ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月12日 | 書評
鬼怒川より富士山の夕焼けを見る

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第9回

松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)第3回

2) 元弘の乱と後醍醐帝隠岐配流

後醍醐帝の妃はその数30人を超え、皇子・皇女は少なくとも32人を数えたという。1320年ごろ後醍醐帝の妃となった右中将阿野公廉の娘廉子は正中の変の年に恒良親王を生み次に成良親王、義良親王を生んだ。遊義門一条との間の第2皇子世良親王が病没すると、目立たない第1皇子尊良親王よりは第3皇子の護良親王の威信が強まり、成良親王を生んだ阿野廉子と大塔宮護良親王の間に微妙な対立が生じ、南北朝の混乱を引き起こした要因となった。後醍醐帝は権謀術数と同じく閨房術数によって人脈を広げ、後醍醐派廷臣を数多く任命し、近侍する謀臣には四条隆資、平成輔、洞院実世、怪僧弘真などがいた。皇子の宗教界への布陣も怠りなかった。約束の皇位10年となる1327年ごろから倒幕計画は具体化してきた。1329年の正中の変では失敗したが、後醍醐帝にはお咎めはなかった。後醍醐帝が密かに御所を脱出し奈良の東大寺に向かったのは、元弘元年(1331年)8月24日のことであった。急ぎの事として洞院公敏、万里小路藤房、四条隆資だけと若干の武士を伴った。ところが東大寺は必ずしも後醍醐派一色ではなく鎌倉派もいたため、入山を拒否されやむなく鷲峯山から笠置山に移動した。翌25日から六波羅の一斉逮捕が行われ万里小路宣房、洞院実世、平成輔、藤原公明らが逮捕された。今回の元弘の乱の作戦本部は北畠具行だった。計画は比叡山の大塔宮護良親王から全国に宣旨を出し蜂起を促すものであったが、すでに吉田定房の密告により4月25日に事は漏れており、弘真、円観、仲円、知教らの僧侶と日野俊基は逮捕されていた。朝廷が改元を布告した8月14日には幕府の後醍後廃帝の意思が決まっていた。六波羅は後醍醐帝が比叡山にいると見て、8月27日在京の兵で3方から延暦寺攻撃を開始した。29日には比叡山は崩壊した。9月5日鎌倉幕府は大仏貞直を大将軍とする「20万人」の兵を発進させた。(実勢は5万くらいか、関東軍を主力とし東北と九州の軍は派遣されなかった) この大軍の派兵が二度の元寇とならんで鎌倉幕府の寿命を蝕んだ。鎌倉から笠置攻めの指令が出たのが9月2日で、その頃には楠木正成は笠置行在所についていた。後醍醐帝側の布陣は、尊良親王と護良親王に四条隆資をつけて正成とともに河内に向かった。宗良親王は笠置山に残った。これは幕府軍が笠置を包囲するだろうから背後から糧道を脅かすためである。大塔宮護良の命で周辺寺院と連携を持ちゲリラ的に幕府軍の背後を襲うという戦略である。それ以外の方法は貧弱な戦力の野武士正成軍には考えられなかった。正成の戦略は関東武士団の騎馬武者の動きを封じる戦術、陣地は必然的に山城になる。金剛山葛城山系に下赤坂砦と千剣破城を建造した。9月20日ごろに関東幕府軍本体が笠置山に集結し包囲戦によって9月28日には笠置は陥落した。後醍醐帝は宗良親王と忠臣ら笠置を脱出したが、9月30日に一行は逮捕され京へ護送された。朝廷では持明院統の公卿が復権し後醍醐帝時代の公卿は一掃された。そのころ楠木正成、護良親王、四条隆資らは河内で挙兵したので、幕府軍の一部を割いて下赤坂城と天王寺に向かった。山腹にあった小さな砦の下赤坂城では大軍を防ぐべくもなく主力が到着後の3日目の10月21日には落城した。 元弘の戦乱の実質的指揮官は大塔宮護良親王であった。戦乱は2ヶ月で終息したが、正成の対応に兵力の1/3を駐屯させて幕府軍主力は撤兵した。大塔宮は吉野に向かったが、吉野の執行は鎌倉側であったので山伏の案内で十津川の奥をさ迷った。元弘の乱による公卿の逮捕者は、藤原師資、万里小路宣房、洞院公敏、三条公明、北畠具行、洞院実世、平成輔ら10名となり、出家2名、四位以下の逮捕者2名であった。後醍醐帝は承久の乱に倣って隠岐へ配流、尊良親王は土佐へ、宗良親王は讃岐へ、恒性親王は越中へ、静尊法親王は但馬へ配流となった。帝に付き従ったのは千種忠顕と世尊寺行房の二人である。後醍醐帝の流刑後、翌年1332年3月22日に光厳院が即位した。6月には日野資朝、日野俊基、北畠具行、平成輔の四名が斬首された。ほかに流罪、軟禁された公卿は8名に及んだ。6月19日には撤兵は完了したが、それと同時に大塔宮の軍が伊勢に進出したのは6月24日であった。

(つづく)