人間はこの世界を分別している。
ちなみにこれは「ふんべつ」と読む。
ゴミの収集ではありません。
この分別は言葉に依って育てられる。
でもこの言葉最近ほとんど聞かない。
「ぶんべつ」はよく聞くが。
ゴミが増えてるからかもな。
特に東京の永田町あたりで。
これが昨今の状況なのです。
言葉に育てられたこの分別、
それが起伏と陰影をつくり、
そして文化文明をもたらす。
なのにその分別を消し去り、
茫漠たる砂漠を広げるのみ。
字義は體を現わすと謂うか、
よくぞ言ったりの文化文明、
その字をかえたら分化分明、
それがもう息も絶え絶えに。
・・・・・
起伏と陰影は自然のあかし。
これをなべてなくしてしまえば、
そこは必ず砂漠と化してしまう。
現にある砂漠はそういう所です。
サハラ砂漠にゴビやタクラマカン砂漠。
してもそこは緑あふれる時代もあったようだ。
雨が少なければ草原にでなければ森に。
それが今では御覧のとおり。
気候変動もあるし人が関われば尚のこと。
緑は一旦無くなれば、
その回復は相当難しいかと。
これはあくまで自然のこと。
これはこれで問題なのだが、
私が心配なのは心魂のこと。
虫のようにまんまに生きるなら、
てか體を主体にして生きるなら、
自然はそれを壊さない。
それを壊すとすれば人間である。
これが私の一番の危惧なのです。
てか今まさにそれが進行中。
それは言葉を持ったからで、
それが心魂を表に出さしめ、
そして分別を育てるのだが、
その分別が今消されている。
それは起伏と陰影の消失で、
それはそこを砂漠化させる。
今の政策の多くがそちらに向いている。
移民もそうである。
移民が必要だとは嘘である。
要するにすべてはやり方だ。
安易に他人に頼るのは危険。
人間に言う言葉ではないが、
人もやはり地産地消である、
てか棲み分けに依る共生と謂うべきか。
まあそういうことです。
文化が違えば移民は異民となる。
その土地の文化を尊重するならいいが、
己の生き方を無理強いするなら、
ときに完全なる異民となる。
では移民とは何なんだ。
それがその土地が好きでそこに馴染んで生きたい、
と言うことなら分かる。
それなら異民にはならない。
世界はひとつとはよく言われる。
これがまた一寸気になるのです。
これは存在すべてを想定して言ってるのではない。
人間だけを想定してのことです。
今やサピエンスだけになった人間世界、
それを以って一つだと。
枠をはめその枠内をひとつだとはいつでも言える。
その枠をサピエンスの別れである人種とすればそうではない。
その枠を文化文明としてもそれはひとつではない。
これは人間の分別なのだがこれがときに余りに恣意的になる。
今それを言ってるのが所謂グローバリズムである。
てか彼らには目的があるのです。
あくまで目的(支配?)のため。
だから私は毛嫌いしている。
そうではなく言ってる人もいるのだが。
そこでよく使われる言葉に平等がある。
存在という究極の一点ではそうだろう。
動物や植物などの生命やそうでないものも含めて。
でもその一点を除けば現実には平等はありません。
まったき同じはないのです。
皆それぞれに違うのである、
そこには起伏や陰影がある。
それが現実で各々の起点はそこにある。
それを無理やりならしてしまえば、
エントロピー増大の極致となって、
ときにすべてが止ることに。
勿論グローバリストはそんなこと百も承知。
彼らは彼らの目的のため言ってるだけ、
噓も噓の大嘘です。
平等と言えばもう一つ現下の大問題が。
それは男性性と女性性のことです。
この違いは大きいすこぶる大きい。
にも関わらず同じだと言っている。
言っておくが、
同じ面を見れば同じ、違う面を見れば違う、
こんなの当り前である、
言うのもバカバカしい。
これは平等のはき違えである。
男には男の體と男の心がある。
女には女の體と女の心がある。
これは厳然とした事実である。
このことLGBT~が証明してる。
體だけでなく心があることを。
男の體に女の心があることで、
女の體に男の心があることで。
誕生の過程では體が先だと思うが、
影響はむしろ心魂の方が大きいか。
その発露がそれぞれの文化となり「らしさ」となる。
ゆえLGBT~にはLGBT~の生き方がある。
彼ら彼女はその現実を生きるのである。
そこにあるそれぞれの生き方が文化となりらしさになる。
それを分別によって区切れば、
男の文化女の文化男らしさ女らしさ私らしさになる。
それが地域の文化になり国の文化となるのです。
それは家風や社風にもそして国柄ともなる。
しても文化やらしさはときとともに移り変わる。
それは鎖となって人を縛るものではないと。
それは人を育てるために柔らかく包むもの。
これらすべて言葉の技であり、
それを日本では分別とか言う。
人間は違いを知る生き物です。
それが言葉の技の本質である。
人間はその言葉と生きて行く。
ここはしっかり押えておこう。
てか、
なんか取り留めのない話だが、
ついでにもう一つ思うことを。
言葉はそも中立である、
良きことを示しても悪しきことを示しても、
それはそれを示すためのもの、
ともに必要だからあるのです。
それはその言葉自体の良し悪しではないと。
それはその「言葉」の役割なのである。
それに「言葉」は人を差別しない。
人を差別するのは人であり人の心である。
どんな言葉でも悪意を持って言えばそれは差別語となる。
どんな言葉でも悪意がなければそれはただの言葉である。
こんなの当り前すぎて、
言うのもバカバカしい。
てか、
・・・・・
だから私は言うのです、
この世界は嘘と狂気で満ちていると。
この世界とは今の世界のことである。
神の言葉は知らず、
人の言葉は基より神の言葉ではない。
人の言葉は人が創りしもの、
それは世界を分別するもの、
それは物事を分別するもの、
ゆえそこに文化文明がある。
思えば直近の大嘘、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
ちょっと前の大嘘には例の男女共同参画。
そも男女の共同なければ命は生まれない、
人類はその初めから男女共同参画なのだ。
敢えてこれを持ち出す理由は如何?
こんな世界はもうヤダヤダ、
駄々っ子ばかりでヤダヤダ、
ちなみにこれは「ふんべつ」と読む。
ゴミの収集ではありません。
この分別は言葉に依って育てられる。
でもこの言葉最近ほとんど聞かない。
「ぶんべつ」はよく聞くが。
ゴミが増えてるからかもな。
特に東京の永田町あたりで。
これが昨今の状況なのです。
言葉に育てられたこの分別、
それが起伏と陰影をつくり、
そして文化文明をもたらす。
なのにその分別を消し去り、
茫漠たる砂漠を広げるのみ。
字義は體を現わすと謂うか、
よくぞ言ったりの文化文明、
その字をかえたら分化分明、
それがもう息も絶え絶えに。
・・・・・
起伏と陰影は自然のあかし。
これをなべてなくしてしまえば、
そこは必ず砂漠と化してしまう。
現にある砂漠はそういう所です。
サハラ砂漠にゴビやタクラマカン砂漠。
してもそこは緑あふれる時代もあったようだ。
雨が少なければ草原にでなければ森に。
それが今では御覧のとおり。
気候変動もあるし人が関われば尚のこと。
緑は一旦無くなれば、
その回復は相当難しいかと。
これはあくまで自然のこと。
これはこれで問題なのだが、
私が心配なのは心魂のこと。
虫のようにまんまに生きるなら、
てか體を主体にして生きるなら、
自然はそれを壊さない。
それを壊すとすれば人間である。
これが私の一番の危惧なのです。
てか今まさにそれが進行中。
それは言葉を持ったからで、
それが心魂を表に出さしめ、
そして分別を育てるのだが、
その分別が今消されている。
それは起伏と陰影の消失で、
それはそこを砂漠化させる。
今の政策の多くがそちらに向いている。
移民もそうである。
移民が必要だとは嘘である。
要するにすべてはやり方だ。
安易に他人に頼るのは危険。
人間に言う言葉ではないが、
人もやはり地産地消である、
てか棲み分けに依る共生と謂うべきか。
まあそういうことです。
文化が違えば移民は異民となる。
その土地の文化を尊重するならいいが、
己の生き方を無理強いするなら、
ときに完全なる異民となる。
では移民とは何なんだ。
それがその土地が好きでそこに馴染んで生きたい、
と言うことなら分かる。
それなら異民にはならない。
世界はひとつとはよく言われる。
これがまた一寸気になるのです。
これは存在すべてを想定して言ってるのではない。
人間だけを想定してのことです。
今やサピエンスだけになった人間世界、
それを以って一つだと。
枠をはめその枠内をひとつだとはいつでも言える。
その枠をサピエンスの別れである人種とすればそうではない。
その枠を文化文明としてもそれはひとつではない。
これは人間の分別なのだがこれがときに余りに恣意的になる。
今それを言ってるのが所謂グローバリズムである。
てか彼らには目的があるのです。
あくまで目的(支配?)のため。
だから私は毛嫌いしている。
そうではなく言ってる人もいるのだが。
そこでよく使われる言葉に平等がある。
存在という究極の一点ではそうだろう。
動物や植物などの生命やそうでないものも含めて。
でもその一点を除けば現実には平等はありません。
まったき同じはないのです。
皆それぞれに違うのである、
そこには起伏や陰影がある。
それが現実で各々の起点はそこにある。
それを無理やりならしてしまえば、
エントロピー増大の極致となって、
ときにすべてが止ることに。
勿論グローバリストはそんなこと百も承知。
彼らは彼らの目的のため言ってるだけ、
噓も噓の大嘘です。
平等と言えばもう一つ現下の大問題が。
それは男性性と女性性のことです。
この違いは大きいすこぶる大きい。
にも関わらず同じだと言っている。
言っておくが、
同じ面を見れば同じ、違う面を見れば違う、
こんなの当り前である、
言うのもバカバカしい。
これは平等のはき違えである。
男には男の體と男の心がある。
女には女の體と女の心がある。
これは厳然とした事実である。
このことLGBT~が証明してる。
體だけでなく心があることを。
男の體に女の心があることで、
女の體に男の心があることで。
誕生の過程では體が先だと思うが、
影響はむしろ心魂の方が大きいか。
その発露がそれぞれの文化となり「らしさ」となる。
ゆえLGBT~にはLGBT~の生き方がある。
彼ら彼女はその現実を生きるのである。
そこにあるそれぞれの生き方が文化となりらしさになる。
それを分別によって区切れば、
男の文化女の文化男らしさ女らしさ私らしさになる。
それが地域の文化になり国の文化となるのです。
それは家風や社風にもそして国柄ともなる。
しても文化やらしさはときとともに移り変わる。
それは鎖となって人を縛るものではないと。
それは人を育てるために柔らかく包むもの。
これらすべて言葉の技であり、
それを日本では分別とか言う。
人間は違いを知る生き物です。
それが言葉の技の本質である。
人間はその言葉と生きて行く。
ここはしっかり押えておこう。
てか、
なんか取り留めのない話だが、
ついでにもう一つ思うことを。
言葉はそも中立である、
良きことを示しても悪しきことを示しても、
それはそれを示すためのもの、
ともに必要だからあるのです。
それはその言葉自体の良し悪しではないと。
それはその「言葉」の役割なのである。
それに「言葉」は人を差別しない。
人を差別するのは人であり人の心である。
どんな言葉でも悪意を持って言えばそれは差別語となる。
どんな言葉でも悪意がなければそれはただの言葉である。
こんなの当り前すぎて、
言うのもバカバカしい。
てか、
・・・・・
だから私は言うのです、
この世界は嘘と狂気で満ちていると。
この世界とは今の世界のことである。
神の言葉は知らず、
人の言葉は基より神の言葉ではない。
人の言葉は人が創りしもの、
それは世界を分別するもの、
それは物事を分別するもの、
ゆえそこに文化文明がある。
思えば直近の大嘘、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
ちょっと前の大嘘には例の男女共同参画。
そも男女の共同なければ命は生まれない、
人類はその初めから男女共同参画なのだ。
敢えてこれを持ち出す理由は如何?
こんな世界はもうヤダヤダ、
駄々っ子ばかりでヤダヤダ、