ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ふんべつ

2024-09-30 09:06:08 | 日記・エッセイ・コラム
人間はこの世界を分別している。
ちなみにこれは「ふんべつ」と読む。
ゴミの収集ではありません。
この分別は言葉に依って育てられる。
でもこの言葉最近ほとんど聞かない。
「ぶんべつ」はよく聞くが。
ゴミが増えてるからかもな。
特に東京の永田町あたりで。
これが昨今の状況なのです。
言葉に育てられたこの分別、
それが起伏と陰影をつくり、
そして文化文明をもたらす。
なのにその分別を消し去り、
茫漠たる砂漠を広げるのみ。
字義は體を現わすと謂うか、
よくぞ言ったりの文化文明、
その字をかえたら分化分明、
それがもう息も絶え絶えに。
・・・・・
起伏と陰影は自然のあかし。
これをなべてなくしてしまえば、
そこは必ず砂漠と化してしまう。
現にある砂漠はそういう所です。
サハラ砂漠にゴビやタクラマカン砂漠。
してもそこは緑あふれる時代もあったようだ。
雨が少なければ草原にでなければ森に。
それが今では御覧のとおり。
気候変動もあるし人が関われば尚のこと。
緑は一旦無くなれば、
その回復は相当難しいかと。
これはあくまで自然のこと。
これはこれで問題なのだが、
私が心配なのは心魂のこと。
虫のようにまんまに生きるなら、
てか體を主体にして生きるなら、
自然はそれを壊さない。
それを壊すとすれば人間である。
これが私の一番の危惧なのです。
てか今まさにそれが進行中。
それは言葉を持ったからで、
それが心魂を表に出さしめ、
そして分別を育てるのだが、
その分別が今消されている。
それは起伏と陰影の消失で、
それはそこを砂漠化させる。
今の政策の多くがそちらに向いている。
移民もそうである。
移民が必要だとは嘘である。
要するにすべてはやり方だ。
安易に他人に頼るのは危険。
人間に言う言葉ではないが、
人もやはり地産地消である、
てか棲み分けに依る共生と謂うべきか。
まあそういうことです。
文化が違えば移民は異民となる。
その土地の文化を尊重するならいいが、
己の生き方を無理強いするなら、
ときに完全なる異民となる。
では移民とは何なんだ。
それがその土地が好きでそこに馴染んで生きたい、
と言うことなら分かる。
それなら異民にはならない。
世界はひとつとはよく言われる。
これがまた一寸気になるのです。
これは存在すべてを想定して言ってるのではない。
人間だけを想定してのことです。
今やサピエンスだけになった人間世界、
それを以って一つだと。
枠をはめその枠内をひとつだとはいつでも言える。
その枠をサピエンスの別れである人種とすればそうではない。
その枠を文化文明としてもそれはひとつではない。
これは人間の分別なのだがこれがときに余りに恣意的になる。
今それを言ってるのが所謂グローバリズムである。
てか彼らには目的があるのです。
あくまで目的(支配?)のため。
だから私は毛嫌いしている。
そうではなく言ってる人もいるのだが。
そこでよく使われる言葉に平等がある。
存在という究極の一点ではそうだろう。
動物や植物などの生命やそうでないものも含めて。
でもその一点を除けば現実には平等はありません。
まったき同じはないのです。
皆それぞれに違うのである、
そこには起伏や陰影がある。
それが現実で各々の起点はそこにある。
それを無理やりならしてしまえば、
エントロピー増大の極致となって、
ときにすべてが止ることに。
勿論グローバリストはそんなこと百も承知。
彼らは彼らの目的のため言ってるだけ、
噓も噓の大嘘です。
平等と言えばもう一つ現下の大問題が。
それは男性性と女性性のことです。
この違いは大きいすこぶる大きい。
にも関わらず同じだと言っている。
言っておくが、
同じ面を見れば同じ、違う面を見れば違う、
こんなの当り前である、
言うのもバカバカしい。
これは平等のはき違えである。
男には男の體と男の心がある。
女には女の體と女の心がある。
これは厳然とした事実である。
このことLGBT~が証明してる。
體だけでなく心があることを。
男の體に女の心があることで、
女の體に男の心があることで。
誕生の過程では體が先だと思うが、
影響はむしろ心魂の方が大きいか。
その発露がそれぞれの文化となり「らしさ」となる。
ゆえLGBT~にはLGBT~の生き方がある。
彼ら彼女はその現実を生きるのである。
そこにあるそれぞれの生き方が文化となりらしさになる。
それを分別によって区切れば、
男の文化女の文化男らしさ女らしさ私らしさになる。
それが地域の文化になり国の文化となるのです。
それは家風や社風にもそして国柄ともなる。
しても文化やらしさはときとともに移り変わる。
それは鎖となって人を縛るものではないと。
それは人を育てるために柔らかく包むもの。
これらすべて言葉の技であり、
それを日本では分別とか言う。
人間は違いを知る生き物です。
それが言葉の技の本質である。
人間はその言葉と生きて行く。
ここはしっかり押えておこう。
てか、
なんか取り留めのない話だが、
ついでにもう一つ思うことを。
言葉はそも中立である、
良きことを示しても悪しきことを示しても、
それはそれを示すためのもの、
ともに必要だからあるのです。
それはその言葉自体の良し悪しではないと。
それはその「言葉」の役割なのである。
それに「言葉」は人を差別しない。
人を差別するのは人であり人の心である。
どんな言葉でも悪意を持って言えばそれは差別語となる。
どんな言葉でも悪意がなければそれはただの言葉である。
こんなの当り前すぎて、
言うのもバカバカしい。
てか、
・・・・・
だから私は言うのです、
この世界は嘘と狂気で満ちていると。
この世界とは今の世界のことである。
神の言葉は知らず、
人の言葉は基より神の言葉ではない。
人の言葉は人が創りしもの、
それは世界を分別するもの、
それは物事を分別するもの、
ゆえそこに文化文明がある。
思えば直近の大嘘、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
ちょっと前の大嘘には例の男女共同参画。
そも男女の共同なければ命は生まれない、
人類はその初めから男女共同参画なのだ。
敢えてこれを持ち出す理由は如何?
こんな世界はもうヤダヤダ、
駄々っ子ばかりでヤダヤダ、

千年王国

2024-09-23 09:44:10 | 日記・エッセイ・コラム
これはイエスの言う御国である。
イエスの再臨後に訪れるという。
そこは争いのない平和な千年王国と言われる。
しても人には喜怒哀楽と謂うものがあり、
集まって生きていれば摩擦はあるもので、
てかむしろ適度な摩擦は必要であります。
それを人は愛とか絆とか言うが、
これは実は無くてはならぬもの。
でも摩擦は過ぎれば軋轢となる。
ゆえ争いがまったくなくなることはない。
にしてもそれが大ごとにはならない世界、
そういう世の中になるのだろう、
それが千年王国だと、
・・・・・
でも条件があろう。
現下の言葉の有様では無理です。
心魂の発露である言葉であるに、
その言葉が心魂を縛ってしまう。
しかもそこに嘘と狂気が紛れ込むのです。
もはやどうにもなりません。
そこでです、
他の生き物、言葉を持たない他の生き物、
彼らがやってる意思疎通に学びましょう。
それは言葉でなく全身全霊でやっている。
つまり「體」でやっている。
そこには嘘が入り込まない。
てか多分狂気もないだろう。
精神世界のジャンルではよく言われることがある。
そのような意思疎通が必要だと、
嘘と狂気の入り込む余地のない。
例えばテレパシーとかのような。
千年王国にはこれが必須となる。
それも当然に言葉を持ったまま。
条件とはこのこと。
だからですだからのイエスの再臨である。
これを目の当たりにすれば世界は変わる。
それも瞬時に変わると。
でも本当に起こるのか、
聖書(新約)はそう言うのだが。
してもこれは大戦争の後でのことである。
世界が一旦壊れた後でのことである。
今まさに世界は壊れている最中、
ここでもし戦争が起これば、
ついに再臨が起こると、
それは良いとして、
その前が問題、
その前が。
でもSNSではこうも言われている。
日本が立てばそれは止められる。
大難が小難で収められると。
してもそれは日本が立てばです。
現下のこの惨状で日本は立てるのか。
自民党の総裁選びのあの状況で。
もう溜息しかない。
救いは陛下の存在、
それを信じるしか、
・・・・・
条件はさておいて、
ここで現状を思う。
人間は言葉の生物、言葉と生きて行く。
言葉は人類に文化・文明をもたらした。
文が生活を化える・文が明かりとなる。
これを手にしたらもう戻れない、
その前の世界には。
それは良いのだが、それが今この惨状。
その文の大元の言葉が人を壊している。
人を壊す道具となっている。
てかそのことに気づかない。
言葉はそこに違いを感じたとき、
線を引いてそれを二つに分ける、
そしてそれぞれに印をつけます、
それとこれ又はそれとそれ以外、
そして違いを知る。
これを分別と謂う。
この分別が今は息も絶え絶えに。
例えばです、
雌雄という大きな違い、
これを蔑ろにしている。
動物は種類によって分けられる。
それは雌雄によっても。
種類の違いは見た目にあきらか。
雌雄の違いは見た目ではそれ程でもない。
でも考えてみて下さい、
その違いは雌雄の方が圧倒的に大きいと。
にもかかわらずその違いを無くそうとは。
人間にだけではあるが。
それが今起きています。
これは分別を遠ざける。
せっかくの分別なのに。
このこと雌雄の違いだけではありません。
他にも多義に渡っていろいろと。
ときに差別と謂う言葉が重宝されている。
この言葉が次々と分別を押し込んでいく。
その圧力の凄まじさは実に恐ろしき限り。
嘘と狂気はここに凝縮。
これでは千年王国は夢のまた夢、
どうするのか神国日本、
陛下を頼るのはいいが、
まずは国民が立たねば、
ハテさて、
・・・・・
にしても難しいのです、
言葉を持ったまま嘘と狂気を免れるのは。
言葉は分別をもたらすがそれは同時に迷いももたらす。
ならどうする、
簡単です戻ればいいだけのこと、
體に戻ればいいのです。
脳はそも體の一部です。
それは支配者ではない、すべてを繋ぐものです。
ための核心であります。
日本にはその核心があるのです。
あとは民草が立つだけ、
千年王国はそこにある、
うん!

かみの「こと」

2024-09-16 10:06:46 | 日記・エッセイ・コラム
聖書の初めの初めの話し、
神は初めに天と地を創られた、と。
地は形なく淵(水)が覆って、いたと。
この天地とは謂わば「ば」である。
神は光あれ、と言われた、すると光があった。
これが世界の始まりです。
世界は光から始まります。
それにしても水はあった、
そも知らなかったのだが、
光の前にあったのである。
世界を命の始まりとするなら、
それは光合成から始まる。
ここにその水と光がある。
もうひとつ必要なものが。
それは二酸化炭素である。
これも初めからあったか。
そこはよく分からないが。
まことに妙なることです。
・・・・・
「ば」とは漢字では「場」と記す、
これは天地であり、次に光が創られた。
それは「ことば」で創られた。
これは漢字で言葉と記すが事端でもいいかと。
意味合いとしてはですが。
でもやはり「言」がその本意かと。
人は言葉を持ったからこそ「こと」を知った。
それは口から出る「ことば」に依ってであり、
だからの「言」であると。
言葉の葉は「は」であり「ば」ではない。
でも發音上濁音となり「ば」と發音する。
それは端と記しても同様。
しても「ことば」は「事場」とも記せる。
この場合の「ば」は發音上ではなくまんまである。
「は」ではなくそも「ば」である。
微妙に違うのですが、
「こと」は場にあり、ゆえの「事場」である。
想えば「は」は個別の事象のこと。
想えば「ば」はそれらを覆うもの。
ここにも現れている、
一にして全・全にして一、これが世界である。
てか「ことば」はその一言で、
これらすべてを表現している。
そこで思うのです、
言葉とはなんとも、
いとおかしきもの、
かげろうのごとく。
・・・・・
かくの如く、
日本語と聖書はその根に於いて繋がっている。
してもこのこと他の言語ではこうはいかないだろう。
日本語だからこそ読み解けるもの。
これは既に言ってきたが、
一音一意の和詞と一字一意の漢字、
この組合せが絶妙、
この妙を思わざるを得ない。
これも既に言ったことだが、
最近のいろいろな事象から、
特に日本語がその属する系統が不明なること、
またペトログリフの研究からも、
日本語は最も始まりに近い言語かと、
つくづくと思うのです。
ちなみに唐突であるが、
冒頭で言った光合成のこと。
水と光は上で触れたが、
二酸化炭素のこと、
これは聖書には出て来ない。
当り前でしょう、ときにその言葉はなかったから。
でも存在としては当然あったろうと。
ともかくそれで納得しておこう。
でも今この二酸化炭素が目の敵にされている。
これが分からない。
まったくもって分からない。
命の糧であるのに。
だからしつこくも何度も言って来た、
余りの大嘘にちょっと度が過ぎたが、
それは、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
というもので、
これはときの私の言い回しで念仏のようなもの。
ここにある脱炭素がそれである。
実に不可解。
てかそれはそれとして、
次に、
・・・・・
聖書には炭素は出て来ない。
先に言ったがその言葉はときになかった、
神の言葉でどういうのかは知らない。
それは現実として現れるだけのもの。
人の言葉はそれを置き換えてるだけ。
その置き換えがまだ十分でなかった。
それだけのこと。
ここにあきらか、
聖書はその根は神の言葉であっても、
実は人の言葉でできている、
このことに異論はなかろう。
神話とはときの人の言葉で、
神の「こと」を解き明かそうとしたもの、
それもときを重ねて磨きにみがいて、
まだ嘘という念がないときから。
これが歴史の始まりとなる。
かみの「こと」は現実として現れるもの、
ヒトの「こと」はそれに音を当てたもの、
これは言葉の上にしかなく、
ただのレッテルである。
この当り前がどうにも分からないようだ。
しても現今はそれが抜き差しならぬ狂気となっている。
それは欧米の否一神教の内奥に潜む。
それはレッテルを現実と混同させるもの。
それを一にリベラルと言う。
リベラルとは神を捨てた一神教である。
神を捨てた一神教とは言葉として矛盾、
してもそう言うより他ない。
それは混同するだけでなく、
それをまんまに現実とする、
謂わば自らを神とするもの、
胡散臭いにも程がある。
これが最大の癌である。
それを知ろう、

歴史のない国

2024-09-09 09:12:37 | 日記・エッセイ・コラム
という訳でアメリカは歴史のない国である。
神話も怪しい。
ピューリタンが迫害を逃れて新天地にやってきた、とか。
迫害を逃れてもっと大きな迫害を持ってきてるし。
それにしてもどうも二つのアメリカがあるようだ。
一つは神話の通りの人々。
一つは神話に紛れて災厄を持ってきた人々。
しても過去に何度も大統領が殺されている。
犯人は分かっていたり?そうでなかったり。
てか直接の犯人は真犯人ではない。
一国の元首であり最高権力者である、それもそれなりの大国。
それが私的な恨みつらみやお金のもつれで殺される筈がない、
これは間違いなく権力闘争である。
ということはもう一つの権力の仕業である。
この場合絶対に犯人は捕まらない。
犯人は犯人を捕まえません。
それにしても思えば、
殺されたのは国家紙幣を発行しようとした者らである、
あるいは中央銀行を良しとしない者である。
ゆえ犯人は初めから分かっている。
にもかかわらず、
新事実が浮上したとか言って何度も番組がつくられる、
目くらましもいいところだ。
てかこれは彼のJFKの例である。
そのアメリカで大統領選挙が始まっている。
してもさっそく暗殺騒ぎがあった。
今回は紙幣どころの騒ぎではない、
そも政策がまったく違うのである。
さてどうなるのやら、
・・・・・
私は思うのです、
歴史とは神話でありそれに続いての人の物語りである。
そしてそれは朗々と「歌う」もの、
ゆえに音霊であり言霊である、
それがまさに歴史である。
前にも言ったが日本は歌う国・物語りの国、
ゆえに歴史の国なのです。
歴史は言葉を持つがゆえに現れてくるもの。
人間以外の生き物にはありません。
己と世の間に線を引かない彼らは、
過去と未来を包含した野太い今に在るもの。
個としての私があっても、その前に線は引かれない、
ゆえそこはまんま神の懐。
ヒトはそこに線を引いた、ゆえ言葉を持ったのだが、
ゆえにその懐から離れた、それは思い込みなのだが、
一部の人らはそう思った。
ちなみに日本人にその思いはない。
日本人はみな神の流れの下にある。
ゆえ日本人はすべて歴史人である。
過去の記憶を身に纏い未来を輝かせる、
それが今の今でその今を生きる歴史人。
過去の記憶とは二つある。
一つは體の記憶でそれはDNAである。
一つは魂の記憶でそれは言葉にひそむ。
それを言霊という。
これを持つから歴史があるのです。
それにこれも既に言ったことだが、
ヒトの言葉は虚構である。
それは神の言葉を倣うものである。
その言葉は直接には何も創らない。
只のレッテルでしかない。
創るとすれば人が持つもう一つの力による。
してもそれは神の力に倣う言葉と伴にある。
その言葉が神から離れたらそれもなくなる。
虚構とは神にあらずとの立場、
その立場がそれを虚にしない、
でも構えを外せば嘘そのもの。
そういうことです。
アメリカはその構えを外したものを振り回している。
でも拠点はアメリカだが実は欧米と言うべきか。
であるのだがこれが歴史がないと言う理由。
てかこれは私の一方的な思いなのだが、
要するに嘘つきやと言いたいだけ、
歴史を捨てたおお嘘つきだと。

それにしても虚構という言葉、
これはフィクションとも言われるが、
そこには嘘はない。
その立場・構えがそれを担保している。
にしてもよくできたフィクション(物語り)は、
ときに人間真理をあぶりだす。
虚構でも真理の一旦は担える。
要するに構えが大事なのです。
てかすべての情報はどんな情報でも嘘と隣り合わせ。
それが絶対だと言うなら、それはいつでも嘘となる。
私はずっとそれを言っている。
でもそれが伝わらないのです。
残念ながら。
フィクションは横に置いてノンフィクションのこと、
この書き物はどうだろう、
問題はむしろこっちの方。
事実を書いているといっても間違いや勘違いはある。
それをもって嘘とは言えない。
ならここでもやはり構えが問題になろうと。
フィクションを事実だと言ったり、
事実を知りながら反することを言えばそれは嘘でしょう。
でもそれは本人にしか分からない。
そこがすべてである。
だから世間で謂う偽書にも異論がある。
私は世間で偽書と言われていても、
それは横に置いて一応認めている。
でも偽書は現実にはあるでしょう。
それも幾らでも。
ともかくも情報には気を付けましょう。
結局最後は自分に問うしかないと。
それも脳だけではなくむしろ體に。
脳は體の一部でしかないのである。
體とはつまりは己の全細胞のこと。
日本には良い言葉がある、
それは「腑に落ちる」という言葉、
最後はそれに従おう。
ちなみに余談ですが、
現下の教育はこのことを教えない。
そして結果洗脳教育と化している。
嗚呼?鬼無辻無惨、
・・・・・
てか歴史のない国なら隣りにもあるし、
シナとかチョウセンとか。
アメリカもびっくりの戦後に出来ただけのクニ。
そんな国だからか歴史を振り翳す。
そんな国だからこそかな。
もうどっきりテレビも吃驚の状態。
歴史は人が生きてきた「こと」の流れ。
それは「ことば」と伴にある。
ゆえ物語りとなる。
しても言葉はそも虚構である。
それは構えである。
構えにはいろいろあろうから、
事実にもいろいろある。
それが事実の一端ならそれはそれなり。
そこに嘘が入ればもはや歴史ではない。
ゆえアメリカには歴史がないと言った。
単に短いからではない。
てかシナもチョウセンも同じ。
ちなみに、言葉を持たない虫らには歴史はない。
彼らは過去と未来を包含した野太い今を生きる。
歴史?などどこ吹く風。
てかそこはまんまに神の「こと」の中。
そういうことですから、
むしろ無くて良い。
うん!

震源地

2024-09-02 08:30:31 | 日記・エッセイ・コラム
ちょっと驚きました。
過日の宮崎県南部での地震のことです。
気象庁は南海トラフ地震臨時情報として「巨大地震注意」を出しました。
思い切ったことをするものである。
てかこんなことは初めてだと思う。
出すには何か事情があったのかも。
地震が予知出来ないとはもう常識。
でも可能性ならそれは100%だろう、可能性だけなら。
日本は地殻変動を起こすプレートの交わりにある。
四つの大きなプレートの。
ゆえ予知より対策である。
地球はどうも変動期に入ったようだし。
しても四六時中身構えているのも問題。
つまりは普通が大事ということか。
それも覚悟を持った普通がである。
あらためてそれを思うのです。
それにしても思い切ったことをしたもんだ。
事前に取り決めでもあったのかな、
それとも他に何かが、
まあよく分りません。
・・・・・
上は地震の話である。
しても世界は別の意味で今激しく振動している。
この震源地は既に何度も言っているが三つある。
上になぞらえれば、それは三大プレートと言えるだろう。
それがあちこちで鳴動しています。
ひとつリベラル、ひとつ中華思想、ひとつ原理主義、
この三つである。
その中心にあるのが「リベラル」です。
ちなみにこれは私の持論である、あくまで私のです。
政治とは仕切りです。
人を如何に仕切るかが要諦である。
ために必要なのが言葉である。
それが人々を納得させる。
そこに法律が現れる。
これは大いなる仕切りとなる。
この仕切りの重しになっていたのは神や仏。
てか人は言葉を持ったときに神に出会っている。
これも私の持論だが、それが根底にあると。
それが重しになった。
日本も例外ではない。
してもその在り方は違います。
神を直接の重しにはしません。
神はそれぞれの内に在る。
だから法とは人と人との約束でしかない。
法が先にあるのではない。
あくまで人間同士の約束。
その一部を明文化したのが法。
そう言うことである。
だから口約束と書面とに違いはない。
だから嘘を嫌うのだ。
だから信を重んじる。
だから誠を標榜する。
あの新選組もである。
しても自然界を見ればである、
言葉なく法律もない。
でも秩序は整ってる。
人間も自然物である。
そも秩序はあるのだ。
でも言葉を持ったが故そこが乱れた。
ゆえの法であろうと。
ならそれはやはり必要であり、
それも最大公約数でいいかと。
まあ少ない方がいいのである。
無くてもいいならそれが最高。
ゆえ私は必要悪と言っている。
本当に必要なものは法以前の秩序である。
それを言葉で言えば道義道徳礼儀である。
それがなければ法に意味なし。
今はそこが曖昧になっている。
てか誰もそれを言わない。
法がすべてかのよう。
そしてついに立法司法行政すべてが、
その本義を見失い形骸化。
そして今リベラルが暴走。
法を弄ぶだけでなく、
己の言葉を神とする。
自由・平等・友愛・権利・差別ほか多文化共生とか、
これらはレッテルでしかない。
なのにレッテルの貼り得状態。
なかでも最悪なのがポリコレ。
ここにリベラルの正体がある。
これでもうお仕舞い、
時猿渡。
・・・・・
ところで、
リベラルとは言葉を弄ぶもの、
しかして自分中心の個人主義。
これが私の定義です。
これでお分かりかと、
これ中華思想に同じ。
なにも変わりません。
原理主義も同じかと。
人の言葉を神の言葉と偽って、
一字一句も変えさせない。
イスラム法学者とは、
それがいけないから、
止むを得ずそれをときに再解釈するもの、
と私は理解している。
てかサウジアラビアはその兆しあり。
ちなみに、
原理主義はイスラムに限ったことではない。
宗教には往々にしてあるもの。
問題は宗教にあるのではない。
原理主義に固まって言葉を失うこと。
であるからこれはリベラルそのもの。
ということで、
この三つは大方重なっている。
てかほぼ同じもの、
うん!