ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月24日 | 書評
木枯らし風景 桜並木

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第21回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第7回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その4)

文観は1278年播磨国の生まれで、13歳で真言律宗の一乗寺で会得し奈良西大寺の信空から沙弥戒を受けた。1301年醍醐寺道順から灌頂を受けた。文観は真言僧でありながら、西大寺律僧を兼ねていた。1323年文観は道順が亡くなったので後醍醐天皇に採用された。1325年内供奉に任じられ、1327年には後醍醐天皇に両部灌頂を授けた。1331年5月文観僧正(醍醐寺座主、東寺座主)、円観上人、忠円僧正らが幕府調伏の祈祷を行った疑いで逮捕され、6月鎌倉に送られた。三人の僧は流罪に処せられた。これを「元弘の変」という。7月「正中の変」で放免されていた日野俊基が再逮捕された。今度は身に危険が及ぶと見た後醍醐天皇は8月に三種の神器と共に内裏を脱出した。太平記第12巻は建武政権の失政とその政権で奢りを極めた者を痛烈に批判している。従って、護良親王、千種忠顕、僧文観らは口を極めて痛烈に批判される。今川了俊の「難太平記」によると、「太平記」の原文は法勝寺の円観が足利直義に持参したものが基になっているという。このなかで「邪魔外道」の文観イメージが決定的な影響を与えたと言われる。そんな文観にとって代わったのは、足利尊氏に仕えて「将軍の護持僧」と言われた醍醐寺三宝院賢俊である。賢俊は日野資名、資明の弟で1336年6月尊氏が九州から入京とともに醍醐寺座主に任じられ同時に東寺長者を兼任した。文観一派を追い出す形で、賢俊は20年間真言密教界の頂点にあって権勢をふるった。この20年間に「太平記」の前半部(1-21巻)が成立し、足利政権周辺で加筆改定が行われた模様である。しかし河内の観心寺や金剛寺など楠正成ゆかりの真言密教寺院には早くから文観の影響が及んでいた。後醍醐天皇に正成を紹介した文観の役割は否定できない。文観と律宗の関係は独特である。奈良西大寺系真言密教の開祖叡尊に対する文観の個人的信奉にもよるが、戒律を重んじ殺生を戒め功徳を説く宗派は社会活動にも熱心で救済事業など実践的な社会活動を通じて広い階層の支持を得た真言律宗教団を後醍醐は注目したようである。独自の僧綱任免権、旧仏教界の寺院経済を支える大勧進職には律僧が多く採用された。旧寺院の人的しがらみから距離を置いて幅広い人脈から組織の中に浸透し影響力を持っていた点から、後醍醐天皇は律僧をことのほか重用したようである。文観、円観らは広い階層の組織力に長け、人材供給の仲介者たり得たいわばコーディネーターの役割能力を持っていた。「無礼講」や芸能事や「飲茶の会」を仕切るのは、世俗的な序列から一定の距離を置いた僧が非常に有能であった。後醍醐天皇の政治的・軍事的敗北に殉じて吉野に赴いた文観に対して、天台系の戒律復興宗派(比叡山系新儀律僧である)円観上人は建武政権の崩壊後も京に留まり、足利政権の依頼で南北両朝の和平交渉の仲介を行った。

(つづく)