木枯らし風景 東京八重洲 桜通り 1
鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期 第18回
兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第4回
2)鎌倉幕府討伐計画 (その1)
後醍醐天皇親政の時に(1321-1324年)倒幕計画に側近として参加したのは、「太平記」第1巻によると日野資朝、日野俊基、四条隆資、花山院師賢、平成成輔らである。俊基は公務に忙しく準備ができずに山伏姿で近在の幕府に不満を抱く武士の情勢を探りに旅にでた。資朝は美濃源氏の土岐頼時、多治見国長らを倒幕計画に引き込んだが、彼らの心底は測りがたかった。日野資朝、日野俊基の二人が倒幕勢力の動員に奔走したころは確かである。そこで「無礼講」という寄合を開催し、天皇側近らと僧侶、武士などを集めて、文字通りの酒池肉林の狼藉ぶり、上下の礼秩序の無視した寄合で天皇勢力と側近たちは地下の武士と交わったという。身分や序列が無視される場を設定して、天皇と側近たちは倒幕の謀議を重ねてゆく。それはある意味で無力な官僚機構と耕作地という経済手段を奪われて、かつ直接の武力としては比叡山と南都の山法師しかもたない、組織された武装勢力を喪失した裸同然の貴族集団が権力を奪い返し昔の支配力を恢復したいという時代錯誤的な野望であった。かつ既存支配階級であった旧家・旧貴族は鎌倉幕府にすり寄り、彼らの使い走りとして家柄を保持しているに過ぎなかった。天皇の親政を無力化する公卿の合議体制(摂関制、院政など)を解体し、天皇が官僚機構を直接把握して民に君臨する統治形態が、後醍醐天皇の「新政(天皇親政)」である。それは家柄、門閥を無視否定することで実現される。そのような既存の序列を無視する象徴的な場として、滑稽な「無礼講」の宴が開催されたのである。この無礼講の風習はやがて建武政権下にあって、茶寄合、連歌会、歌舞・能会といった芸能的寄合の爆発的な流行を呼んだ。これを当時の「二条河原落書」では「自由狼藉の世界」と批判した。日野俊基が天皇の側近として抜擢された1323年は真言律宗の僧文観弘真が宮廷に召された年でもあった。文真は南都西大寺の僧であり、西大寺を再興した叡尊の門徒であった。文真は叡尊らが広めた文殊信仰の信奉者になった。叡尊は醍醐寺で得度し高野山で密教を学んだ。文真も醍醐寺で伝法灌頂を受けた。文真に灌頂を授けたのは道順が後宇多法皇に印可を授け、後醍醐が皇太子であったとき伝法灌頂を授けている。1321年に道順が亡くなったので後醍醐天皇は文真を護持僧として宮廷に召した。正中の変が起きる半年前、1324年3月に奈良般若寺に文殊菩薩騎獅像が奉納され、その内面の銘文に「金輪聖主御願成就」と書かれていた。これは後醍醐天皇の願事成就(鎌倉幕府討伐)を文真が祈った証拠とみなされている。文殊菩薩騎獅像の剥ぎ面に施主として六波羅探題評定衆頭人の伊賀兼光という幕府高官の名も見える。正中の変で動員された天皇方の軍事力の主力は美濃源氏の土岐一族である。鎌倉末期に土岐光定は北条貞時(九代執権)の娘を妻として有力な鎌倉御家人であった。しかし幕府内での抗争である(嘉元の乱)で失脚し、土岐氏の流れは変わった。正中の変のとき土岐氏はかっての勢力をなくしていた。後醍醐天皇方についた有力御家人には常陸の小田は六波羅頭人に小田時知、貞知の名がみえる。小田嫡宗家の高知は建武の中興の功績で治久と改名し後醍醐親政の要人に取り立てられた。日野資朝や俊基の諜報活動でかなり幕府方高官にも天皇方につく者が出たようである。
(つづく)