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この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『トロン:レガシー』、3D映画の将来を占う…。

2011-01-12 23:29:48 | 新作映画
 ジョセフ・コシンスキー監督、ギャレット・ヘドランド主演、『トロン:レガシー』、12/18、Tジョイ久留米にて鑑賞。2010年49本目。


 神は細部に宿るといいます。
 元は建築の世界の言葉だったようですが、物語を構築する場合でいえば、細部にまできちんとした設定をしなければよい物語は作り出せないということになるでしょう。
 まぁすべてのジャンルにおいてそうでなければいけないというわけではないでしょうが、ことSFに関しては元が空想の産物であるので、リアリティを生むために他のジャンルの作品よりも特に細部にこだわらなければいけないのだと思います。

 『トロン:レガシー』は電子の世界が舞台のお話です。
 電子の世界においてプログラムが人間と同様に生活を営んでいる、という設定自体は悪くないと思います。
 しかし、映画の作り手はそれ以上のことを何も考えていないように自分には思えました。
 
 例えば主人公たちが食事をするシーンがあります。
 電子の世界での食事、非常に興味深いです。
 電子の世界の住人たちはどのような食事をするのか。バリボリ電池を貪り食うのか、それとも自らの体にプラグを突き刺し、官能の面持ちを浮かべながら充電するのか、あるいは…?
 興味津々そのシーンを注視していたのですが、とりあえず食事をしているのだな、ということは最低限わかるものの、手元のアップなどがないために、彼らがどういった食事をするのかは観ていても全くわかりませんでした。

 他にも映画の中では、フリスビーのようなディスクを投げ合ってプログラムたちは戦うのですが、ディスクは武器であるのと同時に行動を記録するメモリーでもあるんです。そんな重要なものを武器にするのか???とまず思うし、さらにそのディスクは他者に奪われても、また他人と交換しても行動に支障を来たさないんです。
 結局最後までそのディスクの役割がよくわかりませんでした。

 すべてがそんな感じで、電子の世界ではプログラムたちが人間と同様の暮らしをしているのだ、といわれても、プログラムたちの暮らしぶりが、仕事が、食事が、排泄が、性交渉が、娯楽が、映画を観ていてもまったく想像することが出来ませんでした。
 そんなわけで、映画の大オチ(現実の社会でプログラムが実体化するというもの)がただただひたすら荒唐無稽に思えて仕方がありませんでした。
 
 本作は今後の3D映画の将来を占う作品だと個人的に注目していたのですが、本作の見かけのきらびやかさと中身のなさに、あぁ、3D映画もいよいよ終わったな、という思いを強く抱きました。


 お気に入り度は★★、お薦め度は★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
コメント (2)
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