創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

141.ブログ「博士の独り言」が消えたその結果

2006年09月30日 00時13分25秒 | 創価学会
 ブログ「博士の独り言」が消えたその結果

 gooブログトップで検索してもgooトップでブログ全体を検索しても結構な量の検索結果が出てきますね。googleで検索するともっとヒットしますね。創価学会員なのか中共系なのか不明だけどアンチ中共なら他にもあるしやっぱり創価なのだろうか?

●正義といいながら、説得できずに卑怯な手あるいは犯罪行為をする。

 私のブログでも創価学会男子部員数人が荒らしをしたり、tab○氏に至っては先の記事に書いたとおり、私にspam攻撃出来るよう仕掛けたりしています。盗聴など学会本部の組織的犯行の疑いの強い事やブログに書いてきた上意下達傾向やマスコミ操作など、組織や金の力で何とかしようとしますね。

「創価は正義である。」「中共系も我々が正義で日本が間違っている。」という名の下に。。。

 本来、宗教者は宗教哲学に則って説得が上手でないといけないのですが、荒らしに来た人やtab○氏、池田氏にしろ学会本部にしろ敵と言われる人を全く説得できていませんね。宗教であれば一個人個人を上手に説得して幸福に出来るからその結果を正義、と呼ぶはずなのですが、犯罪や嫌がらせは正義でも何でもありません。

ああいう事をすれば「ますます創価(会員の事ですよ?)は嫌われるでしょう。」

 創価学会キライ。池田氏キライ。でもあんたは創価だけど、、、、好き?キライ?
この差は大きいでしょうね。

●正義といいながら、どの宗教も説得できていない。むしろ分裂する。

 キリスト教、イスラム教、釈迦の仏教でも2000年の歴史がありますが、どの宗教も意見の集約を見るよりかは分裂、分派しますね。750年ちょっとの歴史しかない日蓮宗もそういう意味では出来ない物なのかもしれません。また、キリストと日蓮に限っては最終的に敵などを説得できないままに終わっているのも興味深いですね。

 はったり特急でもあのブログにコメントを残す人たちは皆さん真面目だし、真剣に悩んだり危機感を持っているからああいったコメントが残るわけですが、学会本部の人や他の幹部などが「説得される」という事はありません。常に「学会本部派」と「そうでない派」。日蓮正宗派と創価学会派。

 一個人対一個人ではどの宗教でも「信仰を始めた人が喜んだり幸福になった。」と言います。つまりどこかで誰かが誰かを説得できているわけです。ところが、組織になるとその方針や考え方が不幸な人たちを向くよりは途端に学会本部などの組織トップになって行くんですね。

 宗祖(日蓮)は絶対。だから私はこう思う。だから私について来い。おまえ(たち)は間違っている
 この宗教は絶対。だから私はこう思う。だから私について来い。
 池田先生は絶対。広宣流布の将軍。永遠の指導者。だからついてゆく。
 学会本部は絶対。だからついて来い。
 アラーは絶対。だからイスラムの教えに逆らうおまえ達は氏ね。(わざと”氏ね”にしています。また、イスラム全体が過激派ではありません。)

 オウム真理教も同じですね。絶対とか分裂するとか。オウムも分裂して無くなりません。お互いに今までの考えかあるいは新しい考えで分裂して互いに説得は出来ません。

我々が正しい、我々に正義がある、ということで必ずいくつかの「組織」に分かれるようですね。

●組織が分裂する理由。理由は正義?

 ここまでは今までの記事でも書いてきましたが、分裂する理由って何でしょうかね?

 日蓮と既成仏教のパターンもあるでしょうし、創価と日蓮正宗のように信者獲得争い、要はお金獲得争いもあるでしょう。 宗教ビジネスの組織トップの楽な生活のためです。
 私の場合も一個人ですが創価学会からの分裂でしょう。自分の価値観や幸福感と信仰が一致しなくなった、という事ですね。「いつまで経っても願いが叶わない。」「人生の大きな分岐点で希望通りに行かない。」
 あげくのはてに創価の人からは19番記事のように「絶対的幸福が大事だ。」「信仰する事が一番!!」つまり、「幸福感を変えろ!」という事です。
 また私の場合、自分の本尊への疑いもありましたが、信仰教義にも「相手が入信してもしなくても折伏することで幸福になれる、願いが叶う。」これが叶わなかったり、退転時に婦人部に言われましたが「ご本尊送りをしていないから願いが叶わない。」という酷い物もありました。
 前者は自分が幸福になっていないのに「人に嘘を言うのがつらい。」「これ以上、幸せの振りや無理をしたくない」また後者は「人によって言う事が違う!」という怒りがあります。

 つまり、組織からの概念の押しつけな訳です。ここで一個人の(病気が治ったなどの)信仰体験はありませんでした。

 はったり特急の人たちも多かれ少なかれ、自身の信仰はともかくとしても、自分が「おかしい、間違っている」と思う新聞啓蒙や選挙活動を人に勧める事が出来ないのでしょう。むしろ出来る人の方が私には疑問です。「ナイーブ」の記事で書いたように自分の中にある矛盾を無視して他人に嘘を言うのは問題がある場合があります。

 荒野の学会員さんも日蓮正宗に移籍されたようですが、創価組織に不満があるからなのでしょう。信仰を止める止めないは信仰そのものが理由ですが、彼の場合、学会組織に不正義という理由があると思います。創価と日蓮正宗の場合、本尊の問題や大御本尊を拝みたい、という理由や反論もあるのですが、それも一個人にとって正しい事、義は義(よし)つまり、「よい事」なので、正義と言い換える事が可能だと思います。つまり、正義、不正義という理由があると思います。

●組織が必ず正義なのか?

 よく創価の人は「創価は正義であり(絶対であり)、いつか世界中の人がこの信心をする。」と考えています。バリ活で有ればあるほどそう思います。信仰の確信がある場合や折伏や新聞啓蒙が得意な人であれば説得が多少なりとも出来ているわけですから、余計にそう思うでしょう。
 ですが、過去記事にも書いてきたとおり、「一つの教え(方向)に収束する教義ではなく、むしろ日蓮自身、日興の時代から「おまえは間違っている」という分裂をずっと繰り返してきた」のが日蓮系宗教の特徴です。

 最近、アメリカSGIの状況がとあるブログに書かれています。すごい状況というか酷い状況ですね。日蓮系宗教の人たち同士で「おまえは間違っている」どころか「あなたは間違っていますよ?」って言えないみたいですね。数信仰が一番の原因でしょう。それと池田大作氏の「私ならとっくに100万所帯やっている」という自分一人で出来るはずもない、というか人にやらせて人に責任も押しつけるのですから、たいしたモンですね。
 分裂はしないまでもアメリカSGIはアメリカSGIでの特色(アメリカSGI正義?)を持ってしまったわけです。アメリカ人だから価値観が違うと言えばそれまでですが、信仰は幸福という目指す価値観が一つのはずです。

 日蓮も「これが真実の教えだから、真実を求めて」というのもあったでしょうが、既成仏教に対して「このままではいけない」と思った面もあるでしょう。釈迦も順番はともかく「これが真実の教えだから」というのもあったでしょうが、豪華絢爛、酒池肉林の生活をしていて「このままではいけない」と思ったので、出家して人にも(出来れば?それとも可能な限り?)出家を勧めたわけです。釈迦も日蓮も自分のしている事が「正しい」と思って行動して、自分が正しく生きるだけでなく、他者にも正しい道を示そうとしたのでしょう。つまり、正義って言い換えられるかもしれません。
 それと、日蓮も釈迦も他者をよく説得出来た人だと思うのですが、どちらかというと組織を大事というよりは、人の為?一個人を大事にしたような気がします。

 どの宗教でも「人がアウトプットなのであり、人が幸せになれば正義」なのですが、一個人が一個人を導いて幸福にすればそこには正義はあるのでしょう。しかし、組織に正義ってあるんでしょうかね?個人と組織の明確な線引きなど出来はしないのだからとても曖昧です。
 創価学会はこういったわかりにくい所を曖昧のままに「正義!」を連発するから非常にやっかいです。折伏、新聞啓蒙は出来た事があっても本当の意味で相手を幸福に出来たか?という意味まで考えないと

その人、一個人ですら、正義(人の為、人の幸福の為)があるかどうか不明です。

 本尊流布できた人でも相手が退会したり退転したりすれば、正義とは言えないでしょう。学会は宗教組織ですから、当然、いつも入会者も退会者も必ずいます。つまり組織は正義もあるかもしれませんが、

組織には不正義もいつもある。って事になります。

 創価や公明党の幹部に様々な不祥事や問題がありますが、責任は当の本人にあるとされる事が多いようです。ですが何時までも池田氏がトップです。それどころか「永遠の指導者」になってしまっています。様々な不祥事や問題があると新入会者や一般の人に誤解や疑問を抱かせ、信仰から離れます。そうならない為にも特に僧侶など宗教者は謙虚か厳しく生きるべきなのでしょう。は○たり特急のkOusan(伏せ字伏せ字(^_^;))が日蓮正宗僧侶も妻帯やご供養、あり方など、過去を総括する必要がある、と言ってましたが確かに同意できますね。

 私の場合でも過去記事に書いたとおり入信紹介者の某君と最後にあった時、「分かって頂けなくて申し訳ない」という言葉どころかそうした論調は全くなく、最後に「池田先生の悪口を言ったら許さない!!」というセリフでした。池田氏が退会の理由ではありませんし、あの時は池田氏を問題にしていません。当時は私も池田氏は宗教者であり、悪人ではなく、むしろいい人か一生懸命な面もある、と考えていました。今では全くそうは思いませんが。m9(^Д^)プギャー 彼はおそらく今でも不正義をした、なった、とは思っていないでしょう。何の連絡もありませんから。m9(^Д^)プギャー

 つまり創価には個人にしろ組織にしろ自覚や謙虚さ、反省(省、つまり、かえりみる)が全く無いって事ですね。正宗も創価もどちらもトップは責任も謙虚さも無いって事でしょうか?それどころか人の幸不幸に敏感(ナイーブ)であるよりも組織正義が前面に出るようでは宗教とは言えないのでは? (30人折伏して1人2人しか入信しない、という信仰をさせる側の責任や謙虚も1-21番記事に照らして当てはまるのですが、この記事では29人への不正義はあえて除外します。)


 池田氏の同時中継の中で「信仰者には謙虚さが大事」ということを教えられましたが、創価学会員であった時よりも信仰者でない今の方が切実な問題として認識できます。私も「この信心に間違いは無い」これがいつの間にか”組織であるはずの”「創価や公明、池田氏に間違いはない。」になっていました。非常におかしな事というか、MC(マインドコントロール)されていた証拠でしょう。こうして創価の問題点や自分の過去を文章にすると言う事はMCを解く解かないは別にして非常に重要ですね。だから自分の中で整理整頓するためにも創価の人がアンチ創価ブログを作るのは謙虚さという意味から宗教者にとってむしろ自然な事です。

 一個人にしろ組織にしろ「宗教は人間の幸福の為」でしょう。正義といえるかはまた別にしても。ところが、創価側に信仰をして自然と入会させてあげるだけの証拠や実績が示せないから、人のいやがる事をして、攻撃するのでしょう。そもそも「他者の為、他者の幸福の為」という説得に失敗するならともかく、罵倒する、攻撃する、つまり、説得しないというのは非常に問題ということが分かりましたね。。。。。。。spam攻撃や、ブログ攻撃、学会本部や池田氏に正義なんてあるの?罵詈雑言、罵倒攻撃している間は駄目駄目の論外って事ですね。

 とあるブログで「子供の貴方に信心が無いのは親である私の責任。」なら謙虚ですが、とある別のブログで子供に「アホ!」って言う攻撃、これは自分以外の他者(子供も他者)の為を忘れた結果でしょう。組織を使って結婚の条件に無理矢理入会や子供が生まれたら入会など異常です。恋人や夫婦など当の本人同士や親子で話し合うならば組織とは言いにくいですが、必ず地区幹部を連れて来たりするわけですから、悪い意味で恋人夫婦親子でも組織(池田教、数信仰、組織信仰)として捉えられても文句は言えないでしょう。>創価。


 お決まりの反論がいくつか予想されるので念の為に書いておきますが、聖教新聞上でよく体験談の中に、「入会させた人が一人も退会していない、」という事をよくその人の信仰の(素晴らしさ?の)バロメーターとしています。またどんな””一般””の宗教者でも完璧な人などいないので説得や方法が完璧でない事はあり得る事です。むしろ、それを忘れている、忘れようとする、自覚が無い、などの傾向が強いのが日蓮正宗の人や創価学会員だと思います。宗教組織トップは更に傾向が強く、問題が大きいと考えています。

法華経や仏教経典、釈迦原始仏教が個人主義なのか組織主義なのか気になるところですね。法華経は読んだ事があっても完全理解しているとは言い難いし、他の経文は御書掲載の文はともかくとして創価に教えられて邪宗という事でさっぱりだもんな。

しかし今回は「」や()の多い記事になってしまった。読みにくくてゴメン。

以上。

'06.10.01 誤記訂正 緑文字追記
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする