創価学会の信仰に功徳はあるか?

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祈祷の体験談9(祈祷を受けた体験)

2021年02月05日 07時06分40秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き
祈祷の体験談8 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

本記事を書いていて気がついたのですが「祈祷の体験談」と書いたのは分かりやすい文章表現でなかったかもしれません。
私が「祈祷を受けた体験」です。
「祈祷の体験」と何度も書いていますが私が祈祷したわけではなく、Cさんが祈祷しています。

過去記事と一部重複します。

●信者さんの不幸と「欲をかかないこと」

 Cさんの祈祷の結果、信者さんの不幸や上手くいかない状況だとお金を受け取らなかったそうです。
「こういうことは欲をかかない」と。聖職者がお金をがめつく求めないの意味です。

●祈祷と瞑想は相反しないのか?

 祈祷と瞑想は相反しないのか気になる人がいるかも知れません。様々な吉事と祈祷を受けた体験とCさんのお話から、瞑想(密教の阿字観と禅宗の座禅)などを否定する考えは出てきていません。

私の中でも相反する結論とは逆です。瞑想と勧請は深い関係にあります。多くの他宗の古文書などからも断言できます。釈迦仏まで遡れます。
ただし、祈祷を調べると「因果を超えない」とか又は「因果律と矛盾しない」とか書かれてありますが、本当に祈祷できるお坊さんなのか、やや疑問です。
おそらくは荒唐無稽な願いを暗にお断りしてるのか、祈祷のマネだけなのか、良心から予め断りを入れる方針なのでしょう。

----------<ここから>----------
爾りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。(行道文庫版)
----------<ここまで>----------
日蓮さんは「因果を超えて功徳(ご利益)がある、成仏の結果がある」(趣旨)と言っているので問題です。(お釈迦さんの修行成果と成仏はお釈迦さんだけのもの。十大弟子や在家信者と同じと思いますか?)経典を引用しあちこちで因果をわきまえろ、物事は因果律を超えない等々書いてますから矛盾しています。

私事でしかありませんが、教団A以外の他宗関係者で瞑想する知り合いが増えています。去年も一人増えました。過去記事で念仏禅、真言律を取り上げました。私が半々というより複数の宗派を気にかけていくかは未定ですし一生懸命に教団活動をする気はありません。
瞑想での神秘体験を聞くと羨ましく思います。

●勧請の説明パターン

 勧請についてCさんから説明されるパターンはいくつか存在します。

(1)儀式前後や最中
(2)旅先
(3)信者さんとの会話の最中

菅田塾で教わったことで話が横にそれますが、神道研究家の菅田正昭さんによると「過去の神道では神様がやってくると数多く拍手した」との説があるそうです。二礼二拍手一礼は明治以降の成立だとか。

創価学会ではどうかというと大きな会合で「池田先生がご入場されます」と司会がいうと創価員が皆で大拍手していました。神道と仏教で違いがあるとはいえ私は滑稽に思うようになりました。
私の記憶では池田大作(阿部日顕も)が「神仏を勧請出来ました」といったり書籍で書いた事例は一度もないとおもいます。祈祷や勧請によって信者さんに幸せや吉事を振りまいたり「神仏のありがたみと恐れを感じる事例」など一度もないと私は認識しています。

本尊に神仏名を書き現すのは日蓮さんの中では祈祷が出来て文字通り勧請だった可能性はあります。
現代では本尊のコピー又は墨筆で神仏名を書くだけで「勧請した」ことになっています。何のありがたみがあるのでしょうか?

●守る、守護

 Cさんは「私自身を守りなさい」といったことはありません。教団A以外で過去にお会いした他宗の僧俗の皆様も同じです。

「勧請の説明パターン」と関連するのですが、池田大作を拍手する必要は仏教的には皆無です。
それは会合として盛り上がらないから創価本部として困るのと、池田の自己愛性人格障害と思われる歪んた自己愛を満たすためでしょう。
アンポンタンな池田大作は「俺を守れ」といい様々な池田を守る組織体制があります。各会館の御祈念項目に「池田先生、奥様の御健康、御長寿」とありました。今でもあるのでしょうが、私個人はかなり恥ずかしく尚且はっきり言ってバカだと思います。皆さんがどう思うかは自由です。人間あるいは役職などの情報を大事にして拝んでいると考えます。

友岡雅弥さんが死んだ経緯を考えれば創価の本部職員や建物に関わりたいと思う一般人はいないでしょう。「友岡雅弥さんがあの様に死んでも退会したくない創価」とは異様、異常としか言いようがありません。これも結界として問題があります。

●切る

 Cさんは悪い何かを「切る」事ができ私は何度か受けています。

創価班の会合で創価班歌を歌う際に歌の指揮を取りました。創作ダンスというか創作指揮なわけですが「顔を怒ったような表情にして魔を切れ」と教えられました。ただそれだけです。修行も呪文も理解力、記憶力、どれも全く関係ありません。ただの腕振り人形です。今となってははっきりいって私は恥ずかしいです。

上の文章からは読者にCさんの「切る」事が説明になっておらず分からないでしょう。残念ですが仕方ありません。祈祷の体験談シリーズは話1/100とかで構いません。

池田大作や阿部日顕が信者さんの悪い何かを切ったことは一度もないと思います。

●結界

 祈祷を受けた私は創価の本尊、導師など建物、場所、服装、供え物、方角、時間、明かりなど様々に問題を感じるようになりました。

本尊が印刷コピーであることや魂入れなどの問題の他に仏壇周り(創価本部が悪いのか正宗が悪いのか仏壇屋が悪いのかはっきりしませんが。)など結界に数多くの疑問があります。

正宗の結界の考え方は調べたことがないのでわかりません。結界については昔調べたことがありますが、正宗も創価も両方とも今後調べる気はなくなりました。

●祈祷の前提条件

 祈祷を体験して致命的ミスと思えるのが「祈祷(祈願)の前提条件はxxxxであってxxxxではない」でした。
創価入信前か遅くとも大学生時代の20歳位で知りたかったです。

この点を正宗系は全く無知と思われます。
物議を醸すので文字数も適当にして伏せ字にしました。これを創価や正宗で教わったことなど一度もありません。
これが広まってないのは各宗教教団の営業問題になるからでしょう。日蓮宗や日蓮正宗でどうなっているのか両方とも今後調べる気はありません。

●因果や全知全能、万能など

 祈祷を受けた体験から私は、聖職者における祈祷の因果は小説や漫画の超能力ではないことや人間側の期待や妄想する形では無いと個人的に考えます。祈祷できない私からは窺い知れません。
また聖職者と祈祷の全知と全能は分けるべきだと体験から私は考えています。それぞれの回数と内容、経緯が異なるためです。

上記から日本人の宗教性として「お天道さまがみている」「地蔵菩薩が道にあり見られている」等々の信仰心を維持してほしいと思います。

●祈祷の結果と私の間

祈祷の結果と私の間は因果があり現実だけです。

●在家信者は祈祷が出来る必要性があるか?

----------<ここから>----------
又此曼荼羅能能信ぜさせ給べし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはり(障)をなすべきや。鬼子母神、十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはい(幸)は愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはふるともつゝが(恙)あるべからず。「遊行無畏如師子王」なるべし。十羅刹女の中にも皐諦女守護ふかかるべき也。但し御信心によるべし。(行道文庫版)
----------<ここまで>----------

(曼荼羅と南無妙法蓮華経を)
信じれば必ず病気にならない
信じれば必ず諸天善神に守護される
題目を持つものを諸天善神は守護する

こうした日蓮さんの考え方は全く祈祷できない信者さん向けです。法華経や題目、本尊など信じるだけか保つだけでもすれば「御信心による」は成立し、良い結果は出るとの日蓮遺文です。

本ブログでは何度も書いていますが、現代では根拠のない宗教の思いやりでしかありません。
これだけならまだ宗教と言えるのでしょうが、正宗系はこの遺文を悪用して相手に喧嘩を売る、脅迫や強要する、見下す等々をしています。
本来は、法華経や題目、本尊などを「素朴に」信じるだけか保つだけの「有無」の「有」だけで「御信心はある」として問題ありません。池田大作や日顕を目指さないとダメな「レベルが高く」ないと「御信心がない」話になっています。教団トップに都合のいい奴隷根性のレベルが高い人が「御信心がある」となっています。

池田大作や阿部日顕は「祈祷の成就」を目指した「レベルが高い」人物ではないと私は考えます。ましてや池田大作は在家です。正宗僧侶も肉食妻帯しており、戒律や結界が問題になります。
正宗系で知り合った人や身近な人を罵倒しているケースは何らかのパーソナリティ障害を起こしています。特に1世よりも2世3世、気性の激しい人や気性の激しい人に関わった人、喧嘩の多い人、アップダウンの多い人など要注意です。

(在家の受戒は三聚戒、三聚浄戒です。現在、どの仏教教団でも在家向けに行われます。本門戒壇の大御本尊や三大秘法は坊さん向け、天皇向けでしょう。)

●吉事

 Cさんは吉事について「(自分がやったのではなく)信仰の対象がしたんだよ」(趣旨)と仰ったことがあります。更には「長年信仰をしてきたが初めてみた」(趣旨)とさらりと仰いました。これは幾つかの意味で私にとって衝撃的でした。後述するかは未定です。

池田大作は良い結果や成果は「俺がやった」(趣旨)とし選挙、裁判で勝てないなど悪い結果は全て「部下や創価員、正宗の坊さんなど誰かのせい、俺は悪くない」(趣旨)ですよね。呆れます。

●準じる能力を持つ方々。

 これを書くかどうかずっと迷っていました。

Cさんの祈祷能力ほどではないものの、準じる能力を持つ方々が複数います。
私には本当かどうかは見極める能力はありません。旅先で「話をしよう」と色々アドバイスを頂いた社長信者さん、他に吉事を感見できる信者さんが数名います。
具体的に吉事の状態を教えていただいて、とてもとても感謝しています。言うまでもありませんが信者さんの中でも一部の方々で、能力持ちと能力なしの信者さんの間で共依存や雇い主と奴隷関係、見下すような関係は全くありません。

上記は体験を詳細に書けば2000文字くらいかけると思うのですが具体的に書かないと思います。

能力の有無に関係なく信者さんには【恐れと有り難み】がベースになっていて身についています。この点は未調査な為と膨大になる為、具体的に書かないか書けないと思います。これが最も正宗系には理解不能でしょうから。

何も知らずに邪宗だの念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と私は言っていたわけですから申し訳ないのと恥ずかしいとしか言いようがありません。
邪宗は正宗系でしょう。

(続く)

2021年2月6日 引用ー>悪用 他に一部修正

参考
二分法思考はいつ植え付けられるのか?~強迫性・自己愛性・境界性~ | リバータリアン心理学研究所
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