花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「三回目のインド旅行」(4)

2014年02月21日 | 海外旅行「南アジアⅠ」インド

≪「アグラ」市内観光①≫

インドのバスの運転席はガラス窓と扉で客席と仕切られていて、運転手の横にアシスタントが乗る。アシスタントは、学校に行っていない若者が多かった。
また、大都市の中心部は道路が整備されているが、それ以外は舗装されていない所が多く、排水溝の整備も遅れていて、6~10月の雨期には雨水が道路に溢れて大変な状況になるらしい。幸い乾期だったので何とか通過はできたが、ほとんどが凹凸路面なので、毎日、激しいバスのバウンドに悩まされた。
さらに都市部の舗装道路でも約100mごとに10cmほど帯状に盛り上げてあって、スピードを出せない様にしてあった。
時には街中を羊の群れや野良牛、野良豚などが歩いているので、交通渋滞が起きたりもした。
バスの窓から見ると、郊外では、小麦、トウモロコシ、米、菜種などが栽培されていた。

  

  

 

①「ファテープル・シークリー」

今回初めて、ムガール帝国第3代「アクバル帝」の城跡が残されている「アグラ」の南西37kmの地迄行った。
3km×1.5kmの敷地を城壁で囲んで、内部に宮廷、モスクなどを5年の歳月を掛けて建造し、1571年にアグラから首都をここに移した。
「アクバル帝」はヒンズーの女性を妻にし、宗教的にはイスラム教に固執せず、ゾロアスタ教、ジャイナ教、キリスト教にも関心をしめして王宮に聖職者達を招き、講義を受けるなどしたという。建築様式には、イスラム教とヒンズー教の融和を模索した帝の考えが伺われる。
しかし、この地は水不足が起きるために、僅か14年でここを離れ、再び「アグラ」に都を移した。そのためか城跡は傷みが少なかった。1986年に世界遺産に登録された。

  



13歳で王となった「アクバル帝」は、有能な側近に恵まれ、広大な領地を「州」に分け、さらにその中を「県」に分けるなど統治能力が優れていた。18歳頃からは様々な戦いに打ち勝ち、北インド、アフガニスタン、ポルトガルが制圧していたアシールガルなどを支配下に置いた。そして南西部のデカン高原への進出を図ったが、城に残っていた王子「サーリム」に謀反を起こされた。
「サーリム」はムガール帝国第4代「ジャハーンギール帝」となる。


コメント (2)
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