花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「三回目のインド旅行」(8)

2014年02月25日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

≪ムンバイ市内観光≫

6日目は7時にホテルを出て、インド最大の商業都市、「ムンバイ」の市内観光から始まった。

歴史をざっと振り返ると、16世紀のこの町は西のアラビア海に面した小さな漁村に過ぎなかった。
1498年にポルトガルの「ヴァスコ・ダ・ガマ」がアフリカの喜望峰を経て「カリカット」に到着し、やがてポルトガルは1510年に「ゴア」を植民地にし、1534年には「ムンバイ」周辺の7つの島をスルタンから取得した。そして中心的な島に要塞や教会を建てて、「ボン・バイヤ(ボンベイ)」(良港の意)と呼んだ。
ポルトガルの支配は1961年まで続いたが、植民地を広げることは無かった。

一方イギリスは、東側のベンガル湾に面した「マドラス」(チェンナイ)に築いた要塞を拠点に1605年に「イギリス東インド会社」を立ち上げ、香辛料、綿布などの独占的な交易を行っていた。オランダが設立した「東インド会社」の規模も大きかったが、1661年、ポルトガルとイギリスの王家の結婚を機に、「ボン・バイヤ」はイギリスに贈与された。
その後イギリスはこの「ボン・バイヤ」を埋め立て、街づくりをした後、ここを足がかりにして、インドの支配に乗り出した。そして19世紀にはインドの大半がイギリスの植民地となって行った。『沈まぬ太陽』の大英帝国の中心は、インドだったという。

私達は朝ホテルを出てから「インド門」の近くまで、「ムンバイ」市内を通り抜けた。
周辺人口まで含めると1900万人を有する「ムンバイ」は、イギリス植民地時代に建てられたヨーロッパ風建築が幾つも残っていた。
海岸ではランニングに汗を流す人や散歩をしている人が大勢いる一方で、冷たいアスファルトの軒下で汚れた毛布1枚をすっぽり被って寝ているホームレスの姿も沢山あった。中には幼児を抱いてビニールシートに座っている女性なども目に入り、女性が路上生活をしているとどうなるか、考えさせられた。(人口密度は世界一だそうだ)

「ウイキペディア」で「ムンバイ」調べると、
『1991年から2001年までの10年間で、州域外からムンバイへと移住してきた人々の数は112万人におよぶ。この経済成長に伴う急激な人口増加に伴い、他の著しい経済成長を見せている発展途上国の都市と同様、ムンバイは貧困、失業、医療、生活水準、教育水準などの面で広範囲に及ぶ問題を抱えている。居住地の不足も深刻で、住民は住環境が悪いにも関わらず高価な住宅に住まざるをえない状況にある。さらにこの人口増加にインフラ整備が追いついていないため、住民は異常に混雑した鉄道や道路での長時間の通勤を強いられている。』
『2001年のインドの国勢調査によれば、ムンバイの人口の約54%はスラムに居住している。ムンバイ中心部のダーラーヴィー地区は、アジア第2の規模を持つスラム街であり、100万人以上の住民がここに暮らしている。』
などと書いてあった。

現地ガイドの男性は、『水道が朝晩2時間も出ない、電気も朝晩停電する、収入は上がらないのに税金は上がる。こんな生活状況を何とかして欲しい。』と私達に切実な口調で話してくれた。
(路上生活者が多い地区を通る時、何故かバスが猛スピードになり、全く写真が撮れなかった。最初の写真は、水道水の配管の背後に見えるおびただしいバラックと高層マンションだ)







「インド門」は、1911年に英国王「ジョージ5世」がインドに来た時にその記念に建てられた門で、イギリス支配の象徴的存在だ。2004年に世界遺産に指定された。



「エレファンタ島」に行くために乗った船から見ると、「インド門」の左側背後に建つ「タージ・マハールホテル」が良く見えた。
このホテルは、インド人の大富豪「ジャムシェード・ターター」が1903年に建てた世界有数のホテルだ。
彼が外国の友人と夕食を食べるためにあるホテルに行った時、インド人の入館を断られた事を契機に民族意識に火がつき、外国人にも通用する一流ホテルを建てたのである。
鉄骨はパリのエッフェル塔と同じものを用い、どの部屋からも海が見え、船室に居るような錯覚に捉われる設計になっているらしい。

コメント
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