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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ヒトのイ

2025-04-14 08:57:45 | 日記・エッセイ・コラム
ヒトのイとは人の言葉のことです、
言わずもがな、のことかなかなか。

この世界は一体の物事としてある。
それをひとことで場(ば)という。
一体とはそれすべて繋がっているから。
前後左右上下縦横無尽に繋がっている。
そしてそれは動いている。
それを事と言うがこれは運動振動波動のこと。
しかしてそこにアヤが出来る。
それは誰が為すということもなく、
すべてが自ずから然りの中で。
生物もそうでないものも。
そこは基本的に同じ。
してもそれをそれと感得したのがヒトである。
なぜか感得したのである。
そしてイをもったのです。
ときにヒトが人間になる。

先ずはそこにアヤを見た。
そしてそこに線を引いた。
それは物事をふたつに分ける。
それとそれ以外とに。
そして分けて分けて尚分ける。
イがどんどん増えアヤもまた。
にしてもここが肝腎、
人間は何も創っていない。
そこに線を引いて印を付けただけ。
そしてときにコトワリを見つけた。
しかもそれを再現し利用することにも。
それが科学&技術である。
人間はなにも創ってはいない。
人間はそれを使っているだけ。
これは魔法のようなもの。
タネは神の事の場にある。
それを人の言の葉の技で再現。
人の言の葉とはそういうものです。
それを知ろう。
てかこのこと以前から言っている。
それをなお端的に言っていた。
それはごく短い言い回し、
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、
なんちゃって。
ヒトが創った唯一のものはヒトの言葉だけ。
そして人間になったのである。
なのにこの退行かつ劣化の様、
この辺でそろそろ戻りましょうよ、
あの妖怪人間ベムちゃんも言っていた、
人間になりたい~と。
てかこれもう古い話、
昭和も遠くなったな。
・・・・・
何とも長い前置きではあった。
でも言いたいことは別にある。
てか上でもそれを言ってるが、
それはその根子のことである。
ここではそれを具体的に言う。
物事の本質は「こと」である。
それは流れるもの、
しかしてそれは変化するもの、
そこでおもう、
創造と破壊これは同じものである。
今ある状態を変えること。
それを創造と言ったり破壊と言ったりしている。
神の事の場においては何も変わらない。
人の事の場においては人の思いが入る。
己に都合よければ創造と言い、
でなけりゃ破壊と言うのです。
言換えて豊穣と災厄としてもまあ同じ。
進化と退化これも又同じこと。
その部位を使えばそこが進化する。
でなけりゃそこが退化してしまう。
これは人の思いとは関係ない。
まあ體は體ということか。
それを中立的に言えば変化と謂う。
ヒトの言葉はそういうものである。
本来同じイであってもそれを別のイにする。
これが一番問題になるのが善悪である。
これは状態が同じでも極端に分かれる。
しかもときにそれを絶対化してしまう。
欧米はこれで苦しんでる。
言葉を先鋭化させてそこから抜けられなくなるのだ。
例えばヒットラーのこと。
ただの一人の人間なのにそれを絶対悪にしてしまう、
人間皆同じとその口で言いながら。
その矛盾をまったく顧みない。
これがリベラルの宿痾である。
同じようなことだが、
もうひとつ大きな問題がある。
それは抽象的な言葉。
この多くは現実から生まれたものではない。
人の事の場の創造によるもの。
なのに使うときは一方的に現実にはめ込む。
しかもそれが尚一層恣意的になる。
例えば人権、
こんなものは現実にはありません。
でもそこには意味がある。
それを慎重に使うは良し。
でもそれを自分の都合で無分別に使う。
しかも差別やハラスメント等と絡めて。
これが言葉を疲弊させる。
使うにふさわしいなら良いのだが。
分別をもって使えば言葉は成長するが。
それはまた人の心をも育てる。
その逆は推して知るべし。
とかてかと、
思っている。
・・・・・
話は少しかわって虫の話。
私は虫をよく引き合いに出す。
言葉を持たない生物の代表として。
虫は親父ギャグ的に無私と重なるから。
なかなかに使い勝手が良いのです。
その虫であるが、
彼らはごく狭い範囲で生きている。
でもそもひとつである世界に線を引かないから、
狭い範囲と言ってもそれは世界そのものである。
それを思うのである。
それに行動単位としての私はあっても、
その私はイをもたず恣意的にならない、
虫(無私)の心を持っている。
これに鑑みれば人間がよく分かる。
てか狭い広いを言えば人間世界は広い。
でもこの宇宙を想えばそれも結局大同小異。
やはり狭いとしか言えません。
しかもそこに線を引きまくる。
色んな意味で。
そらを見て星を見て広く生きていた人間は、
線を引いて言葉(イ)を得る。
言葉はイを持ちシキを経てガ(我れ)を育てる。
結果その狭い範囲に囚われる。
とことん捉われる。
しても言葉から離れることはできない。
それを持ってこそ人間だから。
ゆえ思うのである、
だから分別(ぶんべつ)はほどほどに、
これは世界を切りきざむもの、
これは世界を狭める。
だから分別(ふんべつ)を持とう、
これは引いた線をまたぐもの、
そして世界の果てを想うもの、
ときに生物の本懐にもどれる。
私にとっては、
これが信仰であり祈りである。
最近の有様は情けなくも、
イライラすることばかり、
であるのだが、
でも心底に揺るぎはない。
うん!

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