日本は特殊な国である。
これは以前はよく言われていた。
勿論今でもだが。
日本の常識は世界の非常識とか。
欧米に比べて日本は異質だとか。
最近は少しは理解されるようになったが。
でも未だ日本を知らない人が多い。
呆れることに日本人ですらだ。
・・・・・
欧米人は個人主義である。
しかも言語過多で議論を好み、何事も白黒を付けたがる。
故に二元論的発想を好む。
確かに曖昧さはなくなる。
私から見れば、曖昧さこそ真実の欠片なのだが。
でも彼らはそれを好まない。
だから結局最後は嘘になる。
でもそれが分からないのだ。
個人主義の対極は全体主義である。
個人主義を旨とするから、全体主義を否定する。
個人を抑圧するものだと毛嫌いする。
その象徴がドイツのナチズムである。
分からないでもない。
・・・・・
以前にも言ったが、
人間の身体を考えれば分かるだろう。
もともと一つの細胞が一つの生命体であった。
でも単体でいきるより合体した方がいいと考えた。
そして60兆個もの細胞の超連合体となる。
それが人間の身体である。
細胞は様々な組織を造り、各組織はそれぞれの役割がある。
それらは矛盾することなく協働している。
脳が偉い訳ではない。
価値においては手足等と同等である。
手足あっての脳であり、脳あっての手足である。
そのこと疑問なし。
人間の社会も同じである。
一人で生きるよりも集まって生きる方がいいと考えた。
その方が生存に有利なのだ。
そして社会ができた。
人間は社会的動物である、
と謂われる所以だ。
・・・・・
ならばである。
全体あっての個人であり、個人あっての全体である。
全体と個人は協調が前提なのだ。
なのになぜ対立的に捉えるのか。
むやみな対立は病(統合失調症)と言うべきであろう。
個人主義もほどほどに。
しかして全体を立てなければならない。
そこにこそ協働がある。
このこと私は疑わない。
なおナチズムを毛嫌いするのは理解できる。
ナチズムを全体主義だと言うが、それがそもそもの間違いだ。
国家を一個人だとすれば、それはまったき個人主義である。
全体のことなど考えていない。
むしろ個人主義の弊害とみるべきだ。
ところで日本は違う。
先の戦争での日本は違うのである。
それが大東亜共栄圏であり八紘一宇である。
個人も国家も超えていたのだ。
それが日本の戦争であった。
・・・・・
さらにところでシナはもっと酷い。
欧米は個人主義と謂えども信仰がある。
信仰とは神との契約であり、
その契約は神を通じて他者に繋がっている。
個人主義ながら救いはあるのだ。
それに比べればシナは酷い。
欧米と同様に個人主義なのだが、そこに信仰はないのです。
ゆえに契約という観念がないのだ。
勿論言葉としてはあるのだろうが、
それは守るべきものとの意識がないのです。
守りたいときは守り、都合が悪くなれば無視する。
だから知っての通り、嘘と本当の区別もしない。
実に厄介な相手です。
言語過多(特にリベラル的言辞)の欧米も厄介だが、
シナは更に厄介なのである。
なおもっと厄介なのが韓国である。
端にも棒にも掛からない。
・・・・・
ということで、分かるのです。
日本の特殊性が。
日本は全体主義でありながら個人主義でもある。
全体と個人とを調和の中に置こうとする。
まさに和の国であります。
それは神武天皇の建国の精神でもありましょう。
本当の民主主義や自由は日本にこそあると思うべし。
だから世界のことを考えれば、日本の責任は重大だと思う。
出しゃばる必要もないし、殊更に主張する必要もない。
日本は日本としてただ在ればいい。
戦前を反省するなら、そのことだけでしょう。
しかして日本が日本であることが、
世界の最後の砦であり希望である。
真に特殊な話ではある。
これは以前はよく言われていた。
勿論今でもだが。
日本の常識は世界の非常識とか。
欧米に比べて日本は異質だとか。
最近は少しは理解されるようになったが。
でも未だ日本を知らない人が多い。
呆れることに日本人ですらだ。
・・・・・
欧米人は個人主義である。
しかも言語過多で議論を好み、何事も白黒を付けたがる。
故に二元論的発想を好む。
確かに曖昧さはなくなる。
私から見れば、曖昧さこそ真実の欠片なのだが。
でも彼らはそれを好まない。
だから結局最後は嘘になる。
でもそれが分からないのだ。
個人主義の対極は全体主義である。
個人主義を旨とするから、全体主義を否定する。
個人を抑圧するものだと毛嫌いする。
その象徴がドイツのナチズムである。
分からないでもない。
・・・・・
以前にも言ったが、
人間の身体を考えれば分かるだろう。
もともと一つの細胞が一つの生命体であった。
でも単体でいきるより合体した方がいいと考えた。
そして60兆個もの細胞の超連合体となる。
それが人間の身体である。
細胞は様々な組織を造り、各組織はそれぞれの役割がある。
それらは矛盾することなく協働している。
脳が偉い訳ではない。
価値においては手足等と同等である。
手足あっての脳であり、脳あっての手足である。
そのこと疑問なし。
人間の社会も同じである。
一人で生きるよりも集まって生きる方がいいと考えた。
その方が生存に有利なのだ。
そして社会ができた。
人間は社会的動物である、
と謂われる所以だ。
・・・・・
ならばである。
全体あっての個人であり、個人あっての全体である。
全体と個人は協調が前提なのだ。
なのになぜ対立的に捉えるのか。
むやみな対立は病(統合失調症)と言うべきであろう。
個人主義もほどほどに。
しかして全体を立てなければならない。
そこにこそ協働がある。
このこと私は疑わない。
なおナチズムを毛嫌いするのは理解できる。
ナチズムを全体主義だと言うが、それがそもそもの間違いだ。
国家を一個人だとすれば、それはまったき個人主義である。
全体のことなど考えていない。
むしろ個人主義の弊害とみるべきだ。
ところで日本は違う。
先の戦争での日本は違うのである。
それが大東亜共栄圏であり八紘一宇である。
個人も国家も超えていたのだ。
それが日本の戦争であった。
・・・・・
さらにところでシナはもっと酷い。
欧米は個人主義と謂えども信仰がある。
信仰とは神との契約であり、
その契約は神を通じて他者に繋がっている。
個人主義ながら救いはあるのだ。
それに比べればシナは酷い。
欧米と同様に個人主義なのだが、そこに信仰はないのです。
ゆえに契約という観念がないのだ。
勿論言葉としてはあるのだろうが、
それは守るべきものとの意識がないのです。
守りたいときは守り、都合が悪くなれば無視する。
だから知っての通り、嘘と本当の区別もしない。
実に厄介な相手です。
言語過多(特にリベラル的言辞)の欧米も厄介だが、
シナは更に厄介なのである。
なおもっと厄介なのが韓国である。
端にも棒にも掛からない。
・・・・・
ということで、分かるのです。
日本の特殊性が。
日本は全体主義でありながら個人主義でもある。
全体と個人とを調和の中に置こうとする。
まさに和の国であります。
それは神武天皇の建国の精神でもありましょう。
本当の民主主義や自由は日本にこそあると思うべし。
だから世界のことを考えれば、日本の責任は重大だと思う。
出しゃばる必要もないし、殊更に主張する必要もない。
日本は日本としてただ在ればいい。
戦前を反省するなら、そのことだけでしょう。
しかして日本が日本であることが、
世界の最後の砦であり希望である。
真に特殊な話ではある。