ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月23日 | 書評
木枯らし風景 筑波山 

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第20回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第6回

2)鎌倉幕府討伐計画 (その3)

後伏見上皇の量仁親王が皇太子となったが、後醍醐天応は譲位に応じようとはしなかった。立太子から2年後1328年6月から後伏見上皇は日枝神社などに量仁皇太子の即位を願って願書を奉納した。後醍醐天皇の在位は10年が経過し、両統迭率の原則からして異様に長い在位になった。後伏見上皇は鎌倉幕府に後醍醐の譲位を要請する文書を送ったが幕府に取り上げられることは無かった。この時幕府内では北条得宗家と内管領長崎氏との対立のお家騒動で朝廷の後継者争いに関与する余裕はなかったと言える。このことは天皇の即位が鎌倉幕府の裁定によって決められるという現実を再認識させ、宋学の名分論を受容していた朝廷にとって倒幕の正統性に強く傾くことになった。1330年3月、後醍醐天皇は南都東大寺と興福寺に行幸し、同月比叡山延暦寺に行幸した。比叡山の大塔尊雲法親王、妙法院の尊澄法親王が大講堂の落慶法要を執り行った。二人とも天台座主となり、尊雲法親王(還俗して護良親王)と尊澄法親王(還俗して宗良親王)はやがて南朝方の軍事力の中核となった後醍醐天皇の皇子である。後醍醐は衆徒三千ともいわれる比叡山延暦寺に二人の皇子を送り込んだ。当然この南都と北都の法要は、東夷を征伐する謀と取られた。後醍醐の皇子静尊法親王は天台寺門派の聖護院門跡に入った。聖護院は天台系の修験山伏の本寺派であり、醍醐寺三宝院の当山派(醍醐寺の座主には後醍醐は全関白鷹司基忠の子聖尋を送りこんだ)の山伏と共に後醍醐天皇の倒幕に加担した。修験山伏は紀伊半島の山岳地帯を活動拠点としており、南朝勢力の拠点となった。山岳のゲリラ戦に強いのは言うまでもない。聖尋は真言宗の東寺長者になり東大寺別当を兼務し、笠置寺別当でもあったので、元弘の変では後醍醐方の避難先として、東大寺や笠置寺にかくまった。「増鏡」は正中の変以降、後醍醐天皇が中宮禮子の御産祈祷と称した幕府調伏の祈祷が行われたと記している。3年間も祈祷が繰り返されたことに幕府15代執権金沢貞顕が「不審」であると六波羅探題金沢貞将の手紙に記している。「太平記」第1巻では「関東調伏の法行われる事」と解釈している。「太平記」は後醍醐天皇は阿野廉子を寵愛し、中宮禮子には無視に近い冷たい態度で安産祈祷など行うはずがないとしている。後醍醐天皇自らが聖天供の修法を行ったとされる。後醍醐天皇の真言密教への傾倒は父御宇多上皇を習ったものである。聖天は密教の守護神でありヒンズー教に由来するセックスと王権の結合を自ら修法することの異形さ、怨敵降伏が目的であった点に執権金沢貞顕が不審を抱いたのである。この異形の王権という言うイメージが「妖僧文観」と結びつく。密教における秘事・秘法の伝授儀礼は院政以降社会慣習として公家社会に浸透していた。天皇の血脈は密教儀礼として「即位灌頂」とし手執り行われ、近世・近代の芸道の資格授与もこの灌頂儀礼に由来する。密教僧は朝廷生活で重用され、文観は後醍醐天皇の護持僧として近侍しあらゆる謀議に参画したようである。真言密教には山科の醍醐寺と勧修寺の小野流と、仁和寺を拠点とする広沢流があった。後宇多上皇は醍醐寺三宝院の憲淳より伝法灌頂を受け、憲淳の弟子道順からも受法した。道順は皇太子時代の後醍醐に印可を与えた。後醍醐天皇は真言密教の小野流・広沢流の流派を受法した。文観は1278年播磨国の生まれで、13歳で真言律宗の一乗寺で会得し奈良西大寺の信空から沙弥戒を受けた。1301年醍醐寺道順から灌頂を受けた。文観は真言僧でありながら、西大寺律僧を兼ねていた.

(つづく)