ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月19日 | 書評
木枯らし風景 結城市鬼怒川堤防

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第16回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第2回

1)後醍醐親政の企て(その2)

後醍醐天皇の親政の理念は改元論議に始まり、政道の学問としての儒学(宋学)の流行に動かされる朝廷の議論に見ることができる。1332年2月に改元が行われ元享元年とされた。平安時代以降改元は天災や疫病、政情不安を回避するため、讖緯説に基づいて辛酉年、甲子年の改元が行われた。干支の辛酉年、甲子年は天命の革まる年であり天下に変事が起こるとされた。この讖緯説は400年近く踏襲されてきたが、後醍醐天皇が即位されて3年後に讖緯説が疑われたのである。当代一流の学識を持つ公卿たちが諤々の議論を行った。そもそも讖緯説は儒教の経書によるのではなく、「易緯」や「詩緯」などの緯書に根拠を置いた。儒教の学者達より合理性に欠けるとされ、讖緯説を排斥する動きが現れた。そしてそれは辛酉改元そのものを否定するものであった。後醍醐帝の朝廷で行われた公卿らの改元議論の中で、中納言北畠親房の意見の記録(革命革令儀仗定文)を紹介する。讖緯説を「奇怪虚誕」とする親房は、「興衰治乱は徳にあり、天に在らず」と述べ、「讖緯説は術士の行うもので、聖人の道に在らず」といい、改元そのものが不要であるといった。1321年この議論は後醍醐天皇の勅裁によって、讖緯説によらず天皇の親政が行われる年として改元は行うと決着した。「讖緯説」批判の根拠は、中国宋代に行われた欧陽脩や朱熹の意見に近いものである。後醍醐天皇の真言密教への傾斜は朱子学の儒学の道とは無縁のものであり、後醍醐の複雑性、矛盾でしか説明がつかない。北畠親房の「神統正統記」や「増鏡」などの史論は後醍醐の親政をおおむね肯定的に評価している。政道の学問としての「周公孔子の道」(聖人の道)、「三綱五常の儀」(人倫の道)は儒学の「三史五経」の学問の総称である。後醍醐帝は親政の開始とともに、漢詩文・和歌・管弦の会を盛んに催し、1323年「続後拾遺和歌集」の撰進を命じた。また後醍醐天皇には自ら宮廷の年中行事を和文で記した「建武年中行事」という著作がある。「源氏物語」は、平安時代の盛時とみなされる醍醐天皇と村上天皇の時代、延喜・天歴の時代をモデルとしたものであるが、古き(良き)貴族の時代を理想とした時代を模し朝議の再興が図られ、和歌、歌舞、管弦、または政道の学問が重んじられ、仏教諸派の保護も行われた。後醍醐天皇が顕密諸宗(旧仏教)のほかに、新興の禅宗や律宗の僧をを重用し、大徳寺や南禅寺、建仁寺の住職を内裏に招いた。後醍醐天皇の禅宗への関心は一つには宋・元よりもたらされた新しい学問(宋学)や文物への興味であった。茶会・茶寄合も鎌倉後期から禅宗を起点として流行したものであった。「太平記第1巻」の冒頭には後醍醐天皇の名君ぶりを称え、その施策を紹介している。商売の妨げになる関所の廃止、検非違使の別当(北畠親房や日野資朝が任じられた)に備蓄米の適正な販売価格の維持監視、記録所を通じた民衆の訴えの裁判に出向いたとされる。1321年院政を廃止し記録所を土地の訴訟処理の天皇勅裁政務期間とした。鎌倉末期に激増した土地訴訟を迅速に処理することは政治の重要課題であり、記録所は後醍醐天皇親政当時の最高政務期間となった。日野資朝は学者官僚として新傾向の宋学の元締めとして、そして倒幕計画の中心となった人物である。宋学の朱熹によって「四書」とされた、「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」のうち、後醍醐天皇は「中庸の道」を善く学び最高の徳とした。花園上皇も後醍醐天皇の「中庸の道」によって朝廷の祭りごとが「中興」に向かうことを期待したという。宋学は鎌倉時代より朝廷や寺院の周辺で盛んに学ばれた。渡宋した僧(東福寺の僧円仁ら)は仏典のほかに儒書を多数携えて帰国した。またモンゴル元の侵攻で追われた南宋の知識人(無学祖元、蘭渓道隆ら)が多数来日し、鎌倉末期の朝廷では宋学ブームが起きた。宋の史学も、藤原南家、式家、菅原家、大江家の家によって伝えられた。

(つづく)