す。
それが直線の文明です。
それは理屈っぽくなる。
すべては言葉による。
それは線から始まる。
線は物事を二つに分ける。
それは所謂二元論といい、
彼らはそれを好むようだ。
そして得意げに線を引き、
分けて分けて分けまくる。
かくて一応の結論に至る。
それが彼らの思考である。
だからか論理的に見える。
でもそれは終わりでない。
それは始まりでもある。
そしてそれを繰り返す。
しても決して真理には届かない。
それはそうで言葉は分けるだけ。
場の波動(真理)を分けるだけ。
掴めるとしたら、
場と同期同調するしかない。
そう思うのだが、
それはさておき、
だからか、
その流れから時をも直線的に捉える。
幼稚(野蛮)な時代から高尚な時代へ進むと。
発展史観とでも言うべきか。
所謂マルクス史観が典型的。
ではその発展の先には何が。
そこに答えはないのだ。
だから終末思想がある。
始まりがあれば終わりもあると。
でも終わりは終わりではない。
終わりは始まりでもあると。
ならそれは循環だろうが。
まあどうでもいいけど。
結局は方便なのです。
・・・・・
線を引く彼らは社会にも線を引く。
線を引くことが大きな力となるからだ。
自分を優位に立たせるために。
それが階級社会をつくる。
その形がピラミッドのようになる。
極一部の人が頂上にいる。
次に上級管理人らが少々。
次に中間管理人や一般民衆が、
その下に多くの奴隷らが、
ということに。
これが彼らの社会の構造である。
それは大古の昔からそして今も。
だとしても、
さすがに現下は奴隷はいない?
ということになってはいるが?
一寸疑わしい。
一時はよく言われた。
1%の人が99%の人を支配してると。
実際はその1%のさらに1%だろう。
彼らが線を引いている。
好き勝手に線を引いている。
しかして言葉を使って支配している。
だからメディアを支配する。
人事権と生活権をからめて。
ためには財力が必要なのだ。
だから同時に金融をも支配。
これでいよいよ雁字搦めに。
よくできている。
でもどうだろう、
この状況は不自然である。
ピラミッド型社会には無理があるのです。
引いた線が切れてしまえば、
つまり嘘がバレたらお終い。
多勢に無勢なのだ。
この型はだから現実には勝てない。
だからもの凄く不安定なのだ。
ゆえに必ず壊れるのです。
シナの易姓革命のように。
一寸違うのはその大きさ。
謂わば超大型版の易姓革命になる
これが超大型になるには訳がある。
それはなんと神をも巻き込むから。
と言うことで、
リベラルと中華思想はよく似てる。
だからか手を繋ぎながらも大喧嘩。
面白い!
・・・・・
ところで日本はちょっと違う。
てかちょっとどころではない。
それを私は円環の文明と言っている。
循環と言ってもいい。
ならインドはどうだろう。
インドもひとつの文明である。
それは概ね循環的に見えるのだが。
そこにはカーストという階層制がある。
それは厳しいものらしい。
なら階級と謂うべきか。
そこは日本とは違う。
日本には階級がないのだ。
ちなみに身分は階級ではない。
役割分担を表わすもの。
ということです。
念のため。