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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

魔女のいるところ

2025-06-16 09:16:24 | 日記・エッセイ・コラム
最近のアニメには魔法使いがよく出てくる。
それも多くは女である。         
なぜか所謂魔女なのだ。 
男の魔法使いもいるが、主役はいつも女である。
なぜかそういうことに。             
でもこれは納得できる。
ヒトは己の手だけでは何も作れない。
それにこれは女だけが為せる技だが、
そも最も大事なこと命を作ることも。
この大事もまさにそう、
てか大事だからこそ尚のことか。
思えばヒトの技だけで作れるものは何一つない。
すべて神の事の場の理(ことわり)をもって為すのみ。
あらためて言うことではないが。
でもこれを想おう。
してもなぜ魔女なのか。
命にとって一番の大事は命。
それを託されたのが女なのです。
それが神の事の場のことわりの意思。
してもそのイメージはこれまでとは違う。
それはお婆さんではなく今や少女である。
あのフリーレンやフェルンのような。
思えばジブリのアニメもその様、
なぜか少女が多いのである。
多くは魔女ではないが。
てか私の心もまた、
その様にある。
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
この歌が心魂にしみる。
・・・・・
思えば、人間は魔法使いである。
それは神の事の場の理の一端を自覚的に捉えたがゆえ。
それが魔法の種であり、それが正に言葉である。
しても根本的に重要なこと、
子を生み子を育て世に出し、
命の世をさらに次に繋げる。
てかこれは人だけではなく、
他の生物もそれをしている。
ここには言葉は関わらない。
命にとってこの最重要事はすべて神の手の中に。
これを為すは女である。
女こそ生粋の魔法使いなのです。
だからの魔女であると。
まあ勝手に思っている。
でもなおその奥がある、命の種はなおその奥に。
それは植物に答がある。
植物こそ地球(無機物)から命を取り出す。
それを光合成と謂っている。
天地創造の物語の初めに出てくるもの、大地と水と光。
山川草木のその山川が光と交わり草木をはぐくむ。
ところ(森)に魔女はいる。
まあそういうことです。
ゆえ思うのです、より神に近いもの、それは女である。
最初の命に性はなく皆ひとり神。
でも有性生殖になるは雄雌に順序はなく同時且つ一対。
日本神話ではそのようになっている。
てかもし順序があるならそれは雌か。
しても雌雄が出来た理由はあきらか、
それは命の永遠性を担保する為かと、
状況に応じての生き残りを画すもの。
ここでの大事は違いである。
皆同じではいけないのです。
思えば男と女は違うのです。
これは決定的に違うのです。
この違いこそが大事なのである。
ここのところお間違えなきよう。
ちなみにではなぜLGBT~があるのか。
それは分からない?
でも神の事の場の仕掛けなら受け入れるより仕方なし。
これに限らずヒトに生れるかどうかも含め。
てか人間以外はこれを悩まない。
言葉を持たないから。
もっぱらその現実を生きるのみ。
問題はすべて言葉の中にひそむ。
そのことを知ろう。
今私は怒っている。
男女共同参画は実に当り前のことで言う必要もなし。
なのになぜかそれを言い、同時に夫婦別姓とは何事。
夫婦とは一体のもの、その証しが子供です。
神の事の場も人の事の場もそこは同じかと。
そこに命の現実があり、想いへの幻想も又。
そしてそれは命に違いを求めている。
現下のような嘘と狂気に満ちた世界に誰がした。
世界は一つや皆同じは、概念の極致にあるもの、
すべてが繋がっている、ゆえそうとも言えるが、
現実は集合に集合を重ねた超集合の集合の世界、
違いに違いを重ねている世界、
それを想うのです。
・・・・・
どちらかと言えば日本は女性の国か。
男性上位に見えてもそれは見せかけ。
てかこれは女性を守り支える為です。
それは内にあっても又外においても。
ここまでなら世界もかわらなく同じ。
ここから道が分かれる。
社会が大きくなったり別れていったりすれば、
それに備えるが最重要事になる。
それは外からの脅威である。
今なら安全保障とでも。
ここに注力すれば主体が男性になる。
ゆえ社会は男性社会となる。
これは歴史の常道。
だからです、
争いが絶えず残虐非道が日常化する世界では、
男性が上位となり女性はなす術なし。
これが旧大陸の有様であり、
女は男の所有物に。
今あるジェンダーフリー(女性解放)はこの副産物。
そも日本には必要ないもの。
争いのない縄文時代、それ以降もそんなに多くない。
それに残虐非道はほとんどなし。
そこでは男と女は対等であった。
それは神話の時代から現代まで。
てか表題に戻れば、
日本に魔女はいない、かわりに巫女がいる。
神に仕える女性である。
男ではなく神にである。
卑弥呼(日巫女)はときに神になぞられる。
あの女神天照大神にである。
てか神に近い存在だからか。
しても天照大神は元は男神であった、とも言われる。
それが女性にすり替えられたと。
話としては面白くそそられるが、
今はれっきとした女性神である。
私は神に性はないと思うが、
ゆえどちらでもいいのだが、
てか神に近いと言うならやはり女性、
だからこれでいいのだ、
レレレのレ。

荒廃

2025-06-09 08:38:06 | 日記・エッセイ・コラム
荒廃、これが今の世界の状況。
だと思うのですが、
これが日本にいれば今一わかりにくい。
しても日本も結構酷い状況だと思うが。
この状況のあきらかな始まりは「男女共同参画」であり、
それが誰の目にもハッキリしたのが例のLGBT問題であり、
これをさらに進めようとするのが夫婦別姓、
しかして今や荒廃の一歩手前。
それでも日本はなお踏み留まっている。
それは歴史伝統文化の中で営々と生きて来た庶民のお陰。
理論理屈は役には立つが人を養わない。
人を養うのは現場の力現場の働きの力。
ヒトは「人の事の場」を作るとは雖も、
それは「神の事の場」あってこそです。
人は現実に生きているのです。
現実なしでは生きられません。
思えば戦後は為に世界は荒廃の中にあった。
一人アメリカだけは空が青かった。
それが時を懸けて世界にも青空が広がった。
そこに種がばら撒かれた。
荒廃の種である。
・・・・・
今次の世界の大元は欧米の文化文明である。
その欧米がもっとも酷い状況になっている。
その原因は欧米文明にそも内包されていた。
それはその言葉であり、その在り方である。
それを世間はリベラルという。
てかここが分からないのだが、
それに欧米文明がなぜ気付かない、
それとも誰かが意図してそのようにしてるのか、
どうにも分からない。
もうひとつ分からないことが。
それは日本のことである。
そも文明的には十分わかっていると思うのだが。
なのにこの様である。
庶民は心底では分かってると思う。
でも見た目では流されてるとしか。
てか底流はそうでないと信じたい。
それにしてもそれゆえに、
いま世界は欧米を中心に日本が求められている。
上でも言ったが欧米は言葉上位で、
どちらかと言えば物作りは不得手。
ちなみにそれ以上なのが中華世界、
見せかけばかりで実がともなわず。
それに比べて日本は今だ職人の国。
ゆえ日本は技術的には優位を保つ。
やはり物作りにはたけているのだ。
これは「もの」であるが、
それが「こと」でも同じ。
てかむしろその上をいく。
世界では日本のアニメが持て囃されている。
前にも言ったが私もはまっている。
これがポリコレの防波堤になっている。
てか逆に蹴散らしてポリコレも真っ青。
このまま踏ん張ってくれれば。
これも既に言ったが、
日本は言霊が幸はふ波動の国、
ゆえ歌う国・語る国であり、物語りの国である。
ゆえ舞う国・踊る国であり、神楽薫る国である。
それが現下の様な漫画・アニメの国にする。
そしてJポップやアニソン等の歌が満ちる。
これはそも概念だけではできない。
てか概念はむしろそれに蓋をする。
これは全體細胞の気のほとばしり。
それが神の事の場の情動を伝える。
他の生き物がそうしているように。
ここに道がある日本人の道と場が。
それを思うのですが、
また私は思うのです、
底流は底流としても、
それは無意識の流れではあっても、
ときにはそれを敢えて意識しよう、
少しは自覚的に。
・・・・・
欧州にも以前は青空があった。
それが今は見る影もなし。
てか実際は知らない。
漏れ聞くところではです。
都会では夜になれば女は一人で出られない、
てか男でも危険がつきまとう。
思うにそれらは移民が大きく影響している。
してもなぜ移民がそれだけ増えたのか。
すべてはセレブ社会を維持する為。
求めたのは安価な労働力です。
セレブはセレブだけではセレブたり得ない。
セレブだけならセレブも働かねばならなくなる。
彼らには労働力が必要なのです、それも安価な。
ゆえ国民の迷惑を顧みずそれを進めた。
おまけに大きな声では言えないが、
戦争は彼らに大きな利益を与える。
だから好んで戦争をする、てかもとへ戦争をさせる。
そしてこれが更なる難民という移民をもたらす。
そしていよいよ立派な荒廃がなる。
てか分かっていながら日本はなぜ後を追う。
日本には彼らのようなセレブがいないのに。
てか私は移民には断固反対である。
特に労働力不足のための移民には。
最高神である天照大神までも働く国である。
労働は必要悪でなくむしろ生きがいである。
不足なら国民の間でやりくりをすればいい。
それだけのことです。
にしても今やメディアはまったく機能せず、
もっぱらプロパガンダばかり。
政治家は、これが一番分からない、なぜか一切機能せず。
官僚はやりたい放題でいざとなれば頬被り。
ここにいたって警察も裁判所も信用に疑問符が。
よく分からないが深田が燃えているし。
でもまあこれも前に言ったが、
神の事の場は何があってもびくともしない。
自然は必ず自然にかえる。
そこはあわてずボチボチ、と。
うん!

電気自動車

2025-06-02 06:31:37 | 日記・エッセイ・コラム
この世界は「ものごと」で出来ている。
しかしてすべては一体で繋がっている。
それはそも分けられない。
でも均質ではなくすこぶる多様であり、
そのうえ留まることなく変化している。
命はその中で生まれそれを捉えて在る。
人はそこにある違いに目を付ける。
人はそこにある違いに印を付ける。
そして分別する、敢えて分別する。
違いと雖もその境は実に曖昧だが。
その違いの大きな枠の一つに、
「もの」と「こと」がある。
私はずっとそれを言ってきた。
これは私の思いの柱の一つである。
うん!
・・・・・
私は以前から徹底的に糾弾していることがある。
例のアレ、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
である。
てか電気自動車は後で付け加えたもの、
どうにも胡散臭く思ってしまって、
地球温暖化脱炭素の付録だが。
これが今回の主題である。
それはこれが分かり易く目の前にあるから。
てかその理非が捉え易いのだ。
昨今それが表に現われている。
私が言っていたこと。
電気とはエネルギーでありすぐれて「こと」である。
これは本来貯められない。
これは流れるもので変化を常在とする。
比べて石油はすぐれて「もの」である。
これは長く留まるもので、
勿論変化はするが短期的には無きに等しい。
これに条件を与えて急激に変化させる、
それがエネルギーとなり力を発揮する。
これを為すがエンジンである。
対して電気自動車の場合はそれはモーター。
これは力を発する装置ではあっても、
その素になるエネルギーは作らない、
それは外から供給されねばならない、
そこが大きな違いである。
だからそれをどうするか。
私は電池を余り信用していない。
例えば乾電池、
これはすこぶる便利なものだが、
これ実は発電機だと思っている。
常時ゆっくり発電放電していて、
通電すればより大きく発電する、
これを利用しその力を活用する。
ゆえ電池とは言葉の綾であると。
例えば蓄電池、
これは電気を行き場なき所に閉じ込める、
閉じ込めると雖もそれはそも流れるもの、
大量且長期間は難しくしかも漏れやすい。
ハイブリッドのように自前で電気を作り、
少しの時間だけ置けるようにしておいて、
それを順次使用するそれなら素晴らしい。
てか今や自動車は制御に電気が必要です、
そも随分前からハイブリッドなのである、
その電気を動力にも利用するというなら、
これは実に優れモノである。
てか自前で電気を作るなら、
電気自動車にそも疑問なし。
そうでなければ、
それは蓄電池の問題であり、電気供給方途の問題である。
これが解決できるとは思えない。
繰り返すが、
電気は流れるもの貯めるのは不向き。
それに供給と言ってもそれが難しい、
持ち運びは出来ないのです。
それを流すには電線が必要。
それが集住地なら有効かと。
さならば電車方式のように、
常時流しておいて常時使う、
この方式なら有効であり現に成功してる。
何事もやり方であり適材適所なのである。
てか広大かつ人口希薄なところではこれは不向き。
てかそれゆえ発電機を持つ電車の計画もあるとか。
これなら砂漠でも新幹線が走れそう。
それにもうひとつ問題が、
それは家庭で使う電気のこと、
これは消費に見合う発電量を常に準備する必要が。
それが崩れれば停電ということにも。
あまれば捨てれば良いだけだろうが。
要するに発電を柔軟にせよとのこと。
蓄電はその隙間を埋めるだけ。
まあそういうことです。
・・・・・
世界は「ものごと」でなる。
物事は流れるもの、
それを目の前にし、
ゆえその元を想い今を見て先を想う。
しかしてそれをイしてシキすれば分別がつく。
人はその分別を持った。
その大きな始まりの一つが「もの」と「こと」を分けること。
そしてときに「とき」をもシる。
それがさらに現実を次々とシキしていく。
ここに人間世界がなる。
究極に置いては同じと雖も、
物と事とは別物と分別する。
そんなことで「もの」と「こと」は分別しましょう。
電気自動車はやはりそこが疑問。
てかこれは物だから分かり易い。
てかその前の大元のプロパガンダこれはいけない。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素、
さらに最近は多様性とカ持続性とか、
ここには嘘と狂気がてんこ盛り。
分別もクソもない。
嗚呼!

在る

2025-05-26 08:38:45 | 日記・エッセイ・コラム
神が最初に言われた言葉、
それは「光あれ」である。
これはその創世記による。
そしてその出エジプト記、
そこではモーセに問われ、
アイ・アム、と言われた。
御名をば「私は在る」と。
在るとはまさにこのこと。
すなわち神のことである。
これを思うのです。
・・・・・
これをいつも思うのです。
この在るは在るものすべてであり、
この在るは勿論すべての「じげん」に及ぶ。
それは時限でもあり次元でもある。
それを私は「いつでもどこでも」と言い、
いつでもどこでも、その「かたわら」に、である。
その在りようは自尊・自立・自然である。
自尊とは自由と同じようなもので、
己の由を良しとするもの。
自立には誤解や曲解が入りやすい。
この世界は繋がっている。
すべてが繋がっているのです。
ゆえに自立とは個の問題ではない。
個はすべての個との関係性の中にある。
それあっての個の自立であり、
イをシキする者ならそれ知ってこそである。
思うにゆえ「空気を読む」とは必要且必然。
これなくしては立てない。
赤ちゃんは特にこれに敏感である。
それは在るの核心(命)に関わる、
それこそ全身全霊の技なのである。
それにこれは学びの原点でもある。
ゆえ脳を中心に大いに熱を発する。
これが言葉を捉えるのだ。
てか大人になっても有るもの。
てか言葉によって撹乱されるのか、
これに否定的な人もいる。
おおかた自立しない人の言いぐさ。
てか話が逸れた、ような逸れてないような。
自然はこれは言うまでもない、
これは「じねん」と読み、自ずから然りのことです。
先のことを踏まえ、在るがままに在る、
それが「じねん」である。
それを「しぜん」と読むことが多いのだが、
これは自尊・自立・自然のことで、
それをまとめて「しぜん」という。
と思っておこう。
・・・・・
ところで上は「こと」の話し。
在るとは「ものごと」のこと。
これは本来は一体ですが、
要素としては「もの」と「こと」に分けられる。
ここではその「もの」のこと。
点は存在しない、線も存在しない、
面はそこは微妙、これらは皆概念、
でも面の場合は面積が現れる。
これが表わすを三角形という。
1でなく2でもなく3である。
そしてこれが「もの」の始まりになる。
それが三角錐(四面体)という立方体である。
さらに四角錐(六面体)から多角錐へと続く。
その究極が円環(球)となる。
ここで想う、
神が最初に言われた言葉「光あれ」を。
物は光がなければ現れないそこに在っても。
光が物を見せるのである。
それはその「いろ」を見せるのである。
それが形を見せ質をも想起させる。
でもそれは光そのものでない。
それはものに反射した光。
そこに仕掛けがある。
と言うことだが、
なにを言いたいのかと言えば、
物在るはそれは3からであり、
我田引水ではあるが、
これがキリスト教の三位一体の故かと、
これが古事記の原初神が三神の故かと。
しても3と謂うのは、
そも安定的な在り方の初めであり、
物とはすべてその変形体であると、
そう思うのです。
しても以前にも言ったが、
1と2と3、この三つの数字が数の始まりかと、
単数と複数(の初め)と他数(多数)を以って、
とか勝手ながらに思っている。
・・・・・
人が物を捉えるは先ずは目である。
では目が見えなければどうするか。
これが私には分からない。
てかこれはもう全身全霊でとしか。
否それはそも初めからそうだろう。
ただ目からの情報が特にイを持つだけ。
何しろこれが神の第一声にあったのだ。
思えば光も電磁波の一種だと。
でも光はなお特別である。
それはヒトにとっても他の動物にとっても
それは植物など他の生き物にとっても。
てか見えているのものが真なのか。
そう見えているだけで実は?、
と思う必要はないだろう。
そもその體は目は神(の事の場)によって創られた。
そのように見えるように。
ゆえ疑う必要はない、
ゆえ在るは在るがままに、
でアる。

劣化退化

2025-05-19 10:30:01 | 日記・エッセイ・コラム
私はずっと言葉に拘ってきた。
最近は特にそうです。
それは人間の問題のほとんどがそこにあるから。
すでに言った歴史伝統文化はまさにそれ。
それに人の心は勿論それに縛られている。
人間的な行動のほぼすべてがそうである。
ゆえ問題は言葉なのです。
言葉は心魂がイをシキして出来るもの。
それは最初は感動や驚きとして現れるもの。
つまり體の振るえが最初にある。
その振るえに目印をつけたもの。
それをレッテルとも言っている。
てかそれがイをシキするのです。
ゆえ言葉は意識でもある。
・・・・・
ちなみにこれは余談だが、
今次の言葉の問題はときの初めにはない。
ときの初めは、
神の事の場の事象、これが人の言葉になるということ。
ここには基本的には問題がない、てか起こらない。
問題はここから、
この意識である言葉、これが新たな言葉を創るのです。
言葉が言葉を創るのです。
意識が意識を呼ぶのです。
これ自体は問題ではない。
問題はそれを知ろうとしないこと。
てかそのことに無頓着であること。
てかそれがその区別を曖昧にする。
これが人の言葉を神の事の場から遊離させてしまう。
それが問題なのです。
これが今次の嘘と狂気に満ちた世界を創る。
これを以って人類の劣化退化と言うのです。
ここから今日の本題。
その要因は目である。
これは象徴的に言えばである。
人の目は二つある、と言っても実はひとつ。
焦点を宛てれば一つ。
視点は一つなのです。
最初に言葉を持つときは、
體(全身全霊)が現実に感応してそれを脳にきざむ。
己の全細胞が感応してである。
てか細胞の一つひとつが目になる。
これは無数の目でもって無数の実を見るが如し。
それが現実であり、現実を知るということ。
ちなみにこれも余談だが、
無というのは「無い」ということではない。
無意識とは意識が無いことではなく、
無意識と謂う意識が有るということ、
無数とは数が無いことではなく、
それは数えられないほどに有るということ。
この世界には「無い」ものは「無い」のである。
無とは言葉が言葉を創るということの一つの例。
てかこのことには何の問題もない。
であるが…、
・・・・・
世にピラミッド・アイというのがある。
三角形(ピラミッド)の中に目がある、アレである。
プロビデンスの目と言われるもの、
これは米ドル紙幣に描かれており、
万物を見通す神の目であるらしい。
私はこれは一神教のシンボルのような気がしている。
当らずしも遠からずか。
私はヒトは皆神に出会っていると言う。
それは言葉を持つその初めにはである。
それは人類が最初に言葉を持ったとき。
それは誕生後に最初に言葉を持つとき。
種としても個人としても経験している。
でもそれがどういうことかは、サッパリ分からない。
ときに言葉は誕生時には體にもDNAにも痕跡なし。
どうも後天的に得るものらしい。
その得るときに必ず神に出会う。
まあ勝手にそう思っている。
てか現実という神の事の場を漠とシキしてイを想う。
これを以って神に出会うと謂う。
とか思っているが、
そう思っている私には一神教が理解できない。
なぜ「ひとつ」なのか。
それもその「ひとつ」がヒトの外にあるのだ。
これが理解不能なのだ。
私には神(の事の場)はすべてであり、
私もまたその神の事の場のものである。
こんなの当り前だろうに。
であるならば、
彼らの言う神は現実ではなく、
彼らが創ったものなのである。
でも「ひとつ」が「全にして一/一にして全」なら、
それはまだ理解できる。
それはまさに言葉の綾。
しても一神教の神は現実の神ではない。
てか神の事の場に在る現実の神でなく、
人の事の場の中につくった架空の存在。
ゆえ自家中毒を起こす。
・・・・・
ということで一神教はどうも。
でもキリスト教は微妙である。
厳密には一神教でないのかも。
彼らは一神教と言っているが、
その実は三位一体であるから。
以前言ったと思うが、一と二は同類であり、
それは対をなすもの、複数とは三からだと、
そういうことを言ったと。
てか複数ではなくそれは「たすう」なのか、
それを多数とか他数と記すのかも。
日本の神話も似ているところあり。
始まりは三神である、三位一体ではないが、
二神の場合は夫婦神、そこはそういうこと。
てか一神教の欧米は、てか中東なども含め、
てかあれば二神教の世界も含めてもいいが、
彼の人らは、
現実(神の事の場)は横において、
己が創った人の事の場の中だけで、
己の言葉を捏ねくり回して大騒ぎ、
もって処置なし。
知っての通り無神論は一神教が生んだもの、
無神論とは神は「無い」ではなく、
実はそんな神がいるということか。
まあ同類である。
しても中毒は嘘と狂気を呼び、
もって劣化し退化するばかり。
てか現下の日本も又その様で。
春なのにまことにお寒い限り。
嗚呼!