花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「ポルトガル旅行」(12)

2014年02月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

≪猛吹雪に見舞われる≫

昨日、1週間ぶりに伯母が待つ岩見沢に向かった。出かける時は気温はー8~9度だったが太陽が輝く晴天だった。ところが30分程走ったところで警察官に通行止めをされた。聞くと大型車が数台絡んだ事故が起きて、その処理をしている最中だというのだ。路面凍結によるスリップ事故かも知れないと思いながら2~3km迂回してからいつもの道に戻った。

すると雲行きが怪しくなり、やがて雪が降り出した。風も強まり猛吹雪になった。3m先の前のトラックさえも瞬間的に見えなくなる。勿論道路の端も分からない。
幸い前のトラックに付いて走ることにした。脳裏に昨年猛吹雪の吹き溜まりで前進できなくなり、凍死した人達の事が浮かんだ。
ガソリンが残り少ないことも気になった。やはり冬の外出には入っているガソリンに余裕をもたせ、毛布やスコップを積んでいないと駄目だと再確認した。通勤していた時はそうしていたのに、最近は冬の遠出を滅多にしないので、気が緩んでいたのだ。
30分程目を大きく見開いてゆっくりと必死でトラックに着いて走り、ようやく岩見沢市に辿り着いたが、吹雪で交差点が見えず通り過ぎてしまった。慌ててUターンし、やっと伯母の高齢者専用賃貸住宅に到着した。
部屋に入ると、伯母が「危険を冒して、よく無事に来てくれたね。」と涙ぐみながら迎えてくれた。

今回は伯母に頼まれた野菜類と私が育てている開花し出した「香り椿」を持参した。とても喜んでくれた。

2時間ほどお喋りをしている内に、雪が止んだので急いで帰宅した。本当に昨日は危なかった。

≪バターリャの「サンタマリア修道院」≫

その後、北西の「バターリャ」の町に向かった。
「戦い」という意味の「バターリャ」は、1385年8月14日、近郊の「アルジュバロータ」で「ジョアン一世」が王位を狙って攻めて来た3万の「カステーリア」軍を向かい撃ち、奇跡的に勝利した歴史的な町だ。これは隣国スペインからポルトガルの独立を守った戦いだった。

1388年ジョアン一世は、聖母マリアに感謝して修道院の設立を始めたが、それは2世紀に渡り、7人の王と15人の建築家に引き継がれた。
しかし途中でジョアン三世が、リスボンの「ジェロニモス修道院」建造に全力を注ぐために建築の中止を決定した。

その後、1755年のリスボン大地震と1810~11年に起きたナポレオンの支配に反対するスペイン独立戦争で被害を受けた。また1834年に所有していたドミニコ修道会が追放されて廃墟になったが、1840年、フェルナンド二世が修復を決定したことで、20世紀初めまで修復が続き、現在は博物館となっている。
正式名「勝利の聖母マリア修道院」は、1983年、ユネスコ世界遺産に指定された。

この修道院も巨大な規模だった。様式は「ゴシック様式」と「マヌエル様式」で建てられている。その他の特徴として、鐘楼が無く、国内最初のステンドグラスが飾られた所だそうだ。
(最初の写真は、ランチを食べた傍のレストランから撮った)
聖堂には「ジョアン一世」と王妃の立派な石棺が置かれていた。また墓の間には、「ペドロ王子」「エンリケ航海王子」「フェルナンド王子」の墓がある。



 

 

天球、天使、ロープ、円、木の切り株、クローバー型のアーチという「マヌエル様式」が強く見られたのは、回廊と「未完の聖堂」だった。



回廊の角に豪華な「洗盤」があって、水が流れ落ちていた。
一室が柱が1本も無い広い「参事室」となっていて、第一次世界大戦時の「無名戦士の墓」が設けられ、衛士2人が守っていた。

   

「未完の聖堂」は「ドゥアルテ一世」が自分とその一族を祀る霊廟を目的に1437年に着工したものだが、未完成に終わり、現在は彼とその妻の石棺が安置されている。
未完成で天井部分が無いとはいえ、物凄く豪勢なマヌエル様式の聖堂が残されていた。

 

 


まだ他に観光した場所が幾つかあるが、割愛したい。民謡「ファド」を聞く機会は3回もあったし、これで今回のポルトガル旅行記を終えることにする。長文を読んでくれた方たちにお礼を申し上げたい。
遠い国ポルトガルに、少しか興味を持ってもらえただろうか。(完)
 

コメント (5)
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