イをもって生きるのが人間。
てかずっと同じことを言っている、手を変え品を変え。
ですがそれは言葉一つひとつのことではない。
言葉が持つ本質性格意義についてである。
聖書はそれを創世記のなかで物語る。
人の言葉の大本である真の言葉、
それを人は禁忌を犯し入手、
でもそれは真似ただけ、
その実にも限界が、
ということを。
てか神の事の場の中に人の事の場を作ったのです。
ゆえ神の事の場に人の言葉が徘徊するようになる。
これを物語の中で厳しく諫めた。
してもそれが行き過ぎた。
楽園の追放である。
てか人の事の場が神の事の場から切り離されたのです。
これが現今の世界の有様の因である。
でも少なくとも日本はそうではない。
これはなんども言ってるが、
日本はいまだ楽園にいると。
ここに不可思議が、
聖書の民である日本人だが、
その日本人なのにです。
てかこれは聖書の後発の民が離れただけのことか。
ならば彼らがこれに気づくまで事態は治まらない。
イエスはそれを語っている。
そしてヨハネも又。
・・・・・
てか上記はこれまでの繰り返し。
そのことの問題は横においても、
今言葉は乱れに乱れている。
事のイを以ってそのイを連ねてアヤを語らず、
もっぱらにプロパガンダを繰り返すのみ、
もはや一つひとつの言葉にイはなく、
アヤはもとよりコトワリもなし。
であるが、
最近ネットでイを持っている言葉を、
コトワリを持っている語りを聞いた。
もと安芸高田市長の石丸さんである。
面白いから一二度聞いたら最近はどんどん上がって来る。
そういうことだから少し嵌っている。
大方の記者会見は大抵意味不明。
焦点を捉えた説明は少なくのらりくらり、
知ってか知らずか知ってて惚けてるのか、
それが言語過多で意味不明という結果に、
てか話せば話すだけ疑念が広がるばかり、
これでは問題が大きくなるだけ。
かかる会見がほとんど。
要は誠意正直率直がすべて、
その上で覚悟してもの言えばいいものを、
てか一番悪いのは嘘で、
誤魔化しもその類です。
嘘は一度吐けば止まらない、
壊れ尽すまで止まりません。
言葉を持った人間のどうしようもない性。
てか記者の質問も上にかわらず。
てかてかさらに酷い有り様。
当を射た質問はどこへやら、
何を知りたいのか意味不明、
てか誘導尋問的な質問をし、
言質を取るのが目的なのか、
意味なき追及をしたいのか、
そこに中立性は微塵もなし。
と言うことだが、
話は少しかわり、
これは記者会見ではなくネットでの番組だが、
朝8時!という番組がある。
ここに出て来る人の話には、
事のイもそれを連ねてのアヤも、
そしてそこにスジとコトワリがある。
てか話の内容には意見の相違も勿論ある。
でもその構えにはすこぶる好感を持っている
要するに構えなのです。
人の言葉は所詮は虚構、
それを実とするか虚とするかは構え次第。
構えを失えば文字通り嘘となる。
先の石丸さんも構えが素晴しい。
てかこれは私の率直な感想、
勿論そう思える人は他にも数多おられる、
まあそこはそうですが。
・・・・・
ところで、
私が思っていること「イをもって生きる」とは、
イの味を識してその理を生きる、である。
これは人間というものの生き方そのもの。
それを標題にしている。
そしてそれを問うのである。
それには言葉を知らねば、いろんな意味で知らねば。
イに囚われている今の人間、
このイとはヒトのイのこと、
このことを厳に観念すれば、
ときにそこから離れられる。
それは大本のイに帰ること。
帰るにはその道を知らねば。
理はスジやコトワリとある。
スジとはこれ正に道のこと、
コトワリとは自ずから然りのこと、
これを合わせれば自然(じねん)の道である。
この道を行くのがすなわち「イの理」である。
てかこれって何なんだ。
まあそういうことです。
うん!
てかずっと同じことを言っている、手を変え品を変え。
ですがそれは言葉一つひとつのことではない。
言葉が持つ本質性格意義についてである。
聖書はそれを創世記のなかで物語る。
人の言葉の大本である真の言葉、
それを人は禁忌を犯し入手、
でもそれは真似ただけ、
その実にも限界が、
ということを。
てか神の事の場の中に人の事の場を作ったのです。
ゆえ神の事の場に人の言葉が徘徊するようになる。
これを物語の中で厳しく諫めた。
してもそれが行き過ぎた。
楽園の追放である。
てか人の事の場が神の事の場から切り離されたのです。
これが現今の世界の有様の因である。
でも少なくとも日本はそうではない。
これはなんども言ってるが、
日本はいまだ楽園にいると。
ここに不可思議が、
聖書の民である日本人だが、
その日本人なのにです。
てかこれは聖書の後発の民が離れただけのことか。
ならば彼らがこれに気づくまで事態は治まらない。
イエスはそれを語っている。
そしてヨハネも又。
・・・・・
てか上記はこれまでの繰り返し。
そのことの問題は横においても、
今言葉は乱れに乱れている。
事のイを以ってそのイを連ねてアヤを語らず、
もっぱらにプロパガンダを繰り返すのみ、
もはや一つひとつの言葉にイはなく、
アヤはもとよりコトワリもなし。
であるが、
最近ネットでイを持っている言葉を、
コトワリを持っている語りを聞いた。
もと安芸高田市長の石丸さんである。
面白いから一二度聞いたら最近はどんどん上がって来る。
そういうことだから少し嵌っている。
大方の記者会見は大抵意味不明。
焦点を捉えた説明は少なくのらりくらり、
知ってか知らずか知ってて惚けてるのか、
それが言語過多で意味不明という結果に、
てか話せば話すだけ疑念が広がるばかり、
これでは問題が大きくなるだけ。
かかる会見がほとんど。
要は誠意正直率直がすべて、
その上で覚悟してもの言えばいいものを、
てか一番悪いのは嘘で、
誤魔化しもその類です。
嘘は一度吐けば止まらない、
壊れ尽すまで止まりません。
言葉を持った人間のどうしようもない性。
てか記者の質問も上にかわらず。
てかてかさらに酷い有り様。
当を射た質問はどこへやら、
何を知りたいのか意味不明、
てか誘導尋問的な質問をし、
言質を取るのが目的なのか、
意味なき追及をしたいのか、
そこに中立性は微塵もなし。
と言うことだが、
話は少しかわり、
これは記者会見ではなくネットでの番組だが、
朝8時!という番組がある。
ここに出て来る人の話には、
事のイもそれを連ねてのアヤも、
そしてそこにスジとコトワリがある。
てか話の内容には意見の相違も勿論ある。
でもその構えにはすこぶる好感を持っている
要するに構えなのです。
人の言葉は所詮は虚構、
それを実とするか虚とするかは構え次第。
構えを失えば文字通り嘘となる。
先の石丸さんも構えが素晴しい。
てかこれは私の率直な感想、
勿論そう思える人は他にも数多おられる、
まあそこはそうですが。
・・・・・
ところで、
私が思っていること「イをもって生きる」とは、
イの味を識してその理を生きる、である。
これは人間というものの生き方そのもの。
それを標題にしている。
そしてそれを問うのである。
それには言葉を知らねば、いろんな意味で知らねば。
イに囚われている今の人間、
このイとはヒトのイのこと、
このことを厳に観念すれば、
ときにそこから離れられる。
それは大本のイに帰ること。
帰るにはその道を知らねば。
理はスジやコトワリとある。
スジとはこれ正に道のこと、
コトワリとは自ずから然りのこと、
これを合わせれば自然(じねん)の道である。
この道を行くのがすなわち「イの理」である。
てかこれって何なんだ。
まあそういうことです。
うん!