ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月20日 | 書評
木枯らし風景 栃木県小山市 田川

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第17回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第3回

1)後醍醐親政の企て(その3)

1319年7月花園上皇御所(持明院殿)で「論語講義」には、日野資朝、菅原公時、玄恵僧都らも参加した。宋学は朱熹が言う「理致」、「窮理」、「到知」という理性を求める精神であった。玄恵僧都は建武政権の崩壊後は足利直義に仕え室町幕府法「建武式目」の起草に参加した。そして「太平記」の校閲にも携わったともいわれる。後醍醐天皇は新政の理想を中国宋代の中央集権的な国家イメージに求めたのかもしれない。花園上皇は「書経」の一つである「尚書」の談義を1322年より2年間行った。「尚書」とは聖帝の堯・舜の代から夏・殷・周の時代に至る帝王の言行録である。この談義には中原師夏、菅原公時、日野資朝、紀行親らの学者が参加した。この「宋朝の儀」による談義が当時の朝廷の談義の学風となった。花園上皇の経書の学問は、朱熹の新注も読む「宋朝の儀」であったが、1321年「四書」の一つである「孟子」を読んだ。孔孟の教えというように宋学においては「孟子」は儒学の根本経典であった。「太平記」に引用される経書の第1位は「論語」、第2位は「孟子」である。「孟子」は、読んだ花園上皇に強い危機感と倫理意識をもたらした。孟子の一大特徴は「易姓革命」是認の思想である。現状否認と転覆の実際行動はいわば武力革命のアジテーションに同じである。後醍醐天皇の腹心として倒幕計画の中心となってゆく日野資朝は、親政が開始されたころは父俊光(伏見上皇の権大納言)とともに持明院系の花園上皇に仕えていた。日野家は藤原北家の流れで太政官弁官を代々任じられていた学者官僚であった。兄資名、弟資明もともに持明院統(北朝)に仕え、資朝は花園天皇に仕え五位の蔵人となった。花園上皇は「花園院宸記」において資朝も俊才ぶりを褒め、何事も資朝と「道の大道」を論じて意を得たという。1320年資朝は後醍醐天皇の蔵人頭に任じられ、側近中の側近となった。翌年参議に昇進し天皇の侍読となった。後醍醐天皇(大覚寺派)に仕官したと言えども花園上皇の御所にも出入りができた。建武政権が崩壊した後に書かれたと思われる兼好法師の「徒然草」に資朝は3回登場しているが、兼好は才走った資朝を気にはしていたが好感は持っていなかったようだ。後醍醐帝の側近として早くから仕えていたのは日野俊基であった。後醍醐帝禁裏での儒教議論では、吉田冬方と日野俊基が抜きんでいたという。日野一門の俊基は、資朝とは遠縁ではあるが親戚である。俊基の父種範(従三位刑部卿)は花園天皇に仕えた。儒学の才学によって後醍醐帝の側近となった俊基は五位の蔵人になった。内裏で行われる学問は「周易」、「論語、孟子、大学、中庸」を重んじた。理学は、天の理法と人倫の徳性を貫く「理」を究明する宋学のことである。花園上皇は「理を先にするが礼儀を怠らない」といい、後醍醐天皇の「理を先にし礼儀にこだわらない」という見解を近日の悪弊だと非難していた。後醍醐天皇の既存の上下の礼を無視する抜擢人事や政治手法は、花園上皇には容認しがたいものに映った。後醍醐天皇の念頭にあった「新政(天皇親政)」は、天皇とその官僚機構にすべての権力を集中させる統治形態である。その天皇親政のイデオローグとなったのが、宋学を受容した学者官僚であった日野俊基や日野資朝らの中流貴族であった。

(つづく)