ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

亀田製菓

2025-01-27 09:34:17 | 日記・エッセイ・コラム
毎度お馴染みのネット情報、
あの柿の種で有名な亀田製菓が叩かれているとか。
青天の霹靂である。
その言い分や経緯を見れば私もそう思う。
てか事実はそれだけではなかろうが。
でも「ワンワールド」や「グローバリズム」が嫌いな私は、
少しく賛同してしまう。
いつも言ってるが言葉はマジックである。
それはいつだって現実ではなくただの看板である。
その看板が現実に添っているなら許より問題なし。
てかこれが言葉の力となる。
口に出せば現実になる、とは、
現実を口にしてるから、とも言える。
そう思うのである。
言葉の世界に生きてる人間にとって、
嘘はこの世界を破壊し人間を破滅させる。
これはあくまで真正の嘘の場合です。
てか真性の嘘は論外として、
例え嘘でなくとも思い違いや切り取りもあり厄介。
でもこの厄介は人の言葉にはついて回るもの。
それに嘘の中には悪気がないものもある。
てか思いやりから発するものもある。
これを日本語では方便とか言う。
これは言ってる内容でなく、
言うときの構えの問題。
だから言うのです、
言葉が持つそう謂う質(たち)を知ろうと。
しても私は方便と謂う言葉が好きだ、
そこはかとなく、
・・・・・
てかワンワールドやグローバリズムをなぜ嫌うか。
もし火星に人がいて彼らがそう言ったら唯々諾々と従うのか。
多分何もかも違うだろうし、
なにより目の前の生き方が、
その総体としての文化が違うだろう。
宇宙は我々には一つである。
複数あると言う人もいるが。
てか複数あってもそれを合わせれば一つです。
結局どこまでいっても一つなのです。
だが前にも言ったが、
一つとは奇形である。
それを見ている私(我)を棚に上げてしまう。
だから言ったのです一神教とは奇形であると。
一つを全体とすればこれはおさまる。
これを人間の生活に戻せば、
棲み分けによる共生である。
個人の生活から家庭の生活、町村の生活、国邑の生活、
世界の生活、宇宙の生活、てかてか。
棲み分けによる共生の上でなら世界は一つである。
その前提が欠落しているから嫌いなのだ。
その欠落の目的は如何。
それは世界の支配かと、見ている私を中心に置いての。
そも人は助け合って生きることを選んだ。
それが社会的動物と言われる所以である。
その助け合いの力をずたずたにするのだ。
その力が支配の邪魔になるから。
だから家庭を潰し町村を潰し国邑を潰す。
そこに通底している生き方の総体としての文化を。
家庭の文化も国邑の文化もそして男女の文化等も。
それが戦後ずっと行われてきた。
それは大きく言えば思想統制である。
ために目障りな言葉は執拗に消していく。
そして無味乾燥な抽象的美辞麗句で覆い尽す。
手始めに男女共同参画そして終にはLGBT~を持ち出し今やQQ。
ということですが
日本を潰すのも日本を守るのも、その鍵はふたつ。
一つは日本語であり一つは天皇陛下の存在である。
てか大丈夫でしょう。
トランプさんもいるし、
プーチンさんもいるから、
はて安倍さんはどこ、
ん?
・・・・・
ところで亀田製菓は?
社長がインド人とか、なぜそうなったのか。
たたき上げで能力を認められたのか、
元社長がお金欲しさで売却したのか、
それとも商売を広げようとの思惑か。
その間の事情は知らない。
でも私は危惧するのですグローバリズムを。
今の経済は欧米主導の奪い合いの経済になっている。
日本はそれに逆らえないが根は助け合いである。
前もに言ったが、
一は奇形、二は対立、三は安定、と。
それも三位三体ではなく三位一体である。
それぞれを立ててなお融合する。
それを商売で言えば、
売り手良し買い手良し世間良し、である。
これが助け合いを根に持つことの現われ。
皆が皆そう思ってるとは言わないが、
その心を良しとする文化がある。
ここには人類初発のこころ縄文のこころがある。
それを想うのです。
しても少なくともこの縄文のこころ、
日本の他にはあまり見られない、
個人的にはいるでしょうどこにでも。
でも文化として持っている国を私は知りません。
てかインドのことはよく分からない。
ゆえに亀田製菓の件、
批判する気はないが、
でも危惧しています。
そんなことを思うのです。
ハイ!

ファクトチェック

2025-01-20 08:17:57 | 日記・エッセイ・コラム
リベラル人士らはよく言っている、
人間みな同じ(タネ)だから仲良くしましょう、
人間みな違う(多様)けれど仲良くしましょう、
てかこれは結局、
同じ=仲良くしましょう、
違う=仲良くしましょう、
ということです。
言いたいことは同じだが、
でも筋は全く違っている。
だからとけれどで正反対。
なら御託を並べず言えばいいのに、
仲良くしましょうと。
・・・・・
言葉にはこれと同じようなことが幾らでもある。
てか常道である。
例えば「開発」と「破壊」がそれ。
これはまったく同じもの。
どちらも現状を変えることである。
開発と言ってもそれは自然からすれば破壊かも。
破壊と言ってもそれは長い目で見れば再生かも。
どちらも同じことだが違うのは人間の都合だけ。
まあ人間にとっては正反対ですが。
例えば「理解」と「誤解」も同じ。
理解と雖もその実を取り違えれば理解ではない。
てかそれを誤解とか言う。
言ってることが同じなら、
それを理解と言っても誤解と言っても実は同じ。
その違いを厳密に判定することなどできません。
取り敢えずの判断しかできない。
言葉とはそういうものなのです。
てか知らないところに誤解なし、
てか知るは理解だがそれは誤解と裏表。
このように同じものに異なる看板を掛ける。
それも正反対の意味合いのです。
この様なことが常にある。
これを先に常道と言った。
これとは違う常道もある。
これは特に日本語の世界。
例えば「結構」。
これは「むすぶ」に「かまえ」である。
結んだ構えのことですが、どんな構えか分からない。
良い構えなのか悪い構えなのか。
それを決めるのは言葉ではない。
その場の状況がそれを決定する。
てか副詞などを付ければ分かることも。
そもその言葉はそれを示さない。
同じ様なものに「虚構」がある。
これは「うつろ」な「かまえ」である。
てか構えであって必ずしも嘘ではない。
そういうものです。
これは言葉の本質を示している。
言葉とはそも「うつろ」なもの、
それにイを与えるは「かまえ」である。
姿勢を正し全身全霊で向き合う、
その構えが事の場を捉える。
ときに言葉は力を発揮する。
ときに言葉は魔法の道具となる。
構えを崩せば虚、
それはときに「うつろ」から「うそ」にもなる。
そのことその間合いが分からないのが今の世界。
してもそれを知るのは日本だけ、
それも今は昔か。
日本はその間合いを心得ていた。
事と事と間のマのことを。
それを「まこと」と言う。
これは「誠」や「真言」と記す。
なのにである…
・・・・・
てかまあ言葉遊びである。
私一流の言葉遊びである。
ということだが、
そこで標題の件、
これが又甚だ胡散臭いのである。
リベラル特有の腐臭がプンプン。
今まで幾度となく言ってきたが、
事実は人の数だけあると、
神様には一つであっても。
人の場合はその立ち位置により異なる。
先ずは體がそれをとらへ、
次に思いがそれを定める、
それらはすべてその位置による。
それも嘘がない前提だが、
そこに嘘あればそも論外。
であるが、
そもファクトチェックと謂う言葉自体が胡散臭い。
ファクトをチェックすると言って、
自れのファクトだけを立てて他を排除。
為にかかる言葉をつくり、
なおその機関までつくる。
何たる不埒、
言葉の本質を弁えぬ不埒、
このことよくよく知ろう。
てか最近は余り聞かなくなった。
さすがに恥ずかしくなったのか。
多分そうだろう、
うん!

終末

2025-01-13 11:12:54 | 日記・エッセイ・コラム
今となってはちょっと昔、1990年代。
世紀末であり終末論が凄く流行っていた。
その後は2012年あたりか、マヤの暦の終わるとき。
今年は2025年、まあ何てことない年である。
今年だけではない、これからの2~3年を含め。
ここでトランプ氏が登場。
これがなぜか?終末を予感させる。
世界の様相は正にその様でもあり。
勝手にそう思っているが、
ちょっと言い過ぎかもね。
終末論と言っても終わる訳ではないのだ。
これは新しい時代の始まりとなる。
ならそれは終末ではない。
もし人類がそこで絶滅するならそうだが、
そんな話ではなさそうだ。
でも人類にとって大きな画期となるなら、
それは大いにあり得ると。
てかハッキリとそれを感じている。
維新後70年、終戦後70年、それぞれに時代の色がある。
この後の70年はどんな色に。
ここにきて前の140年とはあきらかに異なる様相が。
それはコンピュータの急速な進展による。
これが人間の在り方を大きく変えるとも。
確かに多少胸騒ぎはする。
てかそれは取り越し苦労かと。
巷ではどうもそうは思っていないようで。
人間の仕事がなくなる、とか、
永遠の命が実現される、とか、
とかとかと。
仕事とは人の事に仕えること。
これがなくなるとは人間がなくなること、
コンピュータの存在だけでは、
こんなこと、
ありえない。
永遠の命とはそれが流れでなくなること、
ありえない。
てかそも命は永遠である。
流れが永遠であるように。
してもこれらのこと、
誰かがどこかで大きな勘違いをしている。
それは言葉と謂うものを分かっていないのです。
これは一つひとつの言葉のことではない。
言葉の存在そのもののことである。
それが人間に如何なる影響を及ぼすかを。
この視点がどうも抜け落ちている。
一つひとつの言葉にかまけて。
だから迷子になっている。
でもそれが分からないのです、
迷子になっているそのことが。
してもコンピュータはその象徴である。
コンピュータは何で出来ているか、
と言えば、
まあどうとでも言えるが、
私はそれは言葉であると。
それも言葉の権化である。
そんなコンピュータに翻弄されている。
んで迷子が更に迷子となっている。
もう溜息しかない、
う~ん、
・・・・・
この抜け落ちている視点さえ捉えれば、
このことを覚悟しさえすれば、
もとの道に戻ることができる。
なら虫(無私)たちのように生きられる。
それも虫たちとは違って、
言葉を持ちながらにです。
てかここで言葉が浮かぶ。
汝狭き門から入れ、
まことにまことに、

正月

2025-01-06 08:26:36 | 日記・エッセイ・コラム
日本には正月がある。
国を挙げての「とき」の刷新を行なえる。
まことに素晴らしい祭事歳時催事である。
年末に「働く細胞」という映画があった。
早速見に行きました。
命の基の細胞は常に新陳代謝を行なっている。
てかこれは一斉にと言う訳ではない。
順々にやっていきそれを又繰り返す。
正月という行事も似たようなもので、
それが年に一度かつ一斉ということ。
それにその他に元号もある。
これもまた凄いのです。
これは周期はまちまち。
でも「とき」に色を付ける。
これが実に凄いのです。
ものごとはそも一体のもの。
時は「こと」で流れるもの。
その「こと」に「もの」という綾を付加する。
そして本来の「ものごと」として在らしめる。
これで時代という「こと」が見える。
・・・・・
ともかくも年があければ言うのです。
あけまして、おめでとうございます、と。
そして祭事が始まるのです。
ということで、
この場所にて、遅ればせながら、
あけまして、おめでとうございます。
しても竹田恒泰先生には教えられました。
正月の過し方についてです。
まず何がめでたいのか、
これはめでたいからめでたいのだと。
意味や意義は基よりあるのだろうが、
でも理屈に関係なくめでたいのだと。
そしてその間は良き言葉だけで過す。
できたら一年中そうしたいものだが、
それはもう無理も無理、
だから正月ぐらいは3が日ぐらいは。
なるほどなるほどのなるほどである。
てか注意してなければそれも難しい。
てかてか今年も一寸洩れました。
大したことではないが反省。
でも悔やむのはよそう。
主旨から外れるし。
正月のめでたい気分をもって、
この一年を乗り切るのだから。
初詣は勿論行ってます。
歳が暮れるのは大晦日の日没、
歳があけるのは元日の日の出、
その間の夜は神のときである。
ゆえ日がどっぷりと暮れたら、
そろそろと準備してそろりと。
私は夜は苦手だから翌朝です。
それも朝とは言えないほどの。
まあいいでしょう。
これまで何度も言ってきたが、
今年はいよいよの正念場かも。
何か毎年言ってるような気も。
まあそんなことで。
・・・・・
しても正月は新鮮の気が漂う。
空気が換わる訳ではないのに。
言うまでもなくそれは人の方、
その思いが一新されるのです。
為に周りを整えて清浄を期し、
おめでとうございますと言い、
ときにめだたくめでたく過す、
しかしてその気を受け止める。
これが正月の正に御業である。
これは止めどなく流れる時に、
色をつけ綾をつけモノ化する。
それが新鮮の気を呼び起こす。
そして新たなる「時」を得る。
ところで、
最近は毎年今年こそ?と思って来た。
でも本年は正にそうなるかも。
ゆえに少しワクワクしている。
てか何がどうなるというのか。
その色はどんな色か?
それはもう決まっている。
それはトランプ色である。
スペードの軍事か、ダイヤの商売か、
はたまたハートの友愛か。
てか、
一神は奇形であり、
二神は対立を生む、
なら、
三位一体はどうか。
これはすべてを立ててなお融合する。
残りのクローバーはこれかも。
さてもさて、
今年はどんな色になるのやら、
乞うご期待。

コロワクポリコレ…

2024-12-30 09:33:58 | 日記・エッセイ・コラム
これは私が年来言って来たことで、
それも性懲りもなく何度も何度も。
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車。
こんな嘘が世界の真ん中に居すわっている。
今般それが一掃?されることになった。
てかまだなのだがもうすぐである。
でも私はそれを確信している。
それはそうでしょうとも、
これは中世ヨーロッパのあの魔女裁判を彷彿とさせる、
何ともあっけらかんとした大嘘なのだ。
してもほとほと感心するのは、
それに騙される人がいること、
それも少なくない人達である。
これが何とも不思議なのです。
その手段はすべて言葉である。
てか言葉にしか出来ない芸当。
それは言葉の持つ虚構性が利用される。
かくて教育に始まり報道は当然のこと、
政界官界財界などはもとより、
ついには法曹界までもである。
取り憑かれてもう雁字搦めに。
まあ言っても詮ないことだが。
でか始まりがあれば終わりも。
それがもう近いのである、
うん!
・・・・・
コロワク。
コロナウイルスはヒトが現れる前からいる。
苦しめられることはあっても共存してきた。
だからヒトは自ら守る仕掛けを育ててきた。
気の遠くなる時を重ねて。
まずはそれが肝要である。
それに知恵も育ててきた。
それが特に害がなければ迷信でもいい。
命の核心部では物と事が交錯している。
心が肉体に影響を及ぼすこと疑いなし。
最もいけないのは偽りの物である。
それでも害がなければ、まだしも。
それが少しでも害をもたらすなら、
それは絶対的に避けねばならない。
とくに遺伝子操作は避けてほしい。
それが時を担保するとは思えない。
そもヒトは必ず死ぬもの、
それを恐れても仕方なし、
生きることをこそ畏れよ、
と思うのです。
ポリコレ。
ポリもコレもヒトが作った制作物。
合わせての政治的公平性もしかり。
脳内で転がして作った看板である。
その看板は脳にあるが実にはない。
ゆえこのこと注意せねばならない、
とはこれまでずっと言ってきたが。
特に最近気になるのは男女のこと。
ここに焦点を置いてかき回してる。
そも自然界では雌雄に揺らぎなし。
雄は雄、雌は雌、その間はその間。
雄は雄を雌は雌を生き、命を繋ぐ。
その間に在ればそれを生きるのみ。
もっぱらに実を生きて不都合なし。
これを事の場をまんまに生きると謂う
まことにまことにのまことの世界。
地球温暖化。
地球のことは地球に聞け。
地球のことは地球が対処する。
そも地球環境は変化する。
気候は変動するものです。
温暖化もすれば寒冷化もする。
ヒトによる影響はこれはある。
でもそれはどれほどのものか。
そも高が知れている。
でも慎みは必要です。
それだけのこと。
脱炭素。
生命は有機物で出来ていると謂う。
有機物は炭素を含む化合物である。
そも生命は光合成で作られる。
それは水と光と炭素を必要とする。
これは植物の為せるわざ。
動物は光合成が出来ない。
だから諸に炭素たる有機物が必要。
それを思えば、
脱炭素とは意味不明の看板である。
無条件に降りそそぐ光と、
地球上で循環する水と炭素により、
生命はささえられている。
そも看板に偽りあり。
電気自動車。
ネット情報を見ていると、
どうも電気自動車が苦戦している。
これはモーターで動くのであるが、
モーターには電気が必要なのです。
ゆえそれをどう供給するかが問題。
そこが要点である。
単純に言えば発電機を備えたらいいのです。
なのに電池で走ろうとは。
電気は「こと」であり、ことは流れるものです。
貯めるのは得策ではない。
現実的ではないのである。
だから電車があるのです。
これは電気を流しっぱなしにしておき、
そこで間断なく走らせるのである。
だから必要な所にだけ軌道を敷く。
要は使い方次第。
人もいない広大な所での自動車ならば、
電池はあきらかに不向きです。
少量短期間なら技術でカバーできても、
大量長期間となればこれはとても無理。
超効率的な太陽光発電を作り、
それで電気を造りながらなら、
これは良いものになるだろう。
ハイ!
・・・・・
そこで結論です。
脳内で作った看板を頼りにするのはいいが、
それが現実にそぐわなければ、
それは止めた方がいいだろう。
人間だれしも間違うことあり。
それなら嘘とは言えない。
でも分かっていながらなら明らかに嘘。
今般のこれらの件は明らかな嘘である。
だから怒っているのです。
でもです、
この事の場において、
人の事はだませても、
神の事はだませない。
現実によって必ずしっぺ返しを食らう。
聖書はそれを神の裁きと言う。
そして何度も何度も警告している。
私の怒りなどはどうでもいい、
これをどうするのか、
さあどうする、
さあどうする。
てか、
今更どうしようもないだろう、
ただ世があけるのを待つだけ、
てか世は必ずあける。