ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

特殊な国

2018-10-08 10:12:22 | 日記・エッセイ・コラム
日本は特殊な国である。
これは以前はよく言われていた。
勿論今でもだが。
日本の常識は世界の非常識とか。
欧米に比べて日本は異質だとか。
最近は少しは理解されるようになったが。
でも未だ日本を知らない人が多い。
呆れることに日本人ですらだ。
・・・・・
欧米人は個人主義である。
しかも言語過多で議論を好み、何事も白黒を付けたがる。
故に二元論的発想を好む。
確かに曖昧さはなくなる。
私から見れば、曖昧さこそ真実の欠片なのだが。
でも彼らはそれを好まない。
だから結局最後は嘘になる。
でもそれが分からないのだ。
個人主義の対極は全体主義である。
個人主義を旨とするから、全体主義を否定する。
個人を抑圧するものだと毛嫌いする。
その象徴がドイツのナチズムである。
分からないでもない。
・・・・・
以前にも言ったが、
人間の身体を考えれば分かるだろう。
もともと一つの細胞が一つの生命体であった。
でも単体でいきるより合体した方がいいと考えた。
そして60兆個もの細胞の超連合体となる。
それが人間の身体である。
細胞は様々な組織を造り、各組織はそれぞれの役割がある。
それらは矛盾することなく協働している。
脳が偉い訳ではない。
価値においては手足等と同等である。
手足あっての脳であり、脳あっての手足である。
そのこと疑問なし。
人間の社会も同じである。
一人で生きるよりも集まって生きる方がいいと考えた。
その方が生存に有利なのだ。
そして社会ができた。
人間は社会的動物である、
と謂われる所以だ。
・・・・・
ならばである。
全体あっての個人であり、個人あっての全体である。
全体と個人は協調が前提なのだ。
なのになぜ対立的に捉えるのか。
むやみな対立は病(統合失調症)と言うべきであろう。
個人主義もほどほどに。
しかして全体を立てなければならない。
そこにこそ協働がある。
このこと私は疑わない。
なおナチズムを毛嫌いするのは理解できる。
ナチズムを全体主義だと言うが、それがそもそもの間違いだ。
国家を一個人だとすれば、それはまったき個人主義である。
全体のことなど考えていない。
むしろ個人主義の弊害とみるべきだ。
ところで日本は違う。
先の戦争での日本は違うのである。
それが大東亜共栄圏であり八紘一宇である。
個人も国家も超えていたのだ。
それが日本の戦争であった。
・・・・・
さらにところでシナはもっと酷い。
欧米は個人主義と謂えども信仰がある。
信仰とは神との契約であり、
その契約は神を通じて他者に繋がっている。
個人主義ながら救いはあるのだ。
それに比べればシナは酷い。
欧米と同様に個人主義なのだが、そこに信仰はないのです。
ゆえに契約という観念がないのだ。
勿論言葉としてはあるのだろうが、
それは守るべきものとの意識がないのです。
守りたいときは守り、都合が悪くなれば無視する。
だから知っての通り、嘘と本当の区別もしない。
実に厄介な相手です。
言語過多(特にリベラル的言辞)の欧米も厄介だが、
シナは更に厄介なのである。
なおもっと厄介なのが韓国である。
端にも棒にも掛からない。
・・・・・
ということで、分かるのです。
日本の特殊性が。
日本は全体主義でありながら個人主義でもある。
全体と個人とを調和の中に置こうとする。
まさに和の国であります。
それは神武天皇の建国の精神でもありましょう。
本当の民主主義や自由は日本にこそあると思うべし。
だから世界のことを考えれば、日本の責任は重大だと思う。
出しゃばる必要もないし、殊更に主張する必要もない。
日本は日本としてただ在ればいい。
戦前を反省するなら、そのことだけでしょう。
しかして日本が日本であることが、
世界の最後の砦であり希望である。
真に特殊な話ではある。