ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月22日 | 書評
木枯らし風景 東京八重洲 桜通り 2

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第19回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第5回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その2)

後醍醐天皇の倒幕の企ても、1324年後宇多法皇の死をきっかけに大覚寺統の内紛によって大きく狂わされた。後宇多法皇は死のまじかに皇太子の邦良親王を呼び、後醍醐天皇の譲位後は邦良親王を即位させるよう指示したという。法皇の死後二か月して邦良親王の側近六条有忠は鎌倉に下り、邦良親王を即位させる幕府工作を行った。幕府の裁定によって皇位が決められる実勢である以上、後醍醐天皇の親政を中断させる最大の力は幕府にあった。南北朝の動乱は形の上では大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)との抗争であるが、そのきっかけとなった正中の変は、大覚寺統内部の後醍醐天皇派と邦良親王派との対立によって引き起こされた。法皇の死後三か月して後醍醐天皇の倒幕の企ては露見した。倒幕計画に加わった土岐頼員は六波羅の奉行斎藤利行の娘を妻としていたので、その線から倒幕計画が漏れたのである。日野資朝や俊基と共謀した土岐頼員は成功はおぼつかないと感じて六波羅奉行斎藤利行に倒幕計画を密告し、事は露見した。土岐頼員が同族の多治見国長から聞いた計画では1324年9月23日に騒乱を引き起こし六波羅を攻撃するというものであった。六波羅では多治見国長と土岐頼有を召喚したが、両人は応じず9月19日に六波羅の軍勢が攻めて合戦となった。両者は自害し、日野資朝や俊基は六波羅が逮捕された。こうして倒幕計画は頓挫し、後醍醐天皇側は無関係を主張するため万里小路宣房が特使となって鎌倉に弁明に向かった。使者と対応したのは内管領(北条得宗家の家老)である長崎高資であった。当時蝦夷で反乱が起き、管領安東氏一族の内紛がからんで、幕府は朝廷問題に余裕がなかったため、万里小路宣房の言い分を認め沙汰なしとした。日野資朝や俊基と祐雅法師を真相究明のため鎌倉へ移送した。「太平記」ではこの辺の事情をかなり物語化してフィクションとしている。同年11月「正中の変」の発覚後2か月して、金沢貞将が五千の大軍を率いて六波羅南探題に着任した。日野資朝は釈放されたが、日野俊基は佐渡流罪となった。そして8年後の1332年二度目の倒幕計画が露見した「元弘の変」に際して、日野資朝はは佐渡で処刑され、日野俊基は鎌倉で斬られた。皇太子邦良親王側は1324年2月、六条有忠を特使として再度鎌倉に送り、幕府が後醍醐天皇に譲位を迫るよう働きかけをおこなった。また後醍醐側も吉田定房を鎌倉に派遣して対幕府外交交渉を競った。ところが後醍醐天皇が譲位を渋って先延ばしにしている間に、病弱な皇太子邦良親王が死去した。今度は3人の皇太子候補問題でもめ、1326年幕府は後伏見上皇の量仁親王を皇太子に決定した。この裁定に怒った後醍醐側は倒幕の決意を固めたが、正中の変の失敗から行動はより慎重にかつ計画的に進められ、二度目の倒幕の企て(元弘の変)は5年後の1331年に後醍醐天皇が笠置山へ行幸するまで表面化しなかった。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿