●宗教教義は変わって良いのか?
結論としては創価や正宗の都合の良いように変わっていくと言うことですね。
第2次宗門問題以降、創価も正宗も微妙に教義を変えています。日蓮も釈迦仏法の改革者だったと言えるでしょう。それまでの教学から江戸時代に26世日寛が出て日蓮本仏論を説きました。
第2話 わしが創価学会をやめたわけ Sokaspirit.com - 現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
私個人としては法主が代々続いていると言っても、人間から人間(仏だって人間がなる。)の伝承?伝授?でしょうし人間(仏)の悟りの範囲の中のことだと思います。
ただし、悟ったと言っても日蓮の都合の良いように解釈した所があるかも知れません。私は全部の教典を読んだことはないですし、判断が難しい所です。教典を全部読んだ(らしい)日蓮は天台宗で学んでいますから、法華経を信じたのは自然なことだったと思います。非常に悪い例ですがオウム真理教のように若い時にオウムに洗脳されれば人を殺してもずっとオウムでしょう?
無量義教、法華経の非仏説などは当時の日蓮は知るよしもなかったでしょう。
創価学会に悩むすべての人へ:五時八教の教判 創価学会に悩むすべての人へ:四十余年、未顕真実 創価学会に悩むすべての人へ:創価学会側の苦しい言い訳 中世の思想の海に身を置く愚かさ
日蓮自身も御書(遺文)の中で宗教概念が変わっていく、追加されていることを認めて書いています。もちろん「良い事、高度な教え」として肯定してる訳ですけどね。
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兄弟抄
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師、智は日月に斉しく徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候ひしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給ふのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出だして、三国の一切衆生に普く与へ給へり。此の法門は漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給はぬ事なり。然れば章安大師の釈に云はく「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云。又云はく「天竺の大論すら尚其の類に非ず」等云云。其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立ち入りたる法門ぞかし。
太字の現代語訳
その時に天台智者大師が再び釈尊の仏教を明らかにされたばかりではなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から一念三千の如意宝珠を取り出してインド、中国、日本の三国の一切衆生に普く与えられたのである。 この摩訶止観の一念三千の法門は中国において始まった法門であるばかりではなく、インドの論師達でさえも明かされなかった法門である。
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つまり日蓮以前も変わっているし日蓮も変えているし、日寛も変えている?し、現在の創価も変えています。池田大作氏を永遠の指導者としています。高い教えで有れば?受け入れて追加してゆくと言うことですかね。無量義教などは単純に紙に墨で書かれた巻物になっていて当時の中国からキタ━(゜∀゜)━!!というだけで、「素晴らしい教えだ、中国から伝わってきた教えだ」「えぇ~それはすごい」てな感じで受け入れてしまったような気もします。wこれは日蓮が悪い訳ではないですけどね。
今後も変わってゆくことでしょう。特に創価学会は。
●日蓮正宗の教義も疑問
また、日蓮正宗の教義についても、非常に疑問です。やりとりの経緯をおおまかに時系列に並べておきます。目次に載せませんでしたが、 創価学会の信仰に功徳はあるか?:とあるブログで日蓮正宗の人との対話。 れんかさんにはあまり無理な折伏はして欲しくないですね。自分を大切にして欲しいです。創価にも正宗にも信徒を利用し煽る所がありますからね。ここではれんかさんへの抗議ではなくて正宗の教義に疑問と言うことで書いておきます。
創価学会の信仰に功徳はあるか?:創価の人でもみんな信仰観は人それぞれ ここのコメントで
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正しい御本尊とは (れんか) (そううそが「れんか」に訂正)
2006-08-29 20:20:40
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ここ以降のコメントを読んで貰えると私の考えは分かって貰えると思います。
主旨
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○時の御法主上人によって正しく書写され、認可と開眼がなされる。
これにより本門戒壇の大御本尊とつながっている御本尊。
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認可なんて人の気持ちです。開眼なんて何するの?人(僧侶)が本尊の前で唱題して終わりでは?
書き間違えのない様にチェックするというのが認可ですかね?
>御内証という「さとり」が人間から人間に伝える事が出来るならば、超能力であり、広宣流布は江戸時代前に終わっています。
超能力でないとして、勉強やスポーツの出来る出来ないという 能力の意味だとしても非常に疑問です。結局、御内証というのが超能力でも通常の力でもどちらも日顕氏は買春問題を起こすような人ですから非常に疑問です。
はったり特急 - 秋谷会長6期目へ・・
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投稿者:そううそ
2006/9/1 19:56
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○絶対的な信仰の対象は本門の戒壇の大御本尊
これは良いと思います。信じる信じないは別にして教義的な矛盾や間違いもないでしょう。ですが、
○絶対的な信仰の対象は御法主上人の御内証。
池田氏を否定すると言うことは日顕(など)の法主絶対主義の否定でもあります。
日顕氏を否定するなら池田氏も否定とは言いませんが永遠の指導者とか、秋谷氏の信伏随従とかもおかしいと思います。
○唯授一人血脈相承という法水の容器は違うが、日蓮大聖人のお悟りを一滴ももらさずに伝えられている
これがあいまいなんですよね。情熱ですか?責任ですか?折伏能力ですか?どういう能力ですか?
御書などの執筆能力ですか?御書解釈能力ですか?
仮に体験とすると病気を治す?あるいは日蓮と同じに布教して難にあって彗星などの自然に守られる?
心かあるいは心の能力でも良いのですが、具体的に日蓮と「ここの所が同じ」って言えないでしょう。特に日顕は。
「御本尊は正しい。」という結論が同じで理由や体験が人によって違う、ということが「法水の容器は違う」という事でしょうが、それもさっぱり具体的な内容説明は日蓮正宗からはありません。
具体的に「何であるか」説明して欲しいモノですね。>日蓮正宗僧侶。
布教能力や実績だとすると、これを言い出すと残念ながら過去の池田大作氏の方が広宣流布には貢献してきた訳で日蓮正宗の言うことは又、矛盾してしまいます。
日顕氏も池田氏も師匠(や師弟)であっても良いけど、師弟不二になると教義になってしまいます。
師匠や師弟は人間的つながりを指すので人ぞれぞれあいまいです。池田氏とのべ時間50年一緒に戦ってきた人もいれば幹部として時々会う(一週間に2,3時間会う)人もいます。同時中継だけの人もいます。でもそれぞれに師匠(師匠と思う)はあっても構いませんが、師弟不二も「唯授一人血脈相承」「日蓮大聖人のお悟りを一滴ももらさず」は信仰の対象になってしまっているでしょう。
●宗教によって人が良く変われるのか?
創価(この信心)でなければいい人になれない、宿命転換出来ない。ということに非常に否定的です。先に書いた日顕氏と池田氏の記事(119番、120番)に書いたとおり、彼らももう15年も変わっていません。ここを荒らしに来た某t男子部員もかれこれ半年経ちましたが、良い負けた逆恨みをしてspam送付用のHPをカナダに作っていました。”とても素晴らしい人になった。”なんて思えません。某nono女子部員(伏せ字、伏せ字(^_^;))もブログを先ほど見てみたらループしているだけのようです。SoMA(伏せ字、伏せ字(^_^;))さんがとあるブログから私のブログに転載した罵倒と同等の書き込みをしてnonoは去ってゆきました。nonoは一年近くやっていることは変わっていませんでした。末端の人もトップも何も変わっていません。
変わったといっても創価学会員が特別に変わるとか特別に努力出来るとかには思えません。普通の人と努力は何ら変わりないでしょう。経文や御書(遺文)を読んでこんな素晴らしい教えがあるなら、あるいは、幸せになったという体験がある(確信がある)のならば同じ事をしよう、いい人になろう、というのが普通の人間だと思います。それが日蓮と同意だと思うんですけどね。そんな気がします。
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「諸法実相抄」の「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門としてな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。」
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日蓮と同意、日蓮の様に情熱や誠実さを彼らに見つけるのは非常に難しいです。宗教の功徳としても疑問です。これから変わることを否定はしませんが、洗脳やMCという意味合いから非常に難しいのでしょう。
●教義が変わる、人が変わる、どちらにせよ、、、、、、
はったり特急 - 今月の御書・松野殿御返事
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投稿者:60億分の1人
2006/9/1 15:56
敢えて挑発的に書きますね。
皆さんには、日蓮も日興も戸田城聖も、間違いを犯す人間だという発想が無いみたいですね。日蓮はこう書いている、戸田城聖はこう話している、こんなのばかりです。
皆さんが拠り所にしている人達は、法華経を信奉しない者にとっては聖人でも何でもありませんよ。全然説得力がありません。
750年前の思想、例えば全人類に法華経を信奉させよう等という発想が、現代に通用する訳がありませんよね。
今、生きて行くうえで軋轢を生む教えがあるとすれば、それは現代では誤りで改めるべきだと考えられませんか?
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排他的宗教や絶対!という主義から「誤りでも改めるべき」ところを改められないというのは書いてきました。
創価学会の信仰に功徳はあるか?:日蓮正宗の罵倒は、やっぱり日蓮に問題がある?
創価学会の信仰に功徳はあるか?:不幸でも妥協を許さない創価 正直になれない創価。 (夫婦恋人で信仰が違う時 その4)
創価学会の信仰に功徳はあるか?:ネットでもリアルでも謝らない創価学会員
「この信心はすごいよ」「やってみたらわかるよ」「私には絶対このスバラシイ信心が必要なの」「イケダセンセイって本当に偉大な人なのよ」などなど。。。。。。。。私も同じ事やもっとバリ活な事を言ってきました。何時の日か世界中の人が信心するとかね。。。。折伏しはじめた時ですが。。。(笑)
ここに書いてきたように「絶対だ!」「他はみんな間違っている!」これらの主語は「御本尊かあるいは信仰教義」なはずですが、いつの間にか人間になって、「私は絶対だ!」「私以外の他人はみんな間違っている!」になっているんですよね。
んで、一度言い出すと、もう、引っ込みが付かないのが創価学会の大きな特徴です。
教義は変わるのに人が変わらないと言うのも創価の特徴かな?
人の弱さ、宗教者の弱さかも知れません。
は○たり○○さんもk○usan会長(笑)を中心に戸田城聖氏風、若い時の池田大作氏風な教義に戻そうとしていますね。私も活動家だった頃は実を言うと、戸田氏の指導を探したほうが結果として納得して活動出来た気がします。でも彼らも今は良くても20年30年後はどうなってしまうのかわかりませんね。は○たり○○さんの皆さんが極悪人(^_^;)になってしまうとは考えにくいですが、可能性は否定出来ないでしょう。。。。うーむ。難しい。 池田氏も戸田氏も今いる創価の人たちも元々はいい人だったと思いますし、「絶対!」「正義!」「祈りが叶う!」が何処で間違ったのか今のおかしな状況になっています。
以上。
結論としては創価や正宗の都合の良いように変わっていくと言うことですね。
第2次宗門問題以降、創価も正宗も微妙に教義を変えています。日蓮も釈迦仏法の改革者だったと言えるでしょう。それまでの教学から江戸時代に26世日寛が出て日蓮本仏論を説きました。
第2話 わしが創価学会をやめたわけ Sokaspirit.com - 現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
私個人としては法主が代々続いていると言っても、人間から人間(仏だって人間がなる。)の伝承?伝授?でしょうし人間(仏)の悟りの範囲の中のことだと思います。
ただし、悟ったと言っても日蓮の都合の良いように解釈した所があるかも知れません。私は全部の教典を読んだことはないですし、判断が難しい所です。教典を全部読んだ(らしい)日蓮は天台宗で学んでいますから、法華経を信じたのは自然なことだったと思います。非常に悪い例ですがオウム真理教のように若い時にオウムに洗脳されれば人を殺してもずっとオウムでしょう?
無量義教、法華経の非仏説などは当時の日蓮は知るよしもなかったでしょう。
創価学会に悩むすべての人へ:五時八教の教判 創価学会に悩むすべての人へ:四十余年、未顕真実 創価学会に悩むすべての人へ:創価学会側の苦しい言い訳 中世の思想の海に身を置く愚かさ
日蓮自身も御書(遺文)の中で宗教概念が変わっていく、追加されていることを認めて書いています。もちろん「良い事、高度な教え」として肯定してる訳ですけどね。
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兄弟抄
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師、智は日月に斉しく徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候ひしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給ふのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出だして、三国の一切衆生に普く与へ給へり。此の法門は漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給はぬ事なり。然れば章安大師の釈に云はく「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云。又云はく「天竺の大論すら尚其の類に非ず」等云云。其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立ち入りたる法門ぞかし。
太字の現代語訳
その時に天台智者大師が再び釈尊の仏教を明らかにされたばかりではなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から一念三千の如意宝珠を取り出してインド、中国、日本の三国の一切衆生に普く与えられたのである。 この摩訶止観の一念三千の法門は中国において始まった法門であるばかりではなく、インドの論師達でさえも明かされなかった法門である。
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つまり日蓮以前も変わっているし日蓮も変えているし、日寛も変えている?し、現在の創価も変えています。池田大作氏を永遠の指導者としています。高い教えで有れば?受け入れて追加してゆくと言うことですかね。無量義教などは単純に紙に墨で書かれた巻物になっていて当時の中国からキタ━(゜∀゜)━!!というだけで、「素晴らしい教えだ、中国から伝わってきた教えだ」「えぇ~それはすごい」てな感じで受け入れてしまったような気もします。wこれは日蓮が悪い訳ではないですけどね。
今後も変わってゆくことでしょう。特に創価学会は。
●日蓮正宗の教義も疑問
また、日蓮正宗の教義についても、非常に疑問です。やりとりの経緯をおおまかに時系列に並べておきます。目次に載せませんでしたが、 創価学会の信仰に功徳はあるか?:とあるブログで日蓮正宗の人との対話。 れんかさんにはあまり無理な折伏はして欲しくないですね。自分を大切にして欲しいです。創価にも正宗にも信徒を利用し煽る所がありますからね。ここではれんかさんへの抗議ではなくて正宗の教義に疑問と言うことで書いておきます。
創価学会の信仰に功徳はあるか?:創価の人でもみんな信仰観は人それぞれ ここのコメントで
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正しい御本尊とは (れんか) (そううそが「れんか」に訂正)
2006-08-29 20:20:40
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ここ以降のコメントを読んで貰えると私の考えは分かって貰えると思います。
主旨
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○時の御法主上人によって正しく書写され、認可と開眼がなされる。
これにより本門戒壇の大御本尊とつながっている御本尊。
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認可なんて人の気持ちです。開眼なんて何するの?人(僧侶)が本尊の前で唱題して終わりでは?
書き間違えのない様にチェックするというのが認可ですかね?
>御内証という「さとり」が人間から人間に伝える事が出来るならば、超能力であり、広宣流布は江戸時代前に終わっています。
超能力でないとして、勉強やスポーツの出来る出来ないという 能力の意味だとしても非常に疑問です。結局、御内証というのが超能力でも通常の力でもどちらも日顕氏は買春問題を起こすような人ですから非常に疑問です。
はったり特急 - 秋谷会長6期目へ・・
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投稿者:そううそ
2006/9/1 19:56
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○絶対的な信仰の対象は本門の戒壇の大御本尊
これは良いと思います。信じる信じないは別にして教義的な矛盾や間違いもないでしょう。ですが、
○絶対的な信仰の対象は御法主上人の御内証。
池田氏を否定すると言うことは日顕(など)の法主絶対主義の否定でもあります。
日顕氏を否定するなら池田氏も否定とは言いませんが永遠の指導者とか、秋谷氏の信伏随従とかもおかしいと思います。
○唯授一人血脈相承という法水の容器は違うが、日蓮大聖人のお悟りを一滴ももらさずに伝えられている
これがあいまいなんですよね。情熱ですか?責任ですか?折伏能力ですか?どういう能力ですか?
御書などの執筆能力ですか?御書解釈能力ですか?
仮に体験とすると病気を治す?あるいは日蓮と同じに布教して難にあって彗星などの自然に守られる?
心かあるいは心の能力でも良いのですが、具体的に日蓮と「ここの所が同じ」って言えないでしょう。特に日顕は。
「御本尊は正しい。」という結論が同じで理由や体験が人によって違う、ということが「法水の容器は違う」という事でしょうが、それもさっぱり具体的な内容説明は日蓮正宗からはありません。
具体的に「何であるか」説明して欲しいモノですね。>日蓮正宗僧侶。
布教能力や実績だとすると、これを言い出すと残念ながら過去の池田大作氏の方が広宣流布には貢献してきた訳で日蓮正宗の言うことは又、矛盾してしまいます。
日顕氏も池田氏も師匠(や師弟)であっても良いけど、師弟不二になると教義になってしまいます。
師匠や師弟は人間的つながりを指すので人ぞれぞれあいまいです。池田氏とのべ時間50年一緒に戦ってきた人もいれば幹部として時々会う(一週間に2,3時間会う)人もいます。同時中継だけの人もいます。でもそれぞれに師匠(師匠と思う)はあっても構いませんが、師弟不二も「唯授一人血脈相承」「日蓮大聖人のお悟りを一滴ももらさず」は信仰の対象になってしまっているでしょう。
●宗教によって人が良く変われるのか?
創価(この信心)でなければいい人になれない、宿命転換出来ない。ということに非常に否定的です。先に書いた日顕氏と池田氏の記事(119番、120番)に書いたとおり、彼らももう15年も変わっていません。ここを荒らしに来た某t男子部員もかれこれ半年経ちましたが、良い負けた逆恨みをしてspam送付用のHPをカナダに作っていました。”とても素晴らしい人になった。”なんて思えません。某nono女子部員(伏せ字、伏せ字(^_^;))もブログを先ほど見てみたらループしているだけのようです。SoMA(伏せ字、伏せ字(^_^;))さんがとあるブログから私のブログに転載した罵倒と同等の書き込みをしてnonoは去ってゆきました。nonoは一年近くやっていることは変わっていませんでした。末端の人もトップも何も変わっていません。
変わったといっても創価学会員が特別に変わるとか特別に努力出来るとかには思えません。普通の人と努力は何ら変わりないでしょう。経文や御書(遺文)を読んでこんな素晴らしい教えがあるなら、あるいは、幸せになったという体験がある(確信がある)のならば同じ事をしよう、いい人になろう、というのが普通の人間だと思います。それが日蓮と同意だと思うんですけどね。そんな気がします。
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「諸法実相抄」の「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門としてな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。」
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日蓮と同意、日蓮の様に情熱や誠実さを彼らに見つけるのは非常に難しいです。宗教の功徳としても疑問です。これから変わることを否定はしませんが、洗脳やMCという意味合いから非常に難しいのでしょう。
●教義が変わる、人が変わる、どちらにせよ、、、、、、
はったり特急 - 今月の御書・松野殿御返事
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投稿者:60億分の1人
2006/9/1 15:56
敢えて挑発的に書きますね。
皆さんには、日蓮も日興も戸田城聖も、間違いを犯す人間だという発想が無いみたいですね。日蓮はこう書いている、戸田城聖はこう話している、こんなのばかりです。
皆さんが拠り所にしている人達は、法華経を信奉しない者にとっては聖人でも何でもありませんよ。全然説得力がありません。
750年前の思想、例えば全人類に法華経を信奉させよう等という発想が、現代に通用する訳がありませんよね。
今、生きて行くうえで軋轢を生む教えがあるとすれば、それは現代では誤りで改めるべきだと考えられませんか?
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排他的宗教や絶対!という主義から「誤りでも改めるべき」ところを改められないというのは書いてきました。
創価学会の信仰に功徳はあるか?:日蓮正宗の罵倒は、やっぱり日蓮に問題がある?
創価学会の信仰に功徳はあるか?:不幸でも妥協を許さない創価 正直になれない創価。 (夫婦恋人で信仰が違う時 その4)
創価学会の信仰に功徳はあるか?:ネットでもリアルでも謝らない創価学会員
「この信心はすごいよ」「やってみたらわかるよ」「私には絶対このスバラシイ信心が必要なの」「イケダセンセイって本当に偉大な人なのよ」などなど。。。。。。。。私も同じ事やもっとバリ活な事を言ってきました。何時の日か世界中の人が信心するとかね。。。。折伏しはじめた時ですが。。。(笑)
ここに書いてきたように「絶対だ!」「他はみんな間違っている!」これらの主語は「御本尊かあるいは信仰教義」なはずですが、いつの間にか人間になって、「私は絶対だ!」「私以外の他人はみんな間違っている!」になっているんですよね。
んで、一度言い出すと、もう、引っ込みが付かないのが創価学会の大きな特徴です。
教義は変わるのに人が変わらないと言うのも創価の特徴かな?
人の弱さ、宗教者の弱さかも知れません。
は○たり○○さんもk○usan会長(笑)を中心に戸田城聖氏風、若い時の池田大作氏風な教義に戻そうとしていますね。私も活動家だった頃は実を言うと、戸田氏の指導を探したほうが結果として納得して活動出来た気がします。でも彼らも今は良くても20年30年後はどうなってしまうのかわかりませんね。は○たり○○さんの皆さんが極悪人(^_^;)になってしまうとは考えにくいですが、可能性は否定出来ないでしょう。。。。うーむ。難しい。 池田氏も戸田氏も今いる創価の人たちも元々はいい人だったと思いますし、「絶対!」「正義!」「祈りが叶う!」が何処で間違ったのか今のおかしな状況になっています。
以上。