最近、アンチブログで「創価スイッチ」と言う単語がはやっている。(笑)最初に書かれたのはどのサイトなのかは知らないが、どこなんでしょう?>だれか。
>「私は創価学会に入信していて信仰上、他の宗教は邪宗で、一切の神社仏閣やお守りに至るまで謗法(ほうぼう)なので神社仏閣は行くことが出来ません。お守りも頂けません。」
まぁ、、上のが創価の教義なんですが、最近は、神社仏閣は観光としていくのはOKになっています。もちろん、信じたりお参りするのは当人の信仰心の問題です。お守りも今では人から貰って飾る分には問題ないのかも。
とあるブログで恋人から「じゃあさ、○○神社に行こうよ。」って言われて突然、創価スイッチ、オン!
「○○神社?神社なんて何しに行くの。神社に行ったところで何の意味がある?ただ有名だから行くなんて理由になってない。」
これを読んで私も創価スイッチを思い出しました。
つきあい始めてしばらくたった頃だったと思います。彼女の妹さんがお守りを二つ買ってきたので、彼女が私の所に持ってきました。まだ、お守り御本尊の配布(当時は病気や出張など特別な理由がある人だけ)が盛んになっていない'96年なので、当然、受け取ってはいけないと言う創価の教義でした。
「これは受け取れない。創価学会ではお守りは謗法(ほうぼう)なので捨てるね。妹さんには受け取ったことにしておいて「ありがとう」って言っていたと伝えておいて」(主旨)ということを言ったと思います。で、彼女の目の前でゴミ箱に捨てた記憶があります。そういえば、絶句してました。(笑)それまでの良い雰囲気が今考えると凍り付いたわけですが(笑)私の心の中では
「お守りという魔がやって来た。しかし、魔を退けたぞ!あー。危なかった。まだ彼女には折伏してないけど、いつか分かって貰えるだろう。」
と達成感と勝手な楽観主義と結果オーライ主義を期待していました。
「私の中では雰囲気が悪くなったとは思ってないのです。」
「魔がやって来た。」と思い、ドキッっとして冷や汗をかいたので、この辺の気持ちはよく覚えています。その時は記憶に間違いがなければ、彼女にも学会の旗を揚げていたはずです。(これは創価の人にしか分かりませんが、職場などで自分が学会員であることを周りに言うのは「学会宣言する」「創価の旗を揚げる」、といいます。)
だからこの辺の感覚は人によって、魔を退けた!やった!あるいは、危なかった。。なのかは様々ですが、創価の思考はこんな感じです。
後日、車の中で彼女にこの件で妹さんのことを聞いた気がしますが、よくその辺は覚えていません。やさしい娘さんだったので、今考えるとたぶん妹さんには捨てたことは言ってない気がします。
ごめんね。yちゃん。妹のMちゃん。創価の教義もこうしてクルクル変わるしこういう意味でも被害者ですね。私と彼女も。結婚してるはずですが今どうしてるのかな。
それに創価だって今ではお守り御本尊を積極的に配布しています。神社のお守りを否定してきた創価はホント都合が良いですね。神社のお守りを持っているだけの受け身な信仰では駄目だ。というのが、過去の創価の教義でした。謗法(ほうぼう)払いといって個人の邪宗の宗教物を捨てさせるのです。自己責任でね。
もちろんお守りでも正しいのと間違っているのがある。御本尊は正しくて神社のお守りは間違っている、というのが「今の」創価論法なのですが。
この創価スイッチは自分には当てはまらないと思ってました。なにしろバリ信者だったので、職場でも学会宣言していましたし、彼女にも創価であることは自分から伝えましたし、後に彼女を折伏もしました。だから24時間創価だったので、スイッチは入りっぱなしで(笑)(^o^)/(^o^)/、つまりスイッチじゃないと思ってたんですね。今まで。スイッチはオンオフが有りますからね。(笑)まぁでも私も同様に創価「ターボスイッチ」創価「連射スイッチ」創価「コマンドスイッチ」創価「加速スイッチ」創価「パワーアップスイッチ」(分かる人だけ分かってください(笑))はありました。ってことで。
とあるブログ主さん、ありがとう。
以上。
>「私は創価学会に入信していて信仰上、他の宗教は邪宗で、一切の神社仏閣やお守りに至るまで謗法(ほうぼう)なので神社仏閣は行くことが出来ません。お守りも頂けません。」
まぁ、、上のが創価の教義なんですが、最近は、神社仏閣は観光としていくのはOKになっています。もちろん、信じたりお参りするのは当人の信仰心の問題です。お守りも今では人から貰って飾る分には問題ないのかも。
とあるブログで恋人から「じゃあさ、○○神社に行こうよ。」って言われて突然、創価スイッチ、オン!
「○○神社?神社なんて何しに行くの。神社に行ったところで何の意味がある?ただ有名だから行くなんて理由になってない。」
これを読んで私も創価スイッチを思い出しました。
つきあい始めてしばらくたった頃だったと思います。彼女の妹さんがお守りを二つ買ってきたので、彼女が私の所に持ってきました。まだ、お守り御本尊の配布(当時は病気や出張など特別な理由がある人だけ)が盛んになっていない'96年なので、当然、受け取ってはいけないと言う創価の教義でした。
「これは受け取れない。創価学会ではお守りは謗法(ほうぼう)なので捨てるね。妹さんには受け取ったことにしておいて「ありがとう」って言っていたと伝えておいて」(主旨)ということを言ったと思います。で、彼女の目の前でゴミ箱に捨てた記憶があります。そういえば、絶句してました。(笑)それまでの良い雰囲気が今考えると凍り付いたわけですが(笑)私の心の中では
「お守りという魔がやって来た。しかし、魔を退けたぞ!あー。危なかった。まだ彼女には折伏してないけど、いつか分かって貰えるだろう。」
と達成感と勝手な楽観主義と結果オーライ主義を期待していました。
「私の中では雰囲気が悪くなったとは思ってないのです。」
「魔がやって来た。」と思い、ドキッっとして冷や汗をかいたので、この辺の気持ちはよく覚えています。その時は記憶に間違いがなければ、彼女にも学会の旗を揚げていたはずです。(これは創価の人にしか分かりませんが、職場などで自分が学会員であることを周りに言うのは「学会宣言する」「創価の旗を揚げる」、といいます。)
だからこの辺の感覚は人によって、魔を退けた!やった!あるいは、危なかった。。なのかは様々ですが、創価の思考はこんな感じです。
後日、車の中で彼女にこの件で妹さんのことを聞いた気がしますが、よくその辺は覚えていません。やさしい娘さんだったので、今考えるとたぶん妹さんには捨てたことは言ってない気がします。
ごめんね。yちゃん。妹のMちゃん。創価の教義もこうしてクルクル変わるしこういう意味でも被害者ですね。私と彼女も。結婚してるはずですが今どうしてるのかな。
それに創価だって今ではお守り御本尊を積極的に配布しています。神社のお守りを否定してきた創価はホント都合が良いですね。神社のお守りを持っているだけの受け身な信仰では駄目だ。というのが、過去の創価の教義でした。謗法(ほうぼう)払いといって個人の邪宗の宗教物を捨てさせるのです。自己責任でね。
もちろんお守りでも正しいのと間違っているのがある。御本尊は正しくて神社のお守りは間違っている、というのが「今の」創価論法なのですが。
この創価スイッチは自分には当てはまらないと思ってました。なにしろバリ信者だったので、職場でも学会宣言していましたし、彼女にも創価であることは自分から伝えましたし、後に彼女を折伏もしました。だから24時間創価だったので、スイッチは入りっぱなしで(笑)(^o^)/(^o^)/、つまりスイッチじゃないと思ってたんですね。今まで。スイッチはオンオフが有りますからね。(笑)まぁでも私も同様に創価「ターボスイッチ」創価「連射スイッチ」創価「コマンドスイッチ」創価「加速スイッチ」創価「パワーアップスイッチ」(分かる人だけ分かってください(笑))はありました。ってことで。
とあるブログ主さん、ありがとう。
以上。
ブログランキングがとうとう59位と成りましたね。笑
嘘つきさんの力作の数々の創価学会問題記事が、全国の創価問題で悩む人々に読まれる事を熱望しますよ。
しかし、短期間の内に此れだけの記事を書いた事には実に敬意を表します。
それでは。
8月、2月のアクセス数、メール相談数が少なければ、まぁ成功したと言えるのかな。大きく伸びたらアンチ創価リンクwikiでも誰か作ってくれないかな?
>創価問題で悩む人々に読まれる事を熱望しますよ。
落ち着いて考えて欲しいですね。
>短期間の内に此れだけの記事
とんでもないです。もうネタはないと思うんですけどね。(笑)何か無いかぎりは。
昨日、一緒に過ごた彼女と話して、
時々、私は「創価スイッチ」かもしれないな、とわかりました。やはり、抑えながらも表れているようで、その彼女、私と今後も一緒になろうと真剣なので、なにか気になり出てしまうようです。彼女は無宗教そのもの。色を染めるわけにはいかないほど、結構しっかりしているタイプです。ただ議論討論する程度なわけではないな、とわかりそうに思います。
神社のお守り一つにも学会員さんは苦労するのですか~。困ったもんだ。
世間が学会に近づかないのは教義が理解できないのではなく、行動がおかしいことに気づいてくれないかな~。
それにしても「創価スイッチ」ってパブロフの犬みたいに突然スイッチが入るんですね。もしテレビの旅番組で有名な神社やお寺が写ったら嫌な気分になるのかしら。ハリウッド映画でキリスト教が出てきたら邪教と叫んだりして。
学会正義と同じですね。思考停止になっている。もったいないな~。
良いものは良いと感じることは当たり前の事だと思うし、それを周りの人達に伝えたい気持ちも同じ様に理解できるのですか、どうも狂信過ぎて近寄れない。
お題目を何時間も上げて、創価スイッチ全開でやってきたらみんな逃げますものね。
やっぱり、おかしな団体ですよ。管理人さん。
学会員としての自覚と責任。身の振る舞い方。そんな言葉をよく聞くけど、その前に考えるべきことがたくさんあるのでは、と思うのです。
まず非学会員同士の気楽な映画の会話とは違うものになるんだろうな。
学会ではあの原作&映画をどう捉えているのか・・・単なるフィクション&エンターテインメントということを建前では言うのか、それともやばいので無視するのか、それとも邪教云々と言うのか・・・大作君が何か言えば右に倣えするのだろうが、まあ言及はしないだろう。
>お守りという魔がやって来た。しかし、魔を退けたぞ!
そうそう、学会組織の中にどっぷり浸かっていると、こういう考え方になりますよね。
相手の困惑など目に入らず、「魔を退けた」「悪を攻め抜いた」と達成感を持っちゃうんです。今考えると私って本当にイタイ人だったなと思います。
創価学会嘘つきさんと彼女さんも、学会がなければ結ばれていたのかな。何も知らないくせに勝手に想像してごめんなさい。「今どうしてるのかな」の一言が何かせつなくて…。
>pocket_cardさん
>私は「創価スイッチ」かもしれないなとわかりました。
創価の人なら誰でも創価もしれませんね。
>ひまわりさん
>学会員としての自覚と責任。身の振る舞い方。
責任は本尊流布までで幸福の責任は本人にあるとするのが創価です。信心足りない、ってね。
>創価瓦解さん
>ダヴィンチ・コードの話をしたら
ネタバレOK。どんな映画ですか?
>こすとこさん
>記事にしていただいてありがとうございます(~o~)
いえいえ。結局自分の所に書いてしまいました。w
>創価学会嘘つきさんと彼女さんも、学会がなければ結ばれていた
いや、これは学会が理由にはなってません。彼女は嫌だったかもしれませんが、その辺ははっきりとは聞かずじまいで別の問題が起こったので駄目になりました。過去記事を読んでください。
少なくとも私の祈りは叶ってない、つまり幸福は得られなかったって事です。結婚一つとってもね。
あれは現キリスト教の根底にある「キリスト神の子説」を覆す内容なので、創価学会は嬉々として読んだり見たり……は、しないですかね?w
映画はまだ見てませんが小説は読みましたー。
敬虔なるクリスチャンのあの小説に対する反応は、まるでカ○トに見えてしまいます…
宗教って怖いですね。
ダヴィンチ・コードは、キリストは神としてではなく、当初は人間として尊敬されていた…云々で、
私はもしかして、、このオチは、、と危惧した通り
「人間として尊敬する」でピンとくるもの、
そうです。「人間革命」に繋がるのです。。。(知らない人ごめんなさい)
もう、本当にガック死です。。
返って自信を持ってしまうように思えました。。
いや、まあ、映画だし、、とは思うものの…(笑)
>キリスト教の根底にある「キリスト神の子説」を覆す内容
確かに、創価学会員の中には嬉々としている人もいるでしょうね。しかし、良く考えてみれば、神の存在や神秘性を否定すると言う事は、仏の存在や仏性を否定する事と同義となりますので、創価学会でよく言われる仏が宿るなどの神秘性も信憑性が薄れるというものです。
まあ、此れに付いては創価学会に限らず、宗教界全体に影響する事だとは思いますが。
しかし、生死をかけ改革運動をしたイエス・キリストに対し、お金をかけ名誉や称号の獲得運動ばかりをする「池田大作氏」、なんともなぁ・・・。
それでは。