ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月17日 | 書評
木枯らし風景 結城市ケヤキ公園

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第15回

松村剛 著 「帝王後醍醐」(中公文庫 1981年) 第9回

5) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い (その2) 最終回

1337年1月北陸の新田軍に対して小笠原、村上に追討を命じ、高師直を総指揮官として派遣した。3月6日金崎城が落城し、尊良親王と世尊寺行房は自害し、恒良親王は捕縛され京に護送されて殺された。後醍醐帝系の阿野廉子が生んだ皇子は奥州にいる義良親王を除いて皆殺しにされた。奥州の北畠顕家に西上を命じる帝の勅使が12月25日に出発した。吉野南朝にはせ参じた公卿には、近衛経忠、吉田定房、二条師基、坊門清忠らであった。後醍醐帝系の公卿に対する粛清が勢いを増したのでいたたまれなくなった公卿らが吉野へ逃れた。北畠顕家の軍は8月にようやく奥州を発ち4ヶ月かかって利根川に達し12月14日には鎌倉を攻撃して斯波家長を戦死させ一時鎌倉を占領した。翌1338年1月に新田義興の兵を合わせて美濃で高師冬軍を破ったが、背後から今川範国に攻撃されて敗れた。顕家は伊勢に進路を変え吉野へ向かったが、奈良で高師直軍に敗れた。顕家は京への進出を諦めず、河内に出て5月22日和泉堺で討ち死にした。名和義高も戦死している。7月2日福井藤島庄の燈明寺畷で新田義貞はあっけなく戦死した。これを最後に南朝の組織だった反攻は後を絶つのである。8月11日をもって尊氏は北朝から正式に征夷大将軍に任じられた。おなじ8月南朝では義良親王を天皇に禅譲し、翌日帝は崩御した。52歳であった。1347年8月楠木正行が挙兵した。南朝のイデオローグ北畠親房が常陸の小田城、関城で結城親朝の決起を要請したが、結城は動かず関城は落城した。そして親房は各地を転転として伊勢に流れ吉野に入ったようだ。伊勢では北畠顕能の活動が活発化してきた。南朝のゲリラ戦が各地で活発化する。1349年1月楠木正行は四条畷の戦いで戦死し、2月始め高師直軍は吉野を攻撃して行宮を焼き払った。とはいうものの足利幕府の中で内紛が激化し、1352年2月直義と高一族の対立によって高一族は湊川で滅亡した。尊氏は嫡子義詮に命じて直義を攻めた。この内紛につけ込んで1352年から1361年の間に南朝は4回(1352,1353,1355,1361年)京都に攻め込んだことがある。北畠親房は1355年に62歳で死亡し、足利尊氏は1359年に54歳で死亡した。1360年帝の寵妃の阿野廉子は死亡した。なぜか1392年まで南朝は存在していたようだ。

(つづく)