これは日本の漫画、アニメのことである。
これが世界を席巻している、
とは言い過ぎであろうとは…思うが、
てか実際に世界で見られてるようだ。
私はその現場を見たわけではないが、
ネットを見ていればそう思うのです。
てか多分そうでしょう。
現に私も嵌っています。
それは実写の映画にも現われている。
てかその根っこにあるのは文化です。
それは言葉でありそれは物語となる、
その物語りである。
日本には物語があるのです。
その物語を創る力があるのです。
てかそれが基であるが、
その物語を漫画やアニメ等にする術も必要である、
可愛く或いは力強くはたまた心の機微を描くなど。
それらがあっての現下の様相である。
葬送のフリーレンがダンダダンてか、
?、
・・・・・
海外でも真似て作られているようだ。
てかこれは不思議でもなく至極当然。
そんな中で最近世界的にヒットした作品があるらしい。
これはフランスで作られたようです。
ですが日本ではまったく響かずだと。
不思議がられてもおり、
さすが?は日本だとも。
これはどういうことか。
その理由を私は既にそれとはなく言っている。
術としての作画や構成は真似られる。
してもその底には真似ることが難しいものが。
それが何かを知るのが大事、
それを知れば少しく迫れる。
ときに大いに物語りできる。
それは人の言葉の向こうに。
その言葉の向こうにあると。
人の言葉だけのことならば、
人は人のことを真似られる。
それはそんなに難しくない。
でもその向こうのことです。
それは見えない物を想う心。
その心を持てない限り無理。
それが何かは言わずもがな。
神の事の場を想う心である。
神はいつでもどこでも在る。
この当り前を想う心である。
神の事の場は人の事の場で置き換えられない。
人の事の場は神の事の場の極内々でしかない。
これは真似るだけです。
ほんの少し真似るだけ。
そのものにはなれない。
言わずもがな。
日本人はそれを知っている。
彼彼女らも知っているかもしれない。
宗教として知っているかもしれない。
でもなぜか言葉に捉われる。
でもなぜか教義に捉われる。
その言葉をまんまに信じて動かない。
その教義をまんまに信じて動かない。
てか動くときはそれを捨ててしまう。
そして事を捨てて物だけを追求する。
ときに芯が消え混沌を彷徨うばかり。
それゆえ我への執着だけが表に出る。
そんな人々が今世界にあふれている。
でも彼彼女らは知っている筈だ、
その體は誰が創ったのかは。
それは私ではない父でも母でもない。
それはすべて神の事の場がなせる技。
なのになぜそれを想わない。
大古の人らはそれを想っていた。
その心が物語りを創る。
大いなる物語りを創る。
・・・・・
日本人はそれを知っている。
その歴史伝統文化において。
それはなによりその言語に。
それを知ろう。
言葉と謂えば禅問答と言うのがある。
これは問いに答える掛け合いである。
でも所謂議論とは一寸違う。
それは言葉尻を追うのではなく、
その本質を見極めそれに答えるもの。
言葉一つひとつのイを理解したうえで尚、
そのイに拘らずその問いの意をくむのである。
そしてそれに答えるのです。
どこか大喜利の掛け合いに似ている。
これは問答という話し言葉、
つぎに文章という書き言葉、
ここにも似たようなことが、
文章は書かれてることがすべてではない、
その行間を読めと。
まあ同じでしょう。
それにこれもまた似ているかも、
それは習字というもの。
習字は字義の通りのものだがすぐれて美を求める。
筆先の微妙な動きで表現するのだが、
同時にここには余白の美というのがある。
描かれているものがすべてではないのだ。
てか描かれているものが現れるのは、
この余白(事場)があってこそ。
これを想う心がそれを描かせる。
己れの言葉だけでは表わせない世界、
その世界、言外の言、を想うこころ。
言葉なき存在がそうしているように。
だから日本人は彼らとも話をするのです。
それが木や石でも。
それが道具であっても。
ゆえここでは物語りは尽きない。
尽きることがない。
てかハリウッドの惨状、
ポリコレに縛れて身動き取れぬ有様、
最早如何ともしがたい、
今や瀕死の状態…、
嗚呼!
これが世界を席巻している、
とは言い過ぎであろうとは…思うが、
てか実際に世界で見られてるようだ。
私はその現場を見たわけではないが、
ネットを見ていればそう思うのです。
てか多分そうでしょう。
現に私も嵌っています。
それは実写の映画にも現われている。
てかその根っこにあるのは文化です。
それは言葉でありそれは物語となる、
その物語りである。
日本には物語があるのです。
その物語を創る力があるのです。
てかそれが基であるが、
その物語を漫画やアニメ等にする術も必要である、
可愛く或いは力強くはたまた心の機微を描くなど。
それらがあっての現下の様相である。
葬送のフリーレンがダンダダンてか、
?、
・・・・・
海外でも真似て作られているようだ。
てかこれは不思議でもなく至極当然。
そんな中で最近世界的にヒットした作品があるらしい。
これはフランスで作られたようです。
ですが日本ではまったく響かずだと。
不思議がられてもおり、
さすが?は日本だとも。
これはどういうことか。
その理由を私は既にそれとはなく言っている。
術としての作画や構成は真似られる。
してもその底には真似ることが難しいものが。
それが何かを知るのが大事、
それを知れば少しく迫れる。
ときに大いに物語りできる。
それは人の言葉の向こうに。
その言葉の向こうにあると。
人の言葉だけのことならば、
人は人のことを真似られる。
それはそんなに難しくない。
でもその向こうのことです。
それは見えない物を想う心。
その心を持てない限り無理。
それが何かは言わずもがな。
神の事の場を想う心である。
神はいつでもどこでも在る。
この当り前を想う心である。
神の事の場は人の事の場で置き換えられない。
人の事の場は神の事の場の極内々でしかない。
これは真似るだけです。
ほんの少し真似るだけ。
そのものにはなれない。
言わずもがな。
日本人はそれを知っている。
彼彼女らも知っているかもしれない。
宗教として知っているかもしれない。
でもなぜか言葉に捉われる。
でもなぜか教義に捉われる。
その言葉をまんまに信じて動かない。
その教義をまんまに信じて動かない。
てか動くときはそれを捨ててしまう。
そして事を捨てて物だけを追求する。
ときに芯が消え混沌を彷徨うばかり。
それゆえ我への執着だけが表に出る。
そんな人々が今世界にあふれている。
でも彼彼女らは知っている筈だ、
その體は誰が創ったのかは。
それは私ではない父でも母でもない。
それはすべて神の事の場がなせる技。
なのになぜそれを想わない。
大古の人らはそれを想っていた。
その心が物語りを創る。
大いなる物語りを創る。
・・・・・
日本人はそれを知っている。
その歴史伝統文化において。
それはなによりその言語に。
それを知ろう。
言葉と謂えば禅問答と言うのがある。
これは問いに答える掛け合いである。
でも所謂議論とは一寸違う。
それは言葉尻を追うのではなく、
その本質を見極めそれに答えるもの。
言葉一つひとつのイを理解したうえで尚、
そのイに拘らずその問いの意をくむのである。
そしてそれに答えるのです。
どこか大喜利の掛け合いに似ている。
これは問答という話し言葉、
つぎに文章という書き言葉、
ここにも似たようなことが、
文章は書かれてることがすべてではない、
その行間を読めと。
まあ同じでしょう。
それにこれもまた似ているかも、
それは習字というもの。
習字は字義の通りのものだがすぐれて美を求める。
筆先の微妙な動きで表現するのだが、
同時にここには余白の美というのがある。
描かれているものがすべてではないのだ。
てか描かれているものが現れるのは、
この余白(事場)があってこそ。
これを想う心がそれを描かせる。
己れの言葉だけでは表わせない世界、
その世界、言外の言、を想うこころ。
言葉なき存在がそうしているように。
だから日本人は彼らとも話をするのです。
それが木や石でも。
それが道具であっても。
ゆえここでは物語りは尽きない。
尽きることがない。
てかハリウッドの惨状、
ポリコレに縛れて身動き取れぬ有様、
最早如何ともしがたい、
今や瀕死の状態…、
嗚呼!