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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

席巻する、物語り

2025-03-17 08:24:58 | 日記・エッセイ・コラム
これは日本の漫画、アニメのことである。
これが世界を席巻している、
とは言い過ぎであろうとは…思うが、
てか実際に世界で見られてるようだ。
私はその現場を見たわけではないが、
ネットを見ていればそう思うのです。
てか多分そうでしょう。
現に私も嵌っています。
それは実写の映画にも現われている。
てかその根っこにあるのは文化です。
それは言葉でありそれは物語となる、
その物語りである。
日本には物語があるのです。
その物語を創る力があるのです。
てかそれが基であるが、
その物語を漫画やアニメ等にする術も必要である、
可愛く或いは力強くはたまた心の機微を描くなど。
それらがあっての現下の様相である。
葬送のフリーレンがダンダダンてか、
?、
・・・・・
海外でも真似て作られているようだ。
てかこれは不思議でもなく至極当然。
そんな中で最近世界的にヒットした作品があるらしい。
これはフランスで作られたようです。
ですが日本ではまったく響かずだと。
不思議がられてもおり、
さすが?は日本だとも。
これはどういうことか。
その理由を私は既にそれとはなく言っている。
術としての作画や構成は真似られる。
してもその底には真似ることが難しいものが。
それが何かを知るのが大事、
それを知れば少しく迫れる。
ときに大いに物語りできる。
それは人の言葉の向こうに。
その言葉の向こうにあると。
人の言葉だけのことならば、
人は人のことを真似られる。
それはそんなに難しくない。
でもその向こうのことです。
それは見えない物を想う心。
その心を持てない限り無理。
それが何かは言わずもがな。
神の事の場を想う心である。
神はいつでもどこでも在る。
この当り前を想う心である。
神の事の場は人の事の場で置き換えられない。
人の事の場は神の事の場の極内々でしかない。
これは真似るだけです。
ほんの少し真似るだけ。
そのものにはなれない。
言わずもがな。
日本人はそれを知っている。
彼彼女らも知っているかもしれない。
宗教として知っているかもしれない。
でもなぜか言葉に捉われる。
でもなぜか教義に捉われる。
その言葉をまんまに信じて動かない。
その教義をまんまに信じて動かない。
てか動くときはそれを捨ててしまう。
そして事を捨てて物だけを追求する。
ときに芯が消え混沌を彷徨うばかり。
それゆえ我への執着だけが表に出る。
そんな人々が今世界にあふれている。
でも彼彼女らは知っている筈だ、
その體は誰が創ったのかは。
それは私ではない父でも母でもない。
それはすべて神の事の場がなせる技。
なのになぜそれを想わない。
大古の人らはそれを想っていた。
その心が物語りを創る。
大いなる物語りを創る。
・・・・・
日本人はそれを知っている。
その歴史伝統文化において。
それはなによりその言語に。
それを知ろう。
言葉と謂えば禅問答と言うのがある。
これは問いに答える掛け合いである。
でも所謂議論とは一寸違う。
それは言葉尻を追うのではなく、
その本質を見極めそれに答えるもの。
言葉一つひとつのイを理解したうえで尚、
そのイに拘らずその問いの意をくむのである。
そしてそれに答えるのです。
どこか大喜利の掛け合いに似ている。
これは問答という話し言葉、
つぎに文章という書き言葉、
ここにも似たようなことが、
文章は書かれてることがすべてではない、
その行間を読めと。
まあ同じでしょう。
それにこれもまた似ているかも、
それは習字というもの。
習字は字義の通りのものだがすぐれて美を求める。
筆先の微妙な動きで表現するのだが、
同時にここには余白の美というのがある。
描かれているものがすべてではないのだ。
てか描かれているものが現れるのは、
この余白(事場)があってこそ。
これを想う心がそれを描かせる。
己れの言葉だけでは表わせない世界、
その世界、言外の言、を想うこころ。
言葉なき存在がそうしているように。
だから日本人は彼らとも話をするのです。
それが木や石でも。
それが道具であっても。
ゆえここでは物語りは尽きない。
尽きることがない。
てかハリウッドの惨状、
ポリコレに縛れて身動き取れぬ有様、
最早如何ともしがたい、
今や瀕死の状態…、
嗚呼!

変わらぬ思い

2025-03-10 08:50:08 | 日記・エッセイ・コラム
これはこのところずっと変らない。
今の世界の「癌」はすべて言葉から来ている。
心魂が現実に感応して発したオト、それが言葉となる。
それは意思疎通の道具ともなるが、
そもその初めは先ずは自分に帰る。
それが何度も何度も繰り返される。
そして終に念として脳に定着する。
それが言葉であるとは既に言った。
やがてそれが広く皆に共有される。
そして言語となる。
てかその初めには想いの繰り返しがあり、
それが人の脳内に憑りつくのである。
ゆえ憑りつかれてるとはしかり、
言葉とは本来そういうもの。
これは癌にも似ている。
それも含めて私で、
それが私です。
・・・・・
このことを繰り返し言っている。
それも性懲りもなくである。
これからも言い続けていく、
ともかくもそれを知ろうと。
それはそれとして、
言葉は文となりまた新たな世界を開く。
語彙を越えてさらに大きな世界を開くのです。
それが物語である。
物語は終わらない。
ネバーエンディングストーリーである。
神の事の場が永遠であるように、
人の事の場もネバーエンディングストーリーなのだ、
神話に始まり歴史・伝統・文化となり。
文化とは言い得て妙、文が化けるのである。
それはヒトの生き方の総体を表わしており、
言葉と生きていく人間のその有様のすべて、
それをひと言で文化という。
それは歴史と伝統により築かれるもの、
そしてそれは未来を照らす灯りとなる、
しかしてそれを文明という。
しても日本語は良く出来ている。
敢えて文にせずとも言葉一つひとつに現われている。
そこに漢字も大きな役割を担っている。
漢字の起源は知らない、
でも漢字は今や日本の文字であるとハッキリ言える。
日本語は音に意(イ)あり字に意(イ)ありのスーパー言語。
てか自画自賛は横に置いてここで厄介をひとつ。
それは神話に続くものでそれを宗教と言う。
これが厄介の初めです。
宗教とはその字義から見ればその質はあきらか。
宗の教とは教の宗でもある。
特定の言葉(教義)を宗(胸)にするのである。
それもときに徹底的に。
事の場の物語は終わらないのに、
その物語を終わらせようとする。
さすれば教義が尚一層心魂に憑りつく。
しても言葉は心魂の振るえがイになったもの。
もともと憑りついているのです。
でも振るえがある限りは大丈夫。
てか振るえをなぜか止めたがる。
止めたら行き場がなくなるのに。
宗教にはその悪癖があるのです。
ときに宗教はヒトを破滅に導く。
それが問題なのである。
だから私は宗教を嫌う。
ちなみに心魂の振るえが意(イ)を呼ぶのは、
それは神の事の場を捉えようとするからです。
ときにそこで神と出会うのです。
その振るえを敢えてイで著わせばそれは「信仰」とでも。
これは宗教以前にあるもので物語の初めにある。
それをより嚙み砕いて言えば「仰ぎ祈り願う」であろう。
てかこれ皆手前勝手な言葉遊びにて候、
ダンダダンのチンチチン!(浄化音)
・・・・・
言葉は物語になる。
物語となって力を発揮する。
物語とは「もの」ではない。
物語は「かたり」であり、それは言葉であり、「こと」なのです。
これは「ものごと」に似ている。
たしかに物事と物語は似ている。
その字義・字様・字順ともども。
物事は「もの」と「こと」だが、
事の物ではなく物の事と表わす。
日本語は後の方に重きを置くが、
ならこれはすぐれて事であると。
であるが物語はまったき「こと」である。
すぐれて、ではなく、まったき、である。
そこは違うのです。
ところでまた想う、
聖書では神の第一声は「光あれ」である。
ここにも意味があろうかと。
言葉は神の振るえ(それは波動)である。
光はまさに振るえ(それは波動)である。
そしてその光はすべての物事の基となる。
それを想うのです。
先ず事の場があり、次に事の波がある。
それは事端となり、それは言葉となる。
そこに物語があり、そこは物事の世界。
それにしても、
日本語は良く出来ている、
おもしろくもおもしろい、
うん!

切り取り

2025-03-03 08:19:53 | 日記・エッセイ・コラム
言葉とは現実にあてた「しるし」である。
現実は「ものごと」としてある。
それは一体でありすべてが繋がっている。
それを「もの」と「こと」に分ける。
ものとものも、こととことも、です。
そして「ことば」が出来る、人の言葉が。
初めにあった「ものごと」はひとつです、
すべてが繋がっているのだから。
日本語は後にくるのが本体です。
ことのもの、ではなく、もののこと、である。
現実とは「もののこと」なのだ。
その「こと」を在らしめる場を「ことのば」という。
ここで思い出す、
ヨハネの言葉を。
 初めに言葉があった、
 言葉は神とともにあった、
 言葉は神であった、
まさにまさに、
まさにである。
・・・・・
いつもの言葉遊びである。
しても何を言いたいのか。
それは標題に示したこと、
人の言葉は切り取りだと謂うこと。
神の言葉の切り取りだと謂うこと。
言わずもがな、
理屈を捏ねて言うのも恥ずかしい限り。
先人らはそれを分かっていた。
イエスは許より聖書を残した人々らは。
聖書はその冒頭でそれをしめしている。
私の言う「ことのば」を「天と地」と言っているが。
イエスは悪魔に答えて言った、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
そしてヨハネである。
これはズバリである。
そこにあるのは「ことのば」への畏敬、
それはそこにある存在への畏敬であり、
それをなべて信仰と言う。
それは體が捉えた心魂の震えから発するもの。
ときに言葉は不要、てかむしろ邪魔に。
しても言葉の生き物・人間は言葉で分かろうとする。
それが物語となり神話となる。
そして終には宗教となる。
宗教が基としての信仰を忘れなければいいが、
それを忘れると暴走する。
言葉(神)への信仰を言葉(人)が搔き乱す。
そんな例はこれまでの歴史に枚挙の暇もなし。
してもこれこそ現今の惨状の本体です。
しかしてこれもまたイエスの言葉です。
天なる父よ許して下さい、
彼らは自分が何をしてるのか分からないのです、
と。
・・・・・
人の言葉は脳内の幻想(念)である。
いつもの言い回しである。
してもこの念、概念と言っても同じ、
これを「今の心」と記している。
これは漢字の妙であり実に絶の妙である。
まさにまさにである。
體が捉えたあらゆる情報を元に、
それを集約して脳が再構成する。
それを今の心として定着させる。
それは流れの瞬間である。
それを流れから切り取るのです。
そしてそれを定着させる。
これが念であり、
これが言葉になる。
これが人間の凄技です。
冒頭に「ものごと」と言った。
「こともの」ではないのです。
本体は実に「こと」なのです。
物だけがあって事が無ければ、
永遠に劣化しない絵画の如し、
有っても無きが如し無の世界、
そんな世界はありえない。
そこに言葉はありません。
随分前に言ったことだが、
この世界は運動振動波動でなっていると。
これが「こと」の大本である。
しかして、
それは流れであり一方的なもの、
バックツウザフューチャは無いのです。
てか物は実際に切り取りが出来る。
ゆえ印を付けることが出来る。
でもそれは事を免れない。
やはり今の心である。
すべて念なのだ。
・・・・・
切り取りと言えばこれは報道の得意技です。
なにを報道してなにを報道しないかも含め。
ここに今のオールドメディアの実体がある。
学校教育では言葉尻ではなくその本意主旨を汲み取れ、
と教わったような気がするが。
言葉の本質が切り取りだとしても、
故にこそそれを文として在らしめ、
補わんと知恵をしぼっているのに、
彼らがそれをしないのは一体なぜ、
てかそれはそういうことですよね、
報道機関ではなくプロパガンダ機関になっているってこと。
ですがネットニュースは大方噂話の類、
ですからそこは明らかに別物、
それに報道のプロでもないし。
てかそこに規制をかけるって、
それは無理ですし絶対してはいけない。
自由を縛れば心魂が行き場を失い暴走。
ためもあり言論の自由があるのに。
でも個人攻撃には注意が必要です。
それにしても、
言葉を言葉で以って規制する、
これは堂々巡りの永久ループ。
規制するならそれは心魂です。
言葉を発する大本の心魂です。
てかこの場合は規制と言う言葉は不遜、
規制ではなく倫理道徳と言うべき。
それは情操教育や文化に依存する。
そう心得よう。
とにもかくにも言葉の質を知ろう。
切り取りであると覚悟しよう。
虚構であると覚悟しよう。
ゆえ構えを立てよう。
それしかないと。
うん!

明快な答え

2025-02-24 09:27:53 | 日記・エッセイ・コラム
明快な答えがあった。
過日のトランプ大統領の声名である。
人間の性には「男と女しかない」と。
まったくもってその通りかと。
言われてみれば最も過ぎて声も出ません。
考えて見れば、
雌雄を持って命を繋ぐものは、
すべてがそうである。
言葉では「中性」と言うこともできるが、
現実にはないのです。
それらは言葉の技である。
それを知ろう。
・・・・・
私はXは永久凍結されてるからそれは見ないが、
そこでの投稿を伝えているのを見ることはある。
そのひとつで最近気になったものが、
それはLGBTQ~の彼彼女の投稿である。
正確?かどうかは横に置きその意は、
私は朝起きたときに今日は男であるか女であるかを決める、
と言い私は男でもなく女でもなくその外にいるとか。
ここに典型的な嘘がある。
その言辞は男と女と謂う言葉抜きには成り立たない。
性を意識すればそこに在るのは男と女だけなのです。
現実に生きるときは男か女のどっちかだし、
その存在は男と女の外にいる?
そも脳内は男と女で満ちているのだ。
てかその言葉を抜きにして彼彼女の念は定まらない。
言葉は現実ではない、脳内の幻想(念)である。
しても念に捉われると謂うのが人間であり、
それが言葉と生きる人間と謂うものである。
ここで言えるのは、
彼彼女は両性を持っているということであって、
中性でもなくその外でもない。
またさらに言えば、
幻想の脳内や念とかを除けば、
現実には體は男と女しかない、
超希には両性具有もあるかと。
そも中性はありませんそれにその外も。
この当り前が実のところ分かりにくい。
このままでは言葉が人類に止めを刺す。
でも大丈夫だろう、
そこまで人間はバカではないかと、
トランプさんもいるし私もいます、
エヘン!
・・・・・
それにしても又思うのである。
體には男と女しかないのだが、
その體が持つ気には微妙な揺れがある。
当方はそう思うのだが、
これは事実でもあろう。
思うに、
地球生命の始まりに性はなく無性生殖であった。
それは命の戦略としてはリスクがあり、
進化の過程にて有性生殖となってきた。
性とは生命の永遠性を担保するもので、
これは趣味趣向の問題ではないのです。
このこと覚えておこう。
それはさておき、
当初は細胞が単に分裂して増えるもの、
ときにすべての細胞が母であるのです。
母という言葉はここでは適切ではないかも知れないが、
それでも母と言うしかなく母と言っておきます。
父はどう考えても後発なのだ。
それは人の體にも現れている。
用もないのになぜ乳首がある。
それに有性生殖の生き物には、
すべてが雌のものが存在する。
それがときに一部が雄となり生殖する。
どう考えても母が先であると。
それに何と言っても根本の細胞分裂は、
すべて母の胎の内で為される。
ところで聖書はなぜか逆になっている。
てかそれは知らず追及もしません。
まあ意味ある方便としておく。
てかここで言いたいのは、
人間の體が持つ微妙な性の揺れのこと。
女はどこまでも女であり、
男は男であるが女を経てなっていると、
生命進化的にはであるが。
現実もその様でもあると。
女の心を持った男性はいても、
その逆はほとんどいないかと。
その逆は実に體には表われず、
それはほとんど言葉の技かと、
それは念の作用であると。
私はそう思っている。
・・・・・
しかし昨今はその姓に於いて、
不見識かつ不埒が満ちている。
戦前にもあったが戦後は特にその様で。
男女共同参画に始まり男女同権はもとよりだが、
てかこんな当り前をスローガンにし鼓舞してお金を使う、
バカバカしい限りですよ。
そこへもってきてさらに、
父母の家を壊そうとしている。
それは戦後すぐの民法の改正、
その後押しの為の個人の強調、
その後押しの為の自由の誤用、
さらに更に、
ついにLGBTQ~を前面に持ち出してきた。
婚姻とは男女を父母にする社会の智慧、
これを壊そうとする魂胆としか思えず、
為にLGBTQ~の彼彼女らが利用されているのです。
さらにそこへもってきて選択的夫婦別姓である。
選択的と言うのは欺瞞であり、要するに夫婦別姓である。
これは父母の家を壊すことに。
シナ朝鮮を見れば分かるでしょう。
父母の家は一つです、それが父の姓にせよ母の姓にせよ。
それが厭なら新しい姓にすればいいだけのこと。
言っとくけど、それはひとつ、
当然でしょう。
会社合併の例を持ち出すまでもなくね。
ここで和歌を一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家。
(与謝野晶子)
私はこの歌が大好きなんです。
悠久の命を歌っているようで。
彼女の想いは知らない、
でもそこにそれを想うのです。
特にそこにある「乙女」が象徴的で感じ入る。
乙女はまさに命の基、それが母になって命を繋ぐ。
それを想うのです。
・・・・・
日本には天皇陛下がおられる。
天皇陛下には姓がありません。
皇后陛下にも当然ありません。
その御子にも当然ありません。
皇室の方々にもありませんが、
男子には宮号というものがあります。
これは称号であって姓ではありません。
ということですが、
その天皇陛下は日本の象徴である。
これは定められてるが、
むろん古より続くもの。
そこに姓はないのです。
ゆえにかたよりがなく、
まさに「しん」となる。
円環の社会の芯である。
それを想うのです、
まことにまことに、

無人レジ

2025-02-17 08:29:20 | 日記・エッセイ・コラム
私はアナログの信奉者である。
でもデジタルが嫌いなわけではない。
デジタルは非常に便利で有効なものである。
アナログは現場主義現実主義である。
これは神の事の場にある。
そこには體が受取る情報が止めどなくある。
ところがデジタルはそこに大きな抜け穴をつくる。
てか点で捉えるから当然。
でもゆえより鮮明になる。
しかもときに時と場を大きく超える。
瞬時に遠くに音と絵を届けることもできるのです。
これを利用するのは当然。
要は使い方次第なのです。
にしても肝に命じておくことがある。
すべては現場現実に帰ると。
言わずもがなだが。
・・・・・
最近は無人レジが増えている。
これはハッキリ言って嫌いである。
おもてなしの欠片もない。
だからこれを避けている。
ゆえ無人レジだけの店は行かない。
そんなこともあってネット市場も利用しない。
特にアマゾンはね。
日本的経営があるとは思えないからです。
それは売り手良し買い手良し世間良しの精神のこと。
日本企業でも有るとは限らないが。
それでもどうしても欲しいもので、
実店舗で見つけられなければそこで探す、
てか利用することもある。
そうですここでも時と場を超えられるのです。
便利は便利それはまさに。
てかそもネット市場を否定してはいない、
ただ嫌いなだけです。
でもこれは只の気まぐれではない、
そういう方針です。
でもネットで買うときは、
できるだけその商品の製造元を利用する、
てかこれは私の方針には反しない。
それはさておき元に戻り無人レジ。
無人レジとは要するに売買のこと、
これはすなわち経済のことであり、
これの始まりは「市」であろうか。
これは物々交換に始まりやがてそこに貨幣が。
以前にも言ったが経済とは助け合いであると。
それは売り手良し買い手良し世間良しである。
ゆえにそこにあるのは「おもてなし」である。
おもてなしとは一方通行ではなくそも双方向。
その精神で市は栄える。
そこにあるのは別の言葉で言えば、
それはエンターテイメントである。
つまりエンタメなのだ。
人が集まりそれが又人を呼び、
ワイワイガヤガヤの賑わいに。
それがイベントになればまさにエンタメ。
その始まりは売買にあり市にあり。
だから無人レジが嫌いなのだ。
てか必要なものを求めるだけならそれも良し。
だから否定はしないと、
ただ嫌いなだけである。
てかそれはそれとして、
欧米では無人レジはむしろ撤退しているとか。
万引きが横行して経営が為りたたないようだ。
目論見が逆転したのだ。
日本ではそれほどでもないが傾向は同じ。
やはりその対策は必要。
てかそれもあるが、
私が厭なのはそこに「市」が消えるから。
だから嫌いなのである。
理由は違ってもいづれ撤退するだろうと。
要は適材適所であると、
私はそう思っています。
・・・・・
ところで無人販売と言うのがある、
この日本には。
てかこれは無人レジに一寸似てる。
てか一寸似てるがまったく違うものです。
そこには同じ販売でもレジがないのです。
この違いは決定的なのです。
レジとはキャッシュレジスターのことで、
日本語で言えば金銭登録機。
登録つまり記録つまり言葉。
まあそう言うことです。
無人販売にはそれがないのです。
しても言葉がないわけではない。
価格の表示はあるはず。
してもそれは記録ではない。
必要最低限のお知らせです。
それにそれは相手次第です。
そこにあるのは信用信頼に基づく空気である。
そこにあるのはアウンの呼吸である。
てかこのアウンはどこから来るのか。
てかこれには私なりの存念があるが。
それは場への感謝と祈りである。
場とはそこに存在する物事のすべて、
そのすべてへの感謝と祈りです。
それがアウンをかもす。
そしてときにそこに無人販売が。
そこに言葉はない。
むしろ邪魔になる。
と謂うことだろう。
ぁうん!