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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

文明の終焉

2025-05-12 09:19:06 | 日記・エッセイ・コラム
歴史・伝統・文化は「こと」である。
それは言葉でできている。
歴史とはヒトの「こと」の流れ、
伝統はそれが今に残ってるもの、
文化はそれら諸々の総体である、
これらは言葉そのものではない、
でも言葉なくして存在しえない、
ゆえ言語にはそれらすべてが反映されている。
日本は日本語でできている。
日本人とは日本語を母語とする人のこと。
言わずもがな、日本語が、言葉が、その核にある。
そこで文明である。
これは今にあるだけでなく明かりとなる、
これから行く道先を照らす明かりとなる、
そういう側面を持っていて謂うもの。
日本語は一音一意・一字一意であり、
下手な理屈は不要、言葉自体にイがある。
日本語とはそういう言語である。
てか文明とは字義の通りのもの。
てかそこに一つ疑問が。
・・・・・
言葉は実ではない。
言葉は実に貼ったレッテルでしかない。
レッテルを貼っても実は変らない。
でもそれを正しく想起させるなら、そこにイが生れる。
ヒトは言葉を持ったときそれゆえに言葉に力を感じる。
それが言葉を育てる。
そして更に大きく発展する。
それが高じて終には言葉に取り込まれてしまう。
かくて実は知らずレッテルにのみ捉われて。
そのとき嘘と狂気に満ちた世界となる。
これは人の劣化であり退化である。
てか神的に言えばこれも進化。
思えばこれ文明の宿命か。
これを言う人がいる。
その人の著書はことごとく読んでいる。
うえの話はその人の主題ではない。
ついでに記されていただけ。
でも正にそうかもと。
現下の人間文明はおおよそ7~8千年のこと。
最終氷期以降のことらしい。
しても言葉はいつごろ持ったのか。
それはもっともっと古い話だろう。
なら言葉の力を想えば、
それ以前にも文明があったろうと、
しかもその文明以前にも更に更に古い文明が。
言葉の発展と退化は人間の発展と退化。
てかそれを繰り返してきたのか。
それを想う。
これは避けられないことか。
そうかも知れない。
イエスはそれを知っていた。
てかマタイの福音書には記されている。
オリブ山にいるとき弟子らが問うた。
世の終わりにはどんな前兆があるのか、と。
答えて言われた。
人に惑わされないよう気をつけなさい、
多くの者が私の名を名乗って人々を惑わす、
また戦争と戦争のうわさとを聞く、
民は民に国は国に敵対して立ち上がる、
不法が蔓延り人々の愛はさめる、
またあちこちに飢饉があり地震がある、
てか更に諸々…、
そして終にそれを見る、
そのとき人の子のしるしが天に現れる、
人の子が天の雲に乗って来る、
…。
という話ですが、
これが所謂イエスの再臨であり、
ときに新しい世となるのである。
てかこれは文明も循環するということか、
すべての命が循環している様に。
それを想う。
・・・・・
現下の様はまことに酷い。
世界には嘘と狂気が溢れている。
言葉が本来の意味・意義を喪失。
神の事の場は本来は中立。
そこにイを見るは人の心。
なのに「こと」を見失い、
もって「こと」の源の魂を亡失。
ときに心が枯れて言葉はイを持たず。
ゆえイなきレッテルに振り回されるのみ。
そこで声高に振り回されるのがプロパガンダ。
てかその極みはポリコレ。
ポリコレは言葉の墓場か。
ちなみに、ゆえに、
このままではディズニー?は出られない、
その墓場から出られない。
てか又ちょっと逸れたが。
イエスはあれほど惑わされるなと言っていたのに。
てかこれはヒトの言葉の宿命か。
文明が終焉するのは。
欧米は歴史を直線で捉えるようだが、
ゆえ一方的に進歩すると思っている。
思えば進化と退化は同じものであり、
ヒトの都合でどちらにも取れるもの。
思うに現実は直線ではない。
現実は運動振動波動であり、
それは螺旋状を行きつ戻りつしてるもの、
そんな円環の世界であると。
ゆえ文明もまた行きつ戻りつか、
そう思うのです。
うん、

ふんべつ

2025-05-05 10:14:46 | 日記・エッセイ・コラム
リベラルの嘘はいろいろあるが、
てかそのほとんどが嘘であるが、
それはいつも偽善に塗れている。
人の言葉は虚構であるとはいつも言っている。
それが嘘を免れるはその構えによる。
神の言葉つまり現実に如何に依拠しているか、
そのことによる。
てかそのことに尽きるかと。
人類がまだ地球上に現われる前にあったのは現実、
人類がこの地球上から消えてもそこにあるは現実、
現実はすべてである。
その神の事の場にある現実に対峙して、
ヒトは「人の事の場」を創る。
人類はそこに天と地を認めた。
人類はそこに光を認めた。
そしてそこに「ものごと」を認めた。
さらにそこにあるさまざまな違いを認めた。
それを分別(ふんべつ)と謂う。
それは分別(ぶんべつ)と謂う短絡的なものではない。
それはゴミではないのだ。
それは鮮烈で決定的な違いから、
一寸した微妙な違いまで、
分別できっるものに印(しるし)を付けて行った。
その印が言葉である。
ゆえ言葉は分別(ふんべつ)である。
ゆえ言葉は分別の積み重ねである。
ゆえ「こと」である言葉は歴史である。
ゆえ「こと」である言葉は伝統である。
ゆえ「こと」である言葉は文化である。
それは単なる只今の「こと」ではない、
過去と未来を包含した只今の「こと」である。
言葉を生きるとはそれを想うこと。
リベラルはそんな言葉を壊す。
過去と未来を閉じ込めて。
それが人間をこわす。
それを知らねば。
・・・・・
だから今まで言っていたのです。
これからも言い続けます、それがなくなるまで。
ひとつ今世界の嘘と狂気の大元、
一つはリベラル、一つは中華思想、一つは原理主義、
大きく言ってこの三つがあると。
これらはすべて言葉に関わっているもの。
やはり一番の問題は言葉なのだ。
ひとつリベラルの大嘘、
てか今世界を直接牛耳っているのはリベラルである、
その彼らが掲げているプロパガンダ、
それを私は、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
と言っている。
これはもう敢えて説明の要なし。
してもここで言いたいのはポリコレ、
それも男女にかかわること、
ここで分別が消されている、
このことが特に不快なのだ。
ポリコレとはまさに言葉の技である。
てかリベラルの本義がまさにそこに。
人は分別を持ち言葉を創り、
以って違いを知り、現実を知識してきた。
生物は無性生殖から有性生殖へと大きく転換。
その方が生存に有利だから。
それは植物もですが動物なら尚あきらか。
その動物にはいろんな種がある。
魚類や昆虫から哺乳類まで。
そこで思うのです。
雌雄ってのはこれは決定的な分別である。
種をも超えた決定的な違いです。
それを同じだとは如何。
何とも面妖な?
これに関わる災いの始まりは男女共同参画か。
人類はその初めから男女共同参画である。
それを敢えて言う理由がどこにある。
次に女性の社会進出という話し。
これも意味不明、家庭は社会の外にあるのか、
家庭は社会を繋ぐもの社会を成立させるもの、
それは命の使命である命を繋ぐための礎です。
それが社会でないとは?
てかこれを維持するのが社会の要諦かと。
女性の社会進出とはようするに、
どこでどう関わるかだけのこと。
そも人間は皆社会的動物である。
ちなみに唐突だが、
ここで想うのです、与謝野晶子の歌を、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
これは生命の核心を歌っている、
悠久の生命の核心を、女の心で。
そう想うのです、
実に素晴らしい。
ここにはつまらない理屈はない。
ポリコレは一切ありません。
ハイ!
・・・・・
今喧しいのは選択的夫婦別姓である。
ひとつの家庭の印は当然一つでいい。
姓をその印とするならそれはひとつ。
ゆえ意味が分からない。
夫婦別姓とは何なんだ。
てかそこになお選択的と付ける。
欺瞞の上にもなお欺瞞を重ねて。
てかシナ朝鮮の夫婦別姓は意味が違うと。
アレは家庭を指しているのではない。
アレは血統を指しているのです。
母は父方には決してなれないのです。
思えば今の日本に知識人はいるのか、
思えば思うほどに情けない、
想えば皇室には家庭がない、
てか庶民の言う家庭はない。
そこに在るのはすべての家庭を包むもの、朝庭である。
ゆえ皇室の方々には姓がないのです。
そのかわりにか宮号がある。
しても陛下にはそれもない。
而して陛下は二人あられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
真の芯として。
それを想うのです。
てかてかしかじかであるが、
ともかく分別を取り戻そう、
しかして言葉を取り戻そう、
言葉を持ってこその人間であり、
ときに捉えた現実への想い、
ときの鮮烈な想いを持って。
と常々思っている。
うん!

個人主義のワナ

2025-04-28 09:26:29 | 日記・エッセイ・コラム
個人主義というのが分からない。
何が分からないって、言葉の意味ではない。
何というのかその捉え方である。
そも違和感があるのです。
命の行動単位として個人はある。
個が行動単位とは人に限らない。
すべての生命は行動に主体たる単位がある。
特に動物はそうです。
それはそうですよね。
そこに主義を付ける。
てかその主義が個人をゆがめる。
そのことがです。
主義とは正に言葉の本質である。
それが現実を歪めるのです。
歪めてなお良しとする。
ここに主客が転倒、
亡霊が現れる。
・・・・・
個人は個人として生きている、取り敢えず。
でも個人だけで生きているのではない。
他人なくして存在しえない。
他人とは同種の存在のこと。
ちなみに種が一つではこれも生きていけない。
動物種は植物種なくして生きていけない。
植物種は大地なくしては生きていけない。
そして大地(水と炭素)だけでなく光も。
そしてその他諸々を含めそこに場がある。
その場に生きているのです。
その場の巡りの中で生き続けている、
それが命である。
こんなことは当り前で疑いようなし。
数学で言えば1+1は2である。
なのに歪めるのです。
個人は取り敢えず個人で生きている。
そこにはそれを動かす力がある。
それはその個人のイである。
人は言葉を持ってそのイをシキする。
これが言葉と謂うものです。
これが厄介の始まりである。
理解と誤解は同じもの、
それを心得ていればいいのだが、
それを心得ず、
シキが突出させた我に任せれば、
それを自分の都合で一方的に固定させる。
そして方便を真理して譲らない。
これが嘘と狂気の因である。
だから言うのです。
現下の世界を歪めているのは知識人だと。
言葉を生業としている者の仕業だと。
勿論全員ではない。
でも知らず知らず取り込まれる。
それを思うのです。
最後は庶民が頼りかな。
現実をまんまに生きる庶民です。
自ずから然りに生きる庶民です。
石や木や虫らともイを通わせる庶民です。
ちなみに市民ではなく庶民です。
市民という言葉は好きじゃない。
我を特別だとする心が嫌だから。
てか又逸れてきた。
個にはそこに命のイがある。
個が倒れたら命はこわれる。
為に個は立たねばならない。
それが大事ということなら、
個人主義に何の問題もない。
しても個は個だけで生きてる訳ではない、
個々の命(集団)があってこそなのです。
問題はこの先です。
個人と集団は対立するものではない。
ヒトの細胞(個)とその體を思えばあきらか。
調和(健康)が大事ということです。
なのに今の個人主義は我が突出する。
それを良しとして集団を対立軸に据える、
そして調和を損ない利己主義になる。
そんな個人主義が嫌いなんですワナ。
そうなんですワナ、
ワナワナ!
・・・・・
言葉はつまりは「こと」である。
ことは流れであり、
これは「もの」が流れることのさま。
ゆえ言葉を話すとは物語りすること。
物語りを文字で著わせばそれが歴史。
文字が創られた以降は、
言葉はそれ自体が歴史となった。
言語はその中に既に歴史が内包されている。
言語は歴史であり伝統でありまさに文化である。
しかして、
日本にはそも個人主義はなかった。
そういう概念が不要であった。
現実を生きるに不要であった。
ちなみに個人主義には自由とか人権が付き纏う。
自由も人権も日本には馴染まない。
してもこれは日本人が創ったもの、
原語は欧米であったが。
自由とはフリーダムのことか。
欧米のフリーダムは奴隷制度が生み出したもの。
奴隷からの解放のために必要であった。
その理論武装として創られたのが人権。
それが欧米の歴史です。
それが欧米の言語です。
何を言いたいのかと言えば、
日本には奴隷はいなかったということ。
役割分担はあってもすべからくが人間であった。
すべてが自由人であったのです。
ゆえ人権という言葉もなかった。
一体誰に人権を主張するんや、犬や猫にか。
てか同じ人間にそんなもん必要ないやろが。
てか、
自由という言葉がこのことを示している。
自由とは「自(おのれ)の由(よし)」である。
この由(よし)とは自分が自分であることの根拠とでも。
ゆえ自由とは「自分が自分を生きる」と謂うだけのこと。
個人としてもはたまた集団の一員としても。
それだけのことである。
これをフリーダムに宛てたのです。
素晴しいです、まことにまことに。
これが日本である。
個人主義という言葉は本来は不要。
まあ翻訳語としてはあってもいい。
というほどのもの。
だから何度でも言うのです、
言葉には注意しようと、
ホントにホントの、
ホン、トホホ。

信仰と祈り

2025-04-21 08:23:22 | 日記・エッセイ・コラム
信仰と祈り、これは鍵である。
言葉を持たないものにはこれは不要である。
そも神の事の場でそのまんまにあるからだ。
てかさんまや東の話ではない。
でも言葉を持った人間はときにそこから離れた。
離れたと雖もそれはイのシキがそう感じさせただけ。
実には離れていない、全ては言葉の技です。
その言葉の技により初めに知った、
在るものを在ると知ってしまった、
在ることが在ると知ってしまった、
それが余りに鮮烈であったのです。
その圧倒的な存在感、そしてそれを畏怖し畏敬した。
それが信仰と祈りの始まりに。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と言ったヨハネ、
その言を借りて私流に言えば、
初めに言葉があった、
言葉は信仰と祈りとともにあった、
言葉は信仰と祈りであった、
ってことかな。
しても、
ヨハネの言う言葉とは神の言葉のこと、
わたしの言う言葉とは人の言葉のこと、
そこは少し違います。
・・・・・
思うに、
信仰と祈りは人間の必需品である、
言葉を持った人間には。
これを失くせば言葉は干からび枯れ果てる。
ここに宗教の大問題がある。
宗教とは煎じ詰めれば教義である。
つまり言葉である。
ゆえに教義は信仰と祈りとともにある。
それは既にその内に包まれているもの。
なのに言葉が信仰と祈りを敢えて規定するは如何。
方便でなければまったき嘘となる。
これはそれを捨てる行為に等しい。
それが原理主義である。
この先にはリベラルがある。
これは存在の畏怖畏敬を捨てる。
それは自らが神になる業である。
それはそこにある分別(ふんべつ)を捨てさせる。
それが言葉狩りである。
生きた言葉が消されていくのだ。
そして神がいなくなる。
これに似ているものに中華思想がある。
これは神を捨てるわけではない。
なのにその手に神の欠片もなし。
時の我に専ら取り憑かれるのみ。
ここに至れば言葉に意味はなし。
すべては時の我に収斂するだけ。
今世界はこの三つに取り憑かれている
ゆえ嘘に支配された狂気の世界となる。
思うに、
イエスや仏陀やムハンマドらは信仰の人であったろう。
しても人々にそれを伝えるには言葉が必要。
ゆえ彼らはそれを必死に伝えた。
正に文字通り必死に。
ゆえ彼らの信仰を受け継ぐ者が現れる。
それも続々と。
そして彼らを教祖とし、
神と呼び仏と呼びときに預言者と呼ぶ。
それは素晴らしいことそこに不都合はありません。
そも彼らが伝えたのは単なる言葉ではない。
それは神(の事の場)への信仰であり祈りである。
てか信仰と祈りに満ちた言葉であった。
でもその言葉は時の所の言葉であった。
人の言葉は文化・文明の中で変化する。
伝えるのは単なる言葉の羅列ではない。
そこにある信仰と祈りなのです。
これはときの行動とともにある。
それはそも歴史的なものである。
為には時の事に謙虚にならねば。
為には今の事に謙虚にならねば。
傲慢尊大我欲はそれを遠ざける。
それを想うのです。
まことにまことに。
・・・・・
神道は宗教以前の宗教?である。
それはゆえ教ではない。
それはゆえ道である。
そこに有るのは在るものへの畏敬であり、
そこに有るのは在ることへの畏敬であり、
そこに有るのは神(の事の場)への信仰、
そこに有るのは神(の事の場)への祈り、
である。
それはいつでもどこでも在るもの、
それはいつもかたわらに在るもの、
それは祀りたいときそのとき祀り、
それは祀りたいところそこで祀る、もの。
而して、
ただ自ずから然りの道をゆくのみ。
これを私は虫(無私)の心と謂う。
しても私は本当は知らない。
神道の何たるかは知らない。
取り立てて学んだことなし。
でもこれが體に問うての私の答え、
今のところの私の答である。
情々ご勘弁を!

ヒトのイ

2025-04-14 08:57:45 | 日記・エッセイ・コラム
ヒトのイとは人の言葉のことです、
言わずもがな、のことかなかなか。

この世界は一体の物事としてある。
それをひとことで場(ば)という。
一体とはそれすべて繋がっているから。
前後左右上下縦横無尽に繋がっている。
そしてそれは動いている。
それを事と言うがこれは運動振動波動のこと。
しかしてそこにアヤが出来る。
それは誰が為すということもなく、
すべてが自ずから然りの中で。
生物もそうでないものも。
そこは基本的に同じ。
してもそれをそれと感得したのがヒトである。
なぜか感得したのである。
そしてイをもったのです。
ときにヒトが人間になる。

先ずはそこにアヤを見た。
そしてそこに線を引いた。
それは物事をふたつに分ける。
それとそれ以外とに。
そして分けて分けて尚分ける。
イがどんどん増えアヤもまた。
にしてもここが肝腎、
人間は何も創っていない。
そこに線を引いて印を付けただけ。
そしてときにコトワリを見つけた。
しかもそれを再現し利用することにも。
それが科学&技術である。
人間はなにも創ってはいない。
人間はそれを使っているだけ。
これは魔法のようなもの。
タネは神の事の場にある。
それを人の言の葉の技で再現。
人の言の葉とはそういうものです。
それを知ろう。
てかこのこと以前から言っている。
それをなお端的に言っていた。
それはごく短い言い回し、
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、
なんちゃって。
ヒトが創った唯一のものはヒトの言葉だけ。
そして人間になったのである。
なのにこの退行かつ劣化の様、
この辺でそろそろ戻りましょうよ、
あの妖怪人間ベムちゃんも言っていた、
人間になりたい~と。
てかこれもう古い話、
昭和も遠くなったな。
・・・・・
何とも長い前置きではあった。
でも言いたいことは別にある。
てか上でもそれを言ってるが、
それはその根子のことである。
ここではそれを具体的に言う。
物事の本質は「こと」である。
それは流れるもの、
しかしてそれは変化するもの、
そこでおもう、
創造と破壊これは同じものである。
今ある状態を変えること。
それを創造と言ったり破壊と言ったりしている。
神の事の場においては何も変わらない。
人の事の場においては人の思いが入る。
己に都合よければ創造と言い、
でなけりゃ破壊と言うのです。
言換えて豊穣と災厄としてもまあ同じ。
進化と退化これも又同じこと。
その部位を使えばそこが進化する。
でなけりゃそこが退化してしまう。
これは人の思いとは関係ない。
まあ體は體ということか。
それを中立的に言えば変化と謂う。
ヒトの言葉はそういうものである。
本来同じイであってもそれを別のイにする。
これが一番問題になるのが善悪である。
これは状態が同じでも極端に分かれる。
しかもときにそれを絶対化してしまう。
欧米はこれで苦しんでる。
言葉を先鋭化させてそこから抜けられなくなるのだ。
例えばヒットラーのこと。
ただの一人の人間なのにそれを絶対悪にしてしまう、
人間皆同じとその口で言いながら。
その矛盾をまったく顧みない。
これがリベラルの宿痾である。
同じようなことだが、
もうひとつ大きな問題がある。
それは抽象的な言葉。
この多くは現実から生まれたものではない。
人の事の場の創造によるもの。
なのに使うときは一方的に現実にはめ込む。
しかもそれが尚一層恣意的になる。
例えば人権、
こんなものは現実にはありません。
でもそこには意味がある。
それを慎重に使うは良し。
でもそれを自分の都合で無分別に使う。
しかも差別やハラスメント等と絡めて。
これが言葉を疲弊させる。
使うにふさわしいなら良いのだが。
分別をもって使えば言葉は成長するが。
それはまた人の心をも育てる。
その逆は推して知るべし。
とかてかと、
思っている。
・・・・・
話は少しかわって虫の話。
私は虫をよく引き合いに出す。
言葉を持たない生物の代表として。
虫は親父ギャグ的に無私と重なるから。
なかなかに使い勝手が良いのです。
その虫であるが、
彼らはごく狭い範囲で生きている。
でもそもひとつである世界に線を引かないから、
狭い範囲と言ってもそれは世界そのものである。
それを思うのである。
それに行動単位としての私はあっても、
その私はイをもたず恣意的にならない、
虫(無私)の心を持っている。
これに鑑みれば人間がよく分かる。
てか狭い広いを言えば人間世界は広い。
でもこの宇宙を想えばそれも結局大同小異。
やはり狭いとしか言えません。
しかもそこに線を引きまくる。
色んな意味で。
そらを見て星を見て広く生きていた人間は、
線を引いて言葉(イ)を得る。
言葉はイを持ちシキを経てガ(我れ)を育てる。
結果その狭い範囲に囚われる。
とことん捉われる。
しても言葉から離れることはできない。
それを持ってこそ人間だから。
ゆえ思うのである、
だから分別(ぶんべつ)はほどほどに、
これは世界を切りきざむもの、
これは世界を狭める。
だから分別(ふんべつ)を持とう、
これは引いた線をまたぐもの、
そして世界の果てを想うもの、
ときに生物の本懐にもどれる。
私にとっては、
これが信仰であり祈りである。
最近の有様は情けなくも、
イライラすることばかり、
であるのだが、
でも心底に揺るぎはない。
うん!