ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月21日 | 書評
木枯らし風景 東京八重洲 桜通り 1

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第18回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第4回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その1)

後醍醐天皇親政の時に(1321-1324年)倒幕計画に側近として参加したのは、「太平記」第1巻によると日野資朝、日野俊基、四条隆資、花山院師賢、平成成輔らである。俊基は公務に忙しく準備ができずに山伏姿で近在の幕府に不満を抱く武士の情勢を探りに旅にでた。資朝は美濃源氏の土岐頼時、多治見国長らを倒幕計画に引き込んだが、彼らの心底は測りがたかった。日野資朝、日野俊基の二人が倒幕勢力の動員に奔走したころは確かである。そこで「無礼講」という寄合を開催し、天皇側近らと僧侶、武士などを集めて、文字通りの酒池肉林の狼藉ぶり、上下の礼秩序の無視した寄合で天皇勢力と側近たちは地下の武士と交わったという。身分や序列が無視される場を設定して、天皇と側近たちは倒幕の謀議を重ねてゆく。それはある意味で無力な官僚機構と耕作地という経済手段を奪われて、かつ直接の武力としては比叡山と南都の山法師しかもたない、組織された武装勢力を喪失した裸同然の貴族集団が権力を奪い返し昔の支配力を恢復したいという時代錯誤的な野望であった。かつ既存支配階級であった旧家・旧貴族は鎌倉幕府にすり寄り、彼らの使い走りとして家柄を保持しているに過ぎなかった。天皇の親政を無力化する公卿の合議体制(摂関制、院政など)を解体し、天皇が官僚機構を直接把握して民に君臨する統治形態が、後醍醐天皇の「新政(天皇親政)」である。それは家柄、門閥を無視否定することで実現される。そのような既存の序列を無視する象徴的な場として、滑稽な「無礼講」の宴が開催されたのである。この無礼講の風習はやがて建武政権下にあって、茶寄合、連歌会、歌舞・能会といった芸能的寄合の爆発的な流行を呼んだ。これを当時の「二条河原落書」では「自由狼藉の世界」と批判した。日野俊基が天皇の側近として抜擢された1323年は真言律宗の僧文観弘真が宮廷に召された年でもあった。文真は南都西大寺の僧であり、西大寺を再興した叡尊の門徒であった。文真は叡尊らが広めた文殊信仰の信奉者になった。叡尊は醍醐寺で得度し高野山で密教を学んだ。文真も醍醐寺で伝法灌頂を受けた。文真に灌頂を授けたのは道順が後宇多法皇に印可を授け、後醍醐が皇太子であったとき伝法灌頂を授けている。1321年に道順が亡くなったので後醍醐天皇は文真を護持僧として宮廷に召した。正中の変が起きる半年前、1324年3月に奈良般若寺に文殊菩薩騎獅像が奉納され、その内面の銘文に「金輪聖主御願成就」と書かれていた。これは後醍醐天皇の願事成就(鎌倉幕府討伐)を文真が祈った証拠とみなされている。文殊菩薩騎獅像の剥ぎ面に施主として六波羅探題評定衆頭人の伊賀兼光という幕府高官の名も見える。正中の変で動員された天皇方の軍事力の主力は美濃源氏の土岐一族である。鎌倉末期に土岐光定は北条貞時(九代執権)の娘を妻として有力な鎌倉御家人であった。しかし幕府内での抗争である(嘉元の乱)で失脚し、土岐氏の流れは変わった。正中の変のとき土岐氏はかっての勢力をなくしていた。後醍醐天皇方についた有力御家人には常陸の小田は六波羅頭人に小田時知、貞知の名がみえる。小田嫡宗家の高知は建武の中興の功績で治久と改名し後醍醐親政の要人に取り立てられた。日野資朝や俊基の諜報活動でかなり幕府方高官にも天皇方につく者が出たようである。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月20日 | 書評
木枯らし風景 栃木県小山市 田川

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第17回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第3回

1)後醍醐親政の企て(その3)

1319年7月花園上皇御所(持明院殿)で「論語講義」には、日野資朝、菅原公時、玄恵僧都らも参加した。宋学は朱熹が言う「理致」、「窮理」、「到知」という理性を求める精神であった。玄恵僧都は建武政権の崩壊後は足利直義に仕え室町幕府法「建武式目」の起草に参加した。そして「太平記」の校閲にも携わったともいわれる。後醍醐天皇は新政の理想を中国宋代の中央集権的な国家イメージに求めたのかもしれない。花園上皇は「書経」の一つである「尚書」の談義を1322年より2年間行った。「尚書」とは聖帝の堯・舜の代から夏・殷・周の時代に至る帝王の言行録である。この談義には中原師夏、菅原公時、日野資朝、紀行親らの学者が参加した。この「宋朝の儀」による談義が当時の朝廷の談義の学風となった。花園上皇の経書の学問は、朱熹の新注も読む「宋朝の儀」であったが、1321年「四書」の一つである「孟子」を読んだ。孔孟の教えというように宋学においては「孟子」は儒学の根本経典であった。「太平記」に引用される経書の第1位は「論語」、第2位は「孟子」である。「孟子」は、読んだ花園上皇に強い危機感と倫理意識をもたらした。孟子の一大特徴は「易姓革命」是認の思想である。現状否認と転覆の実際行動はいわば武力革命のアジテーションに同じである。後醍醐天皇の腹心として倒幕計画の中心となってゆく日野資朝は、親政が開始されたころは父俊光(伏見上皇の権大納言)とともに持明院系の花園上皇に仕えていた。日野家は藤原北家の流れで太政官弁官を代々任じられていた学者官僚であった。兄資名、弟資明もともに持明院統(北朝)に仕え、資朝は花園天皇に仕え五位の蔵人となった。花園上皇は「花園院宸記」において資朝も俊才ぶりを褒め、何事も資朝と「道の大道」を論じて意を得たという。1320年資朝は後醍醐天皇の蔵人頭に任じられ、側近中の側近となった。翌年参議に昇進し天皇の侍読となった。後醍醐天皇(大覚寺派)に仕官したと言えども花園上皇の御所にも出入りができた。建武政権が崩壊した後に書かれたと思われる兼好法師の「徒然草」に資朝は3回登場しているが、兼好は才走った資朝を気にはしていたが好感は持っていなかったようだ。後醍醐帝の側近として早くから仕えていたのは日野俊基であった。後醍醐帝禁裏での儒教議論では、吉田冬方と日野俊基が抜きんでいたという。日野一門の俊基は、資朝とは遠縁ではあるが親戚である。俊基の父種範(従三位刑部卿)は花園天皇に仕えた。儒学の才学によって後醍醐帝の側近となった俊基は五位の蔵人になった。内裏で行われる学問は「周易」、「論語、孟子、大学、中庸」を重んじた。理学は、天の理法と人倫の徳性を貫く「理」を究明する宋学のことである。花園上皇は「理を先にするが礼儀を怠らない」といい、後醍醐天皇の「理を先にし礼儀にこだわらない」という見解を近日の悪弊だと非難していた。後醍醐天皇の既存の上下の礼を無視する抜擢人事や政治手法は、花園上皇には容認しがたいものに映った。後醍醐天皇の念頭にあった「新政(天皇親政)」は、天皇とその官僚機構にすべての権力を集中させる統治形態である。その天皇親政のイデオローグとなったのが、宋学を受容した学者官僚であった日野俊基や日野資朝らの中流貴族であった。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月19日 | 書評
木枯らし風景 結城市鬼怒川堤防

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第16回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第2回

1)後醍醐親政の企て(その2)

後醍醐天皇の親政の理念は改元論議に始まり、政道の学問としての儒学(宋学)の流行に動かされる朝廷の議論に見ることができる。1332年2月に改元が行われ元享元年とされた。平安時代以降改元は天災や疫病、政情不安を回避するため、讖緯説に基づいて辛酉年、甲子年の改元が行われた。干支の辛酉年、甲子年は天命の革まる年であり天下に変事が起こるとされた。この讖緯説は400年近く踏襲されてきたが、後醍醐天皇が即位されて3年後に讖緯説が疑われたのである。当代一流の学識を持つ公卿たちが諤々の議論を行った。そもそも讖緯説は儒教の経書によるのではなく、「易緯」や「詩緯」などの緯書に根拠を置いた。儒教の学者達より合理性に欠けるとされ、讖緯説を排斥する動きが現れた。そしてそれは辛酉改元そのものを否定するものであった。後醍醐帝の朝廷で行われた公卿らの改元議論の中で、中納言北畠親房の意見の記録(革命革令儀仗定文)を紹介する。讖緯説を「奇怪虚誕」とする親房は、「興衰治乱は徳にあり、天に在らず」と述べ、「讖緯説は術士の行うもので、聖人の道に在らず」といい、改元そのものが不要であるといった。1321年この議論は後醍醐天皇の勅裁によって、讖緯説によらず天皇の親政が行われる年として改元は行うと決着した。「讖緯説」批判の根拠は、中国宋代に行われた欧陽脩や朱熹の意見に近いものである。後醍醐天皇の真言密教への傾斜は朱子学の儒学の道とは無縁のものであり、後醍醐の複雑性、矛盾でしか説明がつかない。北畠親房の「神統正統記」や「増鏡」などの史論は後醍醐の親政をおおむね肯定的に評価している。政道の学問としての「周公孔子の道」(聖人の道)、「三綱五常の儀」(人倫の道)は儒学の「三史五経」の学問の総称である。後醍醐帝は親政の開始とともに、漢詩文・和歌・管弦の会を盛んに催し、1323年「続後拾遺和歌集」の撰進を命じた。また後醍醐天皇には自ら宮廷の年中行事を和文で記した「建武年中行事」という著作がある。「源氏物語」は、平安時代の盛時とみなされる醍醐天皇と村上天皇の時代、延喜・天歴の時代をモデルとしたものであるが、古き(良き)貴族の時代を理想とした時代を模し朝議の再興が図られ、和歌、歌舞、管弦、または政道の学問が重んじられ、仏教諸派の保護も行われた。後醍醐天皇が顕密諸宗(旧仏教)のほかに、新興の禅宗や律宗の僧をを重用し、大徳寺や南禅寺、建仁寺の住職を内裏に招いた。後醍醐天皇の禅宗への関心は一つには宋・元よりもたらされた新しい学問(宋学)や文物への興味であった。茶会・茶寄合も鎌倉後期から禅宗を起点として流行したものであった。「太平記第1巻」の冒頭には後醍醐天皇の名君ぶりを称え、その施策を紹介している。商売の妨げになる関所の廃止、検非違使の別当(北畠親房や日野資朝が任じられた)に備蓄米の適正な販売価格の維持監視、記録所を通じた民衆の訴えの裁判に出向いたとされる。1321年院政を廃止し記録所を土地の訴訟処理の天皇勅裁政務期間とした。鎌倉末期に激増した土地訴訟を迅速に処理することは政治の重要課題であり、記録所は後醍醐天皇親政当時の最高政務期間となった。日野資朝は学者官僚として新傾向の宋学の元締めとして、そして倒幕計画の中心となった人物である。宋学の朱熹によって「四書」とされた、「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」のうち、後醍醐天皇は「中庸の道」を善く学び最高の徳とした。花園上皇も後醍醐天皇の「中庸の道」によって朝廷の祭りごとが「中興」に向かうことを期待したという。宋学は鎌倉時代より朝廷や寺院の周辺で盛んに学ばれた。渡宋した僧(東福寺の僧円仁ら)は仏典のほかに儒書を多数携えて帰国した。またモンゴル元の侵攻で追われた南宋の知識人(無学祖元、蘭渓道隆ら)が多数来日し、鎌倉末期の朝廷では宋学ブームが起きた。宋の史学も、藤原南家、式家、菅原家、大江家の家によって伝えられた。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月18日 | 書評
木枯らし風景 結城市鹿窪公園

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第15回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第1回 

1)後醍醐親政の企て(その1)

後醍醐天皇は正応元年(1288年)御宇田天皇の第2皇子として生まれた。諱を尊治という。母は五辻忠継の娘で、御宇田天皇の間に2男1女をもうけたが、やがて亀山法皇の寵愛を受けた。尊治は幼年時代を亀山法皇御在所である亀山殿(この地に後に天龍寺が創建された)で過ごした。父御宇田上皇と祖父亀山法皇との間の愛憎劇が尊治をして皇位継承となって浮上する伏線となったことは、上に書いた村松剛氏の評伝「1)大覚寺統後醍醐帝の親政と正中の変」に詳しい。後醍醐天皇は1318年、31歳の時即位した。当時、持明院統と大覚寺統という皇統の二つが交互に天皇を出す約束があり、後醍醐天皇の属する大覚寺統でも邦良親王(後二条の皇子)派と尊治(後醍醐)派の間に抗争があったため、異例の後醍醐帝の出現となった。13世紀後半に後嵯峨上皇が1274年に亡くなり、その後継を巡って鎌倉幕府の調停により、亀山天皇の皇子世仁親王が即位する際に、後深草の皇子(後の伏見天皇)を皇太子にした。後深草上皇の皇統を持明院統といい、亀山上皇の皇統を大覚寺統といい、この二つの皇統が交替で皇位を継ぐ慣例が生まれた。この分裂状態が南北朝の抗争・内乱に持ち込まれた。1301年持明院統の後伏見天皇は3年で退位し、大覚寺統の後二条天皇が即位し、後宇田上皇による院政が開始された。1308年後二条天皇は24歳で急逝した。持明院等の花園天皇が即位した。大覚寺統ではだれを次の天皇にするかで後継候補を邦良親王とする派と、後宇田上皇の息子尊治親王(後醍醐)をおす派に別れた。病弱な邦良親王が即位するまで尊治親王(後醍醐)を立太子させることが図られた。当時の京都朝廷の最高実力者は、鎌倉幕府の意向を朝廷に伝える「関東申次職」を世襲していた西園寺家(藤原公経が祖)であった。つまり西園寺家がキングメーカーであり、その娘らを有力な天皇や皇子に嫁がせることが朝廷権力を握る戦術の最短距離であった。例えば西園寺実兼は長女永福音鏡子を伏見天皇の后に、妹昭訓門院瑛子は亀山法皇の后にし、野心のある尊治(後醍醐)親王には妹禧子を与えた(できちゃった婚で)。1318年花園天皇は譲位し、尊治親王が践祚し邦良親王の立太子が決まった。後醍醐天皇の誕生である。こうして大覚寺系の二代続いての即位が決まり、後宇田法皇は二度目の院政を敷いた。この時代は僧侶の位階にも賄賂が横行する政治であった。後宇田法皇の真言密教への傾斜は急速に深まった。後宇田法皇は自ら高野山真言密教道場に参拝した。後醍醐天皇が密教へ傾斜するのも父法皇からの影響が強かったからだといわれる。そして後宇田法皇は大覚寺を御所として第2院政が開始された。法皇は天皇の許諾を得ずに「任官」を行い、天皇との間に軋轢が生じた。幕府は後醍醐天皇の後見役であった吉田定房の意見を善しとして、院政は2年で廃止され天皇の親政が始まった。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月17日 | 書評
木枯らし風景 結城市ケヤキ公園

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第15回

松村剛 著 「帝王後醍醐」(中公文庫 1981年) 第9回

5) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い (その2) 最終回

1337年1月北陸の新田軍に対して小笠原、村上に追討を命じ、高師直を総指揮官として派遣した。3月6日金崎城が落城し、尊良親王と世尊寺行房は自害し、恒良親王は捕縛され京に護送されて殺された。後醍醐帝系の阿野廉子が生んだ皇子は奥州にいる義良親王を除いて皆殺しにされた。奥州の北畠顕家に西上を命じる帝の勅使が12月25日に出発した。吉野南朝にはせ参じた公卿には、近衛経忠、吉田定房、二条師基、坊門清忠らであった。後醍醐帝系の公卿に対する粛清が勢いを増したのでいたたまれなくなった公卿らが吉野へ逃れた。北畠顕家の軍は8月にようやく奥州を発ち4ヶ月かかって利根川に達し12月14日には鎌倉を攻撃して斯波家長を戦死させ一時鎌倉を占領した。翌1338年1月に新田義興の兵を合わせて美濃で高師冬軍を破ったが、背後から今川範国に攻撃されて敗れた。顕家は伊勢に進路を変え吉野へ向かったが、奈良で高師直軍に敗れた。顕家は京への進出を諦めず、河内に出て5月22日和泉堺で討ち死にした。名和義高も戦死している。7月2日福井藤島庄の燈明寺畷で新田義貞はあっけなく戦死した。これを最後に南朝の組織だった反攻は後を絶つのである。8月11日をもって尊氏は北朝から正式に征夷大将軍に任じられた。おなじ8月南朝では義良親王を天皇に禅譲し、翌日帝は崩御した。52歳であった。1347年8月楠木正行が挙兵した。南朝のイデオローグ北畠親房が常陸の小田城、関城で結城親朝の決起を要請したが、結城は動かず関城は落城した。そして親房は各地を転転として伊勢に流れ吉野に入ったようだ。伊勢では北畠顕能の活動が活発化してきた。南朝のゲリラ戦が各地で活発化する。1349年1月楠木正行は四条畷の戦いで戦死し、2月始め高師直軍は吉野を攻撃して行宮を焼き払った。とはいうものの足利幕府の中で内紛が激化し、1352年2月直義と高一族の対立によって高一族は湊川で滅亡した。尊氏は嫡子義詮に命じて直義を攻めた。この内紛につけ込んで1352年から1361年の間に南朝は4回(1352,1353,1355,1361年)京都に攻め込んだことがある。北畠親房は1355年に62歳で死亡し、足利尊氏は1359年に54歳で死亡した。1360年帝の寵妃の阿野廉子は死亡した。なぜか1392年まで南朝は存在していたようだ。

(つづく)