創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

440.奉請、禮佛偈、奉送など他宗のお坊さんから読み取れるニュアンス(その2)

2018年04月27日 00時08分18秒 | 一般仏教
●他宗の勤行を調べてみては?

 ここからが本題です。
学会など正宗系教団を問題視出来るようになった人も未だに出来ない人も、色々な人の意見を読んだり聞いたほうが良いと私は考えてます。
ネットでも天台宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗、浄土宗、浄土真宗など、三寶(宝)、禮仏偈(念仏では讃仏偈とも)、奉請、奉送について書かれています。
勤行要典が掲載されている宗派もあります。

日本仏教の枠内の条件でもいいので、三寶、禮仏偈、奉請、奉送、勤行などを一ヶ月くらいかけてネット検索してみては如何ですか?
「浄土宗 三寶」
「曹洞宗 奉請」
「浄土宗 奉請」
「浄土宗 讃仏偈」
「曹洞宗 禮佛偈」
「曹洞宗 礼仏」
「曹洞宗 清規」
「天台宗 清規」
「天台宗 勤行」
「天台宗 奉請」
「浄土宗 勤行」などで検索して下さい。
宗派毎に開経偈、奉請の違いを見てみると面白いかもしれません。
日蓮宗聖典の勤行法式の仏教用語と全ての宗派を組み合わせたわけではありません。例です。
中国仏教を含めるなら「天台大師 清規」とか。
清規とかはお坊さん向けの教えかもしれません。

いろいろな宗派で勤行のCDが出ていますね。
内得信仰時代や男子部の20代の頃は「邪宗の坊主は録音テープを流して自分で勤行しない酷い奴ら」と教わりました。今や信濃町の広宣流布大誓堂で池田大作の勤行唱題が録音が流れるそうですね。
あの指導は一体何だったのでしょうか。

私の念仏系にもいくつかの流派があるのですが、調べると信徒用で「奉請、讃仏偈、三寶、奉送」のあるしっかりとした勤行要典となっていました。

●他宗のお坊さんの言葉から読み取れるニュアンス

 三寶、禮仏偈、奉請、奉送、勤行などを調べるとお坊さん個人や宗派の解説が書かれています。その際におおよそ次のような文章がある場合があります。

他宗が目に見えない仏に対して心遣いや気遣い、(合掌や歩き方まで)作法がわかると思います。
☆☆【事細かな作法や儀礼に基いている】

☆☆【僧侶である私は仏菩薩の身口意の言動をしますから、貴方も仏菩薩を信じ信仰の道を歩んで下さい】(主旨)
または
☆☆【僧侶である私は仏菩薩の身口意の言動に責任を持ちます。貴方の判断で僧侶である私や我が宗派を選んで下さい】(主旨)
とも読める文章もあります。
もちろん「僧侶である私は仏菩薩の身口意の言動をしますから、貴方の判断で我が宗派を選んで下さい」といった感じの文章もあります。

ニュアンスやなんとなくでいいので、☆印のような感じで気がついて欲しいです。

貴方の判断ということは、つまりは自己判断と自己決断ということです。
他人が信者の人生を決定する依存ではなく自分であり自立です。
宗派やお坊さんとの人間関係の距離も自分、自己で決める必要があるでしょう。でも全てが自己責任ではないのです。

正宗系教団の言動は「謗法だ!」「お前は解ってない」「お前は理解してない」「お前は信心が足りない(マイナス)」等々、呆れますね。

信仰や修行は積み重ねか、足し算(プラス)であって、教え教えられるのを喜ぶべきでしょう。
法華経非仏説が判明している現代なら、正宗系教団であっても天台宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗、浄土宗、浄土真宗などの皆さんに対して
「おぉ!あなたも希少な仏教徒ですか!仲間であり同士です。」これくらい言えないと法華経の価値はないでしょう。
もちろん、こんな経文も論釈もありません。私が勝手に言っているだけですが、現代では創価など正宗系教団に「宗教性がない」ことがわかるでしょう。

話がそれました。
マトモなお坊さんであれば、お坊さんから教えを受けた信者や会員に対し、100%自己責任などと無責任な話はありえません。
教えを受けるのは在家だけでなく、沙弥や若手の僧侶でもあるのです。
将来、彼らが老僧になって教えを受け継ぐ必要があるのですから、教えを受けた人だけに100%自己責任などとありえません。90歳の老人と20歳の若者二人だけの世界ではありません。教団ならなおさら、各年齢ごとに多くの人がいて集団なはずです。しかも同時代を生きているのですから。
大聖人直結というのは、おかしいですね。
日蓮遺文のとおりに教えて修行もするなら、日蓮本仏論はおかしいですし、日蓮遺文は日蓮宗の皆さんや私でも読めます。「僧侶は要らない宗教改革だ!」との創価の仏法僧を無視したあり方は異常だとわかると思います。
正宗についても法灯連綿や血脈相承の単語を口にすれば済む問題では無いことがわかると思います。

もくじ1の1番記事から21番記事に書いてきたとおりです。

教理教学や厳密な解釈や日常の作法だけでなく、教える側の背中や普段の言動、人柄で弟子信徒が育つことも大切であり、それがわかると思います。
分からなければ、仏教どころか宗教は止めたほうが良いと思いますよ。周りに不愉快を与えたり迷惑をかけるだけです。

可能な限り仏教用語の使用を避けましたし、ニュアンスに留めました。そううそ教や米山士郎教にならないでくださいね。
私は不真面目な念仏の信徒ですし、経本は持っておらずお葬式用の数珠しか持っていません。
良い機会なので買うかもしれませんが一度読んで「ありがたやありがたや南無阿弥陀仏」でもう二度と開かないでしょうね。(笑)
状況が変われば話は別です。

●もう一つの注意事項

 信徒会員レベル、つまり教えを受ける側の人々が本尊や勤行のあり方など、本来は口に出して良し悪しを語る内容ではありません。受けた教えそのものが仏菩薩の身口意や信仰目的の仏像、本尊、経典、勤行の次第などであるからです。
但し、教団の人柄や歴史など様々に比較するのは現代では当然のことです。
この比較対象の一つが勤行要典なだけです。
あくまでも正宗系教団の問題解決の為に書いていますし、今後も同等の批判記事は必要だと考えています。

お坊さんに本尊や修行、勤行のあり方など根拠の説明責任があるのは言うまでもありません。
根拠は前例か教論釈など仏典になるはずです。

以上

池田 魯参 (著), 天台大師にみられる清規思想, 印度学仏教学研究 通号 31, 1967-12-25, 130-131,

2018年4月28日 大聖堂ー>広宣流布大誓堂
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 439.奉請、禮佛偈、奉送など... | トップ | 441.三帰(さんき)と帰依と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

一般仏教」カテゴリの最新記事