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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

イをもって生きる2

2025-04-07 09:14:19 | 日記・エッセイ・コラム
イをもって生きるのが人間。
てかずっと同じことを言っている、手を変え品を変え。
ですがそれは言葉一つひとつのことではない。
言葉が持つ本質性格意義についてである。
聖書はそれを創世記のなかで物語る。
人の言葉の大本である真の言葉、
それを人は禁忌を犯し入手、
でもそれは真似ただけ、
その実にも限界が、
ということを。
てか神の事の場の中に人の事の場を作ったのです。
ゆえ神の事の場に人の言葉が徘徊するようになる。
これを物語の中で厳しく諫めた。
してもそれが行き過ぎた。
楽園の追放である。
てか人の事の場が神の事の場から切り離されたのです。
これが現今の世界の有様の因である。
でも少なくとも日本はそうではない。
これはなんども言ってるが、
日本はいまだ楽園にいると。
ここに不可思議が、
聖書の民である日本人だが、
その日本人なのにです。
てかこれは聖書の後発の民が離れただけのことか。
ならば彼らがこれに気づくまで事態は治まらない。
イエスはそれを語っている。
そしてヨハネも又。
・・・・・
てか上記はこれまでの繰り返し。
そのことの問題は横においても、
今言葉は乱れに乱れている。
事のイを以ってそのイを連ねてアヤを語らず、
もっぱらにプロパガンダを繰り返すのみ、
もはや一つひとつの言葉にイはなく、
アヤはもとよりコトワリもなし。
であるが、
最近ネットでイを持っている言葉を、
コトワリを持っている語りを聞いた。
もと安芸高田市長の石丸さんである。
面白いから一二度聞いたら最近はどんどん上がって来る。
そういうことだから少し嵌っている。
大方の記者会見は大抵意味不明。
焦点を捉えた説明は少なくのらりくらり、
知ってか知らずか知ってて惚けてるのか、
それが言語過多で意味不明という結果に、
てか話せば話すだけ疑念が広がるばかり、
これでは問題が大きくなるだけ。
かかる会見がほとんど。
要は誠意正直率直がすべて、
その上で覚悟してもの言えばいいものを、
てか一番悪いのは嘘で、
誤魔化しもその類です。
嘘は一度吐けば止まらない、
壊れ尽すまで止まりません。
言葉を持った人間のどうしようもない性。
てか記者の質問も上にかわらず。
てかてかさらに酷い有り様。
当を射た質問はどこへやら、
何を知りたいのか意味不明、
てか誘導尋問的な質問をし、
言質を取るのが目的なのか、
意味なき追及をしたいのか、
そこに中立性は微塵もなし。
と言うことだが、
話は少しかわり、
これは記者会見ではなくネットでの番組だが、
朝8時!という番組がある。
ここに出て来る人の話には、
事のイもそれを連ねてのアヤも、
そしてそこにスジとコトワリがある。
てか話の内容には意見の相違も勿論ある。
でもその構えにはすこぶる好感を持っている
要するに構えなのです。
人の言葉は所詮は虚構、
それを実とするか虚とするかは構え次第。
構えを失えば文字通り嘘となる。
先の石丸さんも構えが素晴しい。
てかこれは私の率直な感想、
勿論そう思える人は他にも数多おられる、
まあそこはそうですが。
・・・・・
ところで、
私が思っていること「イをもって生きる」とは、
イの味を識してその理を生きる、である。
これは人間というものの生き方そのもの。
それを標題にしている。
そしてそれを問うのである。
それには言葉を知らねば、いろんな意味で知らねば。
イに囚われている今の人間、
このイとはヒトのイのこと、
このことを厳に観念すれば、
ときにそこから離れられる。
それは大本のイに帰ること。
帰るにはその道を知らねば。
理はスジやコトワリとある。
スジとはこれ正に道のこと、
コトワリとは自ずから然りのこと、
これを合わせれば自然(じねん)の道である。
この道を行くのがすなわち「イの理」である。
てかこれって何なんだ。
まあそういうことです。
うん!

イをもって生きる

2025-03-31 09:30:47 | 日記・エッセイ・コラム
イとは「あえいおう」の「い」であり、
それは「意味」ということ、
突き詰めれば概念ということだろうが、
つまりこの意味の意であり、
それがここで言うイである。
イは「あえいおう」の真ん中にあり、
以前に言ったこじ付けだが、   
あっと驚き、えっで惑い、いみで納め、おうと答え、うっで構え、る、
ここにことの始末が終わる。
イとはつまりは言葉である。
在るものを在るとして生きてきた生物、
それが在るものにイを付けてしまった。
ゆえにそれがまんまに見えなくなった。
それが人間である。
まんまに見えないとは如何。
てかこの世界はすべてが繋がっている。
それを敢えて分けるからである。
そもイは分けなければ見えない。
ゆえまんまに見えないのは当然。
しかもイは一旦もったら手放せません。
そう謂うものです。
だから良くも悪くも注意がいるのです。
てかこのこと私は繰り返し言っている。
バカの一つ覚えである。
これは今後も変らない。
ハイ!
・・・・・
言葉は音でありそれもヒトが出せる音、
それを声という。
その音には母音と子音とがある。
しても持続して出せるのは母音である。
子音は一瞬の音でありこれも声ではあろう。
でも母音とともにあってこそで、
子音だけならそれはただのオト、
音と言うより音にならないオト。
でもその母音に綾を付けたり強調するには欠かせない。
ゆえになべて声と言うはしかり。
しても声の初めは母音であろう。
そうとしか思えません。
それにしても私は日本語以外にはそれを知らない、
母音を中心とした音図を持っている言語を、
これほどに母音をば多用する言語を。
現今の世界の中でのことだが。
てか昔のことはさらに。
これは余談だが、
母音を多用するからか音が柔らかい、
ゆえにか聞いていて心地よいと言う外国人が多い。
特にそれは歌に顕著であるかと。
しても勿論それは歌だけでなく、
和歌俳句などの詩歌もまた同じ、
てかそれに物の語りもまた同じ。
思うにイを持つのが言葉ですが、
イが定かで無いときにその声に先ず生まれるのが語感、
それがやがて言葉になるのだろうが、
ときの音が所謂オノマトペであろう。
和語にはこのオノマトペが多い。
それにこれは自在に作ることも。
てかこの言葉以前の言葉を多用するのです。
これも日本語の特徴である。
余談はさておいて、
てか余談でもないのですが、
次に進む。
・・・・・
冒頭の「あえいおう」のこと。
あっと驚き、えっで惑い、いみで納め、おうと答え、うっで構え、る。
一音一意の日本語ですから、
字義の通り一音々に意味があるのだが、
そのことに私は詳しくない。
てか基本的には知りません。
すべて勝手なこじ付けです。
でも上のこじ付けは言葉を得て生きる人間をまんまに表わしている、
と思っている。
これを二字熟語で示せば以下の通り、
あっは感嘆、えっは疑問、いみは納得、おうは応答、うっは結構、とでも。
その音は概してオノマトペ的である。
「おう」とは掛け声であり電話では「もしもし」である。
「うっ」とは動くのウ、生まれるのウである。
てかこれを結構とするが、これがピッタリなのです。
これは構えを結ぶであり、そこに否定・肯定がなく、状態を表わしているだけ。
ここで一応の始末を付けるのである。
言葉に関わるのは真ん中の「いみ」でこれを私はイで著わしている。
「み」を付け足しているが、
これは「っ」でもいいが、味の方が良さげだから。
表記をカタカナにしてるのは区別し易いのが一つ、
もう一つはそれが漢字の音読みだからです。
てかこれは音読みだが実は和語そのそのものだと思っている。
このイの前にヒトは神に出会う。
ときにヒトは言葉を手に入れる、
そして以降はイを持って生きる。
てかこれを今回標題にしている。
ということですが、
イの味はともかく問題は識です。
イをもってとはこの識をも持つ。
てか「もって」がそれを示している。
他の生き物もイを生きるのだが、
まんまでそれを識しないのです。
彼らはそれでも意思疎通ができるが、
人間はそれが難しくなってしまった。
シキが突出してかイを曲げてしまう。
おそろしいことに。
・・・・・
人間はイをもって生きる。
イには味がある。
イには識がある。
識は人に力を与える。
識は同時に人を縛る。
それもとことん縛る。
ゆえにときに解放せねば。
為には知らねばならない。
イの根っこにある理をば。
理とは何か、この常用の訓読みを調べてみる。
辞書には「すじ」とか「ことわり」とかある。
まあそんなとこかな。
ならば。
イの識から解き放つためには、
イの理を知らねばと。
ここでやっとこじ付けが完了する。
そうですそれはイの理を知ることである。
すべては「イの理」である。
それを普通「祈り」と謂う。
チャンチャン、
てか我田引水完了。

名は体を表わす

2025-03-24 11:32:07 | 日記・エッセイ・コラム
私はちょっと前から言っている。
それがいつ頃かは定かではない。
元々そう思っていたのだろうか。
よく分からない。
それは何かとは、物事の本体は事ということ。
戦後は共産主義という左巻きが席巻していた。
世界は今も尚その残滓に悩まされている。
私もその波の洗礼は受けた。
しても染まりはしなかった。
てか日本も世界もその仕切りが未だできていない。
物事の仕切りのことである。
物事は本来一体であるとはいつも言っている。
でも人の言葉の常、それを分けるのです。
それはいいとして、そこで物が突出する。
そういう思想に振り回されてる。
ハリーのポッターが出て来たりして、
風が変わってはきたが。
・・・・・
ここにきて日本は凄いと思うのです。
自画自賛優越意識で言うのではない。
もはや確信的に言うのです。
既に言ったが、
日本では「ものごと」と謂うが、
てか「こともの」とは謂わない、
事は物ではないが物は事なのである。
これがすべて、
すべては「こと」なのです。
日本語はそこにその柱を置いている
何しろ「言霊の幸はふ国」ですから。
そういう言辞で満ち満ちている。
その一つが標題の言葉、
名は体を表わすである。
これはもうズバリです。
辞書を引けば、
名はそのものの実体を表わしている、
名と実は相応ずる、
と謂うことらしい。
その通りであるが、
名とは「こと」実とは「もの」、である。
名を付けて初めてそこに現れる、それが実である。
ならそれが相応ずるのは又当然。
そうでしょうとも、
そも物事は一体なのだから、
まさにまさにです。
てかそこには少し私の味付けが、
表わすを現わすとします。
てかいいでしょう。
これが又聖書の物語りそのもの。
言わずもがなそれは創世記の冒頭。
はじめに神は天と地とを創造された、
…、
神は「光あれ」と言われた、
すると光があった。
…、
以降神の言葉が次々と現実になっていく。
これは、名は体を現わす、そのものです。
てかここに出てくる「ことば」とは、
これは漢字では言葉ですが、
それを私は、
「事場」「事端」「事葉」「言端」「言葉」、
はたまた「真端」「実端」としてもまたよし、
としている。
そこはじつに適当である。
でもこの中では「事場」はちょっと違う。
てか明らかにイが違っている。
これが和語の「ことば」なら、
これはまったくの同じものに。
ここにも又、
何ともはや得も言われぬ趣きがある、
おもしろい。
・・・・・
名は体を表わすはまさに聖書の言である。
てかこの聖書は世界のベストセラーとなっている。
ユダヤキリストイスラムの経典だから尤もなこと。
てか根っこはユダヤであろう。
してもユダヤとは何か、
これがよく分からない。
始祖は分かっている、アブラハムという人である。
でもである、彼は所謂ユダヤ人ではない。
彼はシュメール(の地)にいた人である。
その彼を始祖とする人たちを言ってるのだろうが、
それも実はあやふやで本当のところは分からない。
私に言わせれば聖書はユダヤのものではない、
聖書は聖書だ、
聖書を残した人たちのものだ。
てかそれを良しとする人たちのものだ。
でもそこに記されているのは、
多くはユダヤ人と謂われる人たちの物語です。
まあそういうものである。
ところで、
日本人は聖書の者であると前から言っている。
それはその冒頭のほんの少しのところ、
楽園追放から先はまた別の話し。
思えばそのほんの少しのところが実はすべてかも。
てか冒頭だけでそこから日本人は離れた。
てか日本人ではなくむしろ彼らが離れた。
それが聖書である。
その聖書は言っている。
彼らは神の事の場から追放されたと。
あの有名な楽園追放の物語りである。
故にか彼らは人の事の場に固執する。
それが信仰を搔き乱すことも知らず。
だからだろうイエスが登場。
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
だからヨハネは言った。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
してもイエスはキリスト教の者ではない。
ときにキリスト教という宗教はなかった。
彼は専ら神への信仰に生きた人であった。
そしてみずから神にもなった。
してもヨハネも同じ、
彼も神への信仰に生きた人それもイエスを仰いで。
そういうことだと思っている。
キリスト教徒でもない私ごと、
まあいいでしょう。
・・・・・
てか何度でも言うが、
物あっても事なければ物現れることなし。
天体運行に自然現象それに分子原子素粒子の動き、
そこに事(流れ)の無いものはない。
それを捉えてこそ物の有様が分かる。
ここに明白である、
唯物論が如何に偏った思想かが。
事は捉えどころがないから先ず物を考えよう、
との思いは分からないでもない。
でもこれが矛盾なのです。
事なくして物は見えないのです。
てか逆はあるかも。
物なくとも事が現われることが。
あるとすればそれは言葉である。
まさに正にである。
てか現下の世界の混迷の原因は、
すべてこの言葉に起因している。
それを知ろう。
それを知って、
それを心に刻めば、
世界は少しは治まるかも、
…、

席巻する、物語り

2025-03-17 08:24:58 | 日記・エッセイ・コラム
これは日本の漫画、アニメのことである。
これが世界を席巻している、
とは言い過ぎであろうとは…思うが、
てか実際に世界で見られてるようだ。
私はその現場を見たわけではないが、
ネットを見ていればそう思うのです。
てか多分そうでしょう。
現に私も嵌っています。
それは実写の映画にも現われている。
てかその根っこにあるのは文化です。
それは言葉でありそれは物語となる、
その物語りである。
日本には物語があるのです。
その物語を創る力があるのです。
てかそれが基であるが、
その物語を漫画やアニメ等にする術も必要である、
可愛く或いは力強くはたまた心の機微を描くなど。
それらがあっての現下の様相である。
葬送のフリーレンがダンダダンてか、
?、
・・・・・
海外でも真似て作られているようだ。
てかこれは不思議でもなく至極当然。
そんな中で最近世界的にヒットした作品があるらしい。
これはフランスで作られたようです。
ですが日本ではまったく響かずだと。
不思議がられてもおり、
さすが?は日本だとも。
これはどういうことか。
その理由を私は既にそれとはなく言っている。
術としての作画や構成は真似られる。
してもその底には真似ることが難しいものが。
それが何かを知るのが大事、
それを知れば少しく迫れる。
ときに大いに物語りできる。
それは人の言葉の向こうに。
その言葉の向こうにあると。
人の言葉だけのことならば、
人は人のことを真似られる。
それはそんなに難しくない。
でもその向こうのことです。
それは見えない物を想う心。
その心を持てない限り無理。
それが何かは言わずもがな。
神の事の場を想う心である。
神はいつでもどこでも在る。
この当り前を想う心である。
神の事の場は人の事の場で置き換えられない。
人の事の場は神の事の場の極内々でしかない。
これは真似るだけです。
ほんの少し真似るだけ。
そのものにはなれない。
言わずもがな。
日本人はそれを知っている。
彼彼女らも知っているかもしれない。
宗教として知っているかもしれない。
でもなぜか言葉に捉われる。
でもなぜか教義に捉われる。
その言葉をまんまに信じて動かない。
その教義をまんまに信じて動かない。
てか動くときはそれを捨ててしまう。
そして事を捨てて物だけを追求する。
ときに芯が消え混沌を彷徨うばかり。
それゆえ我への執着だけが表に出る。
そんな人々が今世界にあふれている。
でも彼彼女らは知っている筈だ、
その體は誰が創ったのかは。
それは私ではない父でも母でもない。
それはすべて神の事の場がなせる技。
なのになぜそれを想わない。
大古の人らはそれを想っていた。
その心が物語りを創る。
大いなる物語りを創る。
・・・・・
日本人はそれを知っている。
その歴史伝統文化において。
それはなによりその言語に。
それを知ろう。
言葉と謂えば禅問答と言うのがある。
これは問いに答える掛け合いである。
でも所謂議論とは一寸違う。
それは言葉尻を追うのではなく、
その本質を見極めそれに答えるもの。
言葉一つひとつのイを理解したうえで尚、
そのイに拘らずその問いの意をくむのである。
そしてそれに答えるのです。
どこか大喜利の掛け合いに似ている。
これは問答という話し言葉、
つぎに文章という書き言葉、
ここにも似たようなことが、
文章は書かれてることがすべてではない、
その行間を読めと。
まあ同じでしょう。
それにこれもまた似ているかも、
それは習字というもの。
習字は字義の通りのものだがすぐれて美を求める。
筆先の微妙な動きで表現するのだが、
同時にここには余白の美というのがある。
描かれているものがすべてではないのだ。
てか描かれているものが現れるのは、
この余白(事場)があってこそ。
これを想う心がそれを描かせる。
己れの言葉だけでは表わせない世界、
その世界、言外の言、を想うこころ。
言葉なき存在がそうしているように。
だから日本人は彼らとも話をするのです。
それが木や石でも。
それが道具であっても。
ゆえここでは物語りは尽きない。
尽きることがない。
てかハリウッドの惨状、
ポリコレに縛れて身動き取れぬ有様、
最早如何ともしがたい、
今や瀕死の状態…、
嗚呼!

変わらぬ思い

2025-03-10 08:50:08 | 日記・エッセイ・コラム
これはこのところずっと変らない。
今の世界の「癌」はすべて言葉から来ている。
心魂が現実に感応して発したオト、それが言葉となる。
それは意思疎通の道具ともなるが、
そもその初めは先ずは自分に帰る。
それが何度も何度も繰り返される。
そして終に念として脳に定着する。
それが言葉であるとは既に言った。
やがてそれが広く皆に共有される。
そして言語となる。
てかその初めには想いの繰り返しがあり、
それが人の脳内に憑りつくのである。
ゆえ憑りつかれてるとはしかり、
言葉とは本来そういうもの。
これは癌にも似ている。
それも含めて私で、
それが私です。
・・・・・
このことを繰り返し言っている。
それも性懲りもなくである。
これからも言い続けていく、
ともかくもそれを知ろうと。
それはそれとして、
言葉は文となりまた新たな世界を開く。
語彙を越えてさらに大きな世界を開くのです。
それが物語である。
物語は終わらない。
ネバーエンディングストーリーである。
神の事の場が永遠であるように、
人の事の場もネバーエンディングストーリーなのだ、
神話に始まり歴史・伝統・文化となり。
文化とは言い得て妙、文が化けるのである。
それはヒトの生き方の総体を表わしており、
言葉と生きていく人間のその有様のすべて、
それをひと言で文化という。
それは歴史と伝統により築かれるもの、
そしてそれは未来を照らす灯りとなる、
しかしてそれを文明という。
しても日本語は良く出来ている。
敢えて文にせずとも言葉一つひとつに現われている。
そこに漢字も大きな役割を担っている。
漢字の起源は知らない、
でも漢字は今や日本の文字であるとハッキリ言える。
日本語は音に意(イ)あり字に意(イ)ありのスーパー言語。
てか自画自賛は横に置いてここで厄介をひとつ。
それは神話に続くものでそれを宗教と言う。
これが厄介の初めです。
宗教とはその字義から見ればその質はあきらか。
宗の教とは教の宗でもある。
特定の言葉(教義)を宗(胸)にするのである。
それもときに徹底的に。
事の場の物語は終わらないのに、
その物語を終わらせようとする。
さすれば教義が尚一層心魂に憑りつく。
しても言葉は心魂の振るえがイになったもの。
もともと憑りついているのです。
でも振るえがある限りは大丈夫。
てか振るえをなぜか止めたがる。
止めたら行き場がなくなるのに。
宗教にはその悪癖があるのです。
ときに宗教はヒトを破滅に導く。
それが問題なのである。
だから私は宗教を嫌う。
ちなみに心魂の振るえが意(イ)を呼ぶのは、
それは神の事の場を捉えようとするからです。
ときにそこで神と出会うのです。
その振るえを敢えてイで著わせばそれは「信仰」とでも。
これは宗教以前にあるもので物語の初めにある。
それをより嚙み砕いて言えば「仰ぎ祈り願う」であろう。
てかこれ皆手前勝手な言葉遊びにて候、
ダンダダンのチンチチン!(浄化音)
・・・・・
言葉は物語になる。
物語となって力を発揮する。
物語とは「もの」ではない。
物語は「かたり」であり、それは言葉であり、「こと」なのです。
これは「ものごと」に似ている。
たしかに物事と物語は似ている。
その字義・字様・字順ともども。
物事は「もの」と「こと」だが、
事の物ではなく物の事と表わす。
日本語は後の方に重きを置くが、
ならこれはすぐれて事であると。
であるが物語はまったき「こと」である。
すぐれて、ではなく、まったき、である。
そこは違うのです。
ところでまた想う、
聖書では神の第一声は「光あれ」である。
ここにも意味があろうかと。
言葉は神の振るえ(それは波動)である。
光はまさに振るえ(それは波動)である。
そしてその光はすべての物事の基となる。
それを想うのです。
先ず事の場があり、次に事の波がある。
それは事端となり、それは言葉となる。
そこに物語があり、そこは物事の世界。
それにしても、
日本語は良く出来ている、
おもしろくもおもしろい、
うん!