ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月26日 | 書評
木枯らし風景 筑波山

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第23回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第9回

3)建武の新政の諸矛盾 (その2)

「太平記」第4巻では1332年3月後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に配流される。太平記には漢籍の故事の引用が極めて多いが、この巻の半分以上は呉越合戦の越王句践の説話である。後醍醐を句践になぞらえ、いつかは幕府に勝つというストーリーをかぶせている。そして越王句践の忠臣范蠡になぞらえられるのは「天句践をいたずらにすることなかれ 時に范蠡無きに非ず」で有名な児島高徳である。彼にこんな漢籍の素養があったとは思えないが、彼は自らを「志士仁人」と公言する。いずれにせよ太平記の児島高徳が楠木正成と同じように、たぶん物語的に作られた人物だと言える。隠岐を脱出した後醍醐天皇を舟上山で迎えたのは、もと「鰯売り」の名和長年である。名和は漁業や海上交易で稼いだ武装商人であった。突如として名和の名前が出現する、存在の怪しげな人物である。護良親王の令旨に呼応して兵をあげたのは播磨の赤松円心であった。1333年2月摂津の摩耶山に城郭を構え六波羅軍を撃退し、一気に京へ兵を入れた。京周辺での攻防戦は後醍醐側の苦戦となり、後醍醐は側近の千種忠顕を大将として山陰・山陽の軍勢を派遣した。同年3月北条一族の名越高家と親戚関係にあった足利高氏を対象として六波羅援助軍が京に向かった。だが高氏は秘かに天皇側について綸旨を得て、名越高家が戦死すると自軍を反転させ六波羅討伐の兵をあげた。そして足利高氏、赤松円心、千種忠顕は兵を京に入れた。持明院側の光厳天皇、花園上皇らは今日を脱出したが、近江国番場で野武士に敗れ六波羅兵4百名は自害し、光厳天皇は京へ戻された。鎌倉では護良親王の令旨を得た新田義貞が5月新田の荘で倒幕の挙兵をした。4月18日鎌倉幕府北条高時以下北条一族873人は東勝寺で自害し、鎌倉幕府は1か月足らずの戦闘で滅亡した。 鎌倉幕府が滅亡した1334年8月、京の二条河原に「此頃都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨 召人早馬空騒動 生首還俗自由出家・・・」という落書が掲げられた。この二条河原は建武政権の政庁が置かれた二条富小路内裏と目と鼻先ほどしか離れていない。新政権に不満を抱く人物による時勢批判であった。京童の口ではなく、漢籍に教養を持つ貴族か僧に違いない。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月25日 | 書評
木枯らし風景 筑波山

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第22回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第8回

3)建武の新政の諸矛盾 (その1)

1331年5月後醍醐天皇による再度の倒幕計画が露見した。密告したのは天皇の後見役で側近の吉田定房であるとされる。天皇のあまりに無謀な計画に危惧を抱き事を未然に葬るためであった。日野俊基は捕らえられて鎌倉に送られ翌年斬首された。文観、円観、忠円ら側近の僧侶は鎌倉に送られ流罪に処せられた。佐渡の流されていた日野資朝は処刑された。後醍醐は9月元号を元弘と改め尊雲法親王の勧めで三種の神器と共に内裏を脱出し笠置山に逃避した。京に留まった側近の萬里小路宣房、三条公明、洞院実世、平成輔らは六波羅に拘束された。花山院師賢は天皇の服装を偽装して比叡山に上って六波羅の眼をかく乱した。比叡山では尊澄法親王、尊雲法親王が戦ったがあっけなく四散した。花山院、尊澄法親王は笠置山に逃げ、尊雲法親王は熊野・十津川方面に逃亡した。「太平記」第3巻に、後醍醐天皇は河内国の金剛山のふもとに居る土豪楠正成を知るに至る。楠の父は東大寺の雑掌(代官)の一人であったようだが素性は不明としか言いようがないが、1332年から河内、和泉、摂津、紀伊一帯でのゲリラ的軍事行動は鎌倉幕府を苦しめた。楠と書くのは「太平記」の影響であるが、明治10年1877年に始まった国史編纂事業は、建武の中興を明治維新の王政復古の先蹤とみなし、東大史料編纂所の川田らは「楠木」と書く。以降の教科書などでは「楠木」と書く方が多くなった。1331年9月楠正成は河内の赤坂で挙兵した。この大阪・紀伊の反乱の前に幕府軍は笠置城は落ち後醍醐天皇は逮捕された。笠置山の落城を前に楠は撤退し隠れた。これ以降楠正成の神出鬼没のゲリラ戦法(モグラ叩き戦争)に幕府軍は悩まされ、護良親王(尊雲法親王)は吉野で挙兵した。楠正成が年貢を免除される代わりに各種の交易商業民である「」の代官であったようだが、声聞師という雑芸の民も集まった。物資を運搬する商人(散民)は武装している場合が多く、楠正成も時によっては数十人から数百人の武装民を統率することは可能であった。後醍醐天皇が源平の名門の組織された武装兵に依拠できなかったのは、鎌倉の御家人たちは貴族・寺院の荘園を侵食し地頭を介して税の収奪機能を持ち、朝廷や寺院の敵対勢力であったからだ。天皇が武家御家人である北条氏を介さずに直接民を支配する政治原理が、旧階級のヒエラルヒーを無視し、序列・旧支配機構を無カ化する場(無礼講・芸能事寄合)の原理を必要とした。天皇が直接民に君臨する統治形態を企てた際の理想像を、宋学と共に受容された中国宋代の皇帝制官僚機構に求めた。楠正成は「太平記」の登場人物数百人のなかで最も好意的に描かれている。幕府側文書では「悪党」と称されているが、正成自身が宋学を勉強していたようであり、「孟子」の「草莽の臣」の思想に心酔していたようだ。野の人間を「草莽の臣」(庶人)と呼ぶ。「太平記」では、楠正成と同じように児島高徳、名和長年の話でも、天皇を助ける民間の士が現れる。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月24日 | 書評
木枯らし風景 桜並木

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第21回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第7回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その4)

文観は1278年播磨国の生まれで、13歳で真言律宗の一乗寺で会得し奈良西大寺の信空から沙弥戒を受けた。1301年醍醐寺道順から灌頂を受けた。文観は真言僧でありながら、西大寺律僧を兼ねていた。1323年文観は道順が亡くなったので後醍醐天皇に採用された。1325年内供奉に任じられ、1327年には後醍醐天皇に両部灌頂を授けた。1331年5月文観僧正(醍醐寺座主、東寺座主)、円観上人、忠円僧正らが幕府調伏の祈祷を行った疑いで逮捕され、6月鎌倉に送られた。三人の僧は流罪に処せられた。これを「元弘の変」という。7月「正中の変」で放免されていた日野俊基が再逮捕された。今度は身に危険が及ぶと見た後醍醐天皇は8月に三種の神器と共に内裏を脱出した。太平記第12巻は建武政権の失政とその政権で奢りを極めた者を痛烈に批判している。従って、護良親王、千種忠顕、僧文観らは口を極めて痛烈に批判される。今川了俊の「難太平記」によると、「太平記」の原文は法勝寺の円観が足利直義に持参したものが基になっているという。このなかで「邪魔外道」の文観イメージが決定的な影響を与えたと言われる。そんな文観にとって代わったのは、足利尊氏に仕えて「将軍の護持僧」と言われた醍醐寺三宝院賢俊である。賢俊は日野資名、資明の弟で1336年6月尊氏が九州から入京とともに醍醐寺座主に任じられ同時に東寺長者を兼任した。文観一派を追い出す形で、賢俊は20年間真言密教界の頂点にあって権勢をふるった。この20年間に「太平記」の前半部(1-21巻)が成立し、足利政権周辺で加筆改定が行われた模様である。しかし河内の観心寺や金剛寺など楠正成ゆかりの真言密教寺院には早くから文観の影響が及んでいた。後醍醐天皇に正成を紹介した文観の役割は否定できない。文観と律宗の関係は独特である。奈良西大寺系真言密教の開祖叡尊に対する文観の個人的信奉にもよるが、戒律を重んじ殺生を戒め功徳を説く宗派は社会活動にも熱心で救済事業など実践的な社会活動を通じて広い階層の支持を得た真言律宗教団を後醍醐は注目したようである。独自の僧綱任免権、旧仏教界の寺院経済を支える大勧進職には律僧が多く採用された。旧寺院の人的しがらみから距離を置いて幅広い人脈から組織の中に浸透し影響力を持っていた点から、後醍醐天皇は律僧をことのほか重用したようである。文観、円観らは広い階層の組織力に長け、人材供給の仲介者たり得たいわばコーディネーターの役割能力を持っていた。「無礼講」や芸能事や「飲茶の会」を仕切るのは、世俗的な序列から一定の距離を置いた僧が非常に有能であった。後醍醐天皇の政治的・軍事的敗北に殉じて吉野に赴いた文観に対して、天台系の戒律復興宗派(比叡山系新儀律僧である)円観上人は建武政権の崩壊後も京に留まり、足利政権の依頼で南北両朝の和平交渉の仲介を行った。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月23日 | 書評
木枯らし風景 筑波山 

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第20回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第6回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その3)

後伏見上皇の量仁親王が皇太子となったが、後醍醐天応は譲位に応じようとはしなかった。立太子から2年後1328年6月から後伏見上皇は日枝神社などに量仁皇太子の即位を願って願書を奉納した。後醍醐天皇の在位は10年が経過し、両統迭率の原則からして異様に長い在位になった。後伏見上皇は鎌倉幕府に後醍醐の譲位を要請する文書を送ったが幕府に取り上げられることは無かった。この時幕府内では北条得宗家と内管領長崎氏との対立のお家騒動で朝廷の後継者争いに関与する余裕はなかったと言える。このことは天皇の即位が鎌倉幕府の裁定によって決められるという現実を再認識させ、宋学の名分論を受容していた朝廷にとって倒幕の正統性に強く傾くことになった。1330年3月、後醍醐天皇は南都東大寺と興福寺に行幸し、同月比叡山延暦寺に行幸した。比叡山の大塔尊雲法親王、妙法院の尊澄法親王が大講堂の落慶法要を執り行った。二人とも天台座主となり、尊雲法親王(還俗して護良親王)と尊澄法親王(還俗して宗良親王)はやがて南朝方の軍事力の中核となった後醍醐天皇の皇子である。後醍醐は衆徒三千ともいわれる比叡山延暦寺に二人の皇子を送り込んだ。当然この南都と北都の法要は、東夷を征伐する謀と取られた。後醍醐の皇子静尊法親王は天台寺門派の聖護院門跡に入った。聖護院は天台系の修験山伏の本寺派であり、醍醐寺三宝院の当山派(醍醐寺の座主には後醍醐は全関白鷹司基忠の子聖尋を送りこんだ)の山伏と共に後醍醐天皇の倒幕に加担した。修験山伏は紀伊半島の山岳地帯を活動拠点としており、南朝勢力の拠点となった。山岳のゲリラ戦に強いのは言うまでもない。聖尋は真言宗の東寺長者になり東大寺別当を兼務し、笠置寺別当でもあったので、元弘の変では後醍醐方の避難先として、東大寺や笠置寺にかくまった。「増鏡」は正中の変以降、後醍醐天皇が中宮禮子の御産祈祷と称した幕府調伏の祈祷が行われたと記している。3年間も祈祷が繰り返されたことに幕府15代執権金沢貞顕が「不審」であると六波羅探題金沢貞将の手紙に記している。「太平記」第1巻では「関東調伏の法行われる事」と解釈している。「太平記」は後醍醐天皇は阿野廉子を寵愛し、中宮禮子には無視に近い冷たい態度で安産祈祷など行うはずがないとしている。後醍醐天皇自らが聖天供の修法を行ったとされる。後醍醐天皇の真言密教への傾倒は父御宇多上皇を習ったものである。聖天は密教の守護神でありヒンズー教に由来するセックスと王権の結合を自ら修法することの異形さ、怨敵降伏が目的であった点に執権金沢貞顕が不審を抱いたのである。この異形の王権という言うイメージが「妖僧文観」と結びつく。密教における秘事・秘法の伝授儀礼は院政以降社会慣習として公家社会に浸透していた。天皇の血脈は密教儀礼として「即位灌頂」とし手執り行われ、近世・近代の芸道の資格授与もこの灌頂儀礼に由来する。密教僧は朝廷生活で重用され、文観は後醍醐天皇の護持僧として近侍しあらゆる謀議に参画したようである。真言密教には山科の醍醐寺と勧修寺の小野流と、仁和寺を拠点とする広沢流があった。後宇多上皇は醍醐寺三宝院の憲淳より伝法灌頂を受け、憲淳の弟子道順からも受法した。道順は皇太子時代の後醍醐に印可を与えた。後醍醐天皇は真言密教の小野流・広沢流の流派を受法した。文観は1278年播磨国の生まれで、13歳で真言律宗の一乗寺で会得し奈良西大寺の信空から沙弥戒を受けた。1301年醍醐寺道順から灌頂を受けた。文観は真言僧でありながら、西大寺律僧を兼ねていた.

(つづく)


兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月22日 | 書評
木枯らし風景 東京八重洲 桜通り 2

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第19回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第5回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その2)

後醍醐天皇の倒幕の企ても、1324年後宇多法皇の死をきっかけに大覚寺統の内紛によって大きく狂わされた。後宇多法皇は死のまじかに皇太子の邦良親王を呼び、後醍醐天皇の譲位後は邦良親王を即位させるよう指示したという。法皇の死後二か月して邦良親王の側近六条有忠は鎌倉に下り、邦良親王を即位させる幕府工作を行った。幕府の裁定によって皇位が決められる実勢である以上、後醍醐天皇の親政を中断させる最大の力は幕府にあった。南北朝の動乱は形の上では大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)との抗争であるが、そのきっかけとなった正中の変は、大覚寺統内部の後醍醐天皇派と邦良親王派との対立によって引き起こされた。法皇の死後三か月して後醍醐天皇の倒幕の企ては露見した。倒幕計画に加わった土岐頼員は六波羅の奉行斎藤利行の娘を妻としていたので、その線から倒幕計画が漏れたのである。日野資朝や俊基と共謀した土岐頼員は成功はおぼつかないと感じて六波羅奉行斎藤利行に倒幕計画を密告し、事は露見した。土岐頼員が同族の多治見国長から聞いた計画では1324年9月23日に騒乱を引き起こし六波羅を攻撃するというものであった。六波羅では多治見国長と土岐頼有を召喚したが、両人は応じず9月19日に六波羅の軍勢が攻めて合戦となった。両者は自害し、日野資朝や俊基は六波羅が逮捕された。こうして倒幕計画は頓挫し、後醍醐天皇側は無関係を主張するため万里小路宣房が特使となって鎌倉に弁明に向かった。使者と対応したのは内管領(北条得宗家の家老)である長崎高資であった。当時蝦夷で反乱が起き、管領安東氏一族の内紛がからんで、幕府は朝廷問題に余裕がなかったため、万里小路宣房の言い分を認め沙汰なしとした。日野資朝や俊基と祐雅法師を真相究明のため鎌倉へ移送した。「太平記」ではこの辺の事情をかなり物語化してフィクションとしている。同年11月「正中の変」の発覚後2か月して、金沢貞将が五千の大軍を率いて六波羅南探題に着任した。日野資朝は釈放されたが、日野俊基は佐渡流罪となった。そして8年後の1332年二度目の倒幕計画が露見した「元弘の変」に際して、日野資朝はは佐渡で処刑され、日野俊基は鎌倉で斬られた。皇太子邦良親王側は1324年2月、六条有忠を特使として再度鎌倉に送り、幕府が後醍醐天皇に譲位を迫るよう働きかけをおこなった。また後醍醐側も吉田定房を鎌倉に派遣して対幕府外交交渉を競った。ところが後醍醐天皇が譲位を渋って先延ばしにしている間に、病弱な皇太子邦良親王が死去した。今度は3人の皇太子候補問題でもめ、1326年幕府は後伏見上皇の量仁親王を皇太子に決定した。この裁定に怒った後醍醐側は倒幕の決意を固めたが、正中の変の失敗から行動はより慎重にかつ計画的に進められ、二度目の倒幕の企て(元弘の変)は5年後の1331年に後醍醐天皇が笠置山へ行幸するまで表面化しなかった。

(つづく)