ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月05日 | 書評
ラン

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第2回

序(その2)

後醍醐天皇の「新政」については、「怪僧文観」を介した真言密教への傾倒や、楠正成や名和長利に代表される「悪党」的武士とのかかわりあいが指摘される。これを怪しげな加持祈祷師を師としたり、側近の日野資朝、日野歳基らを介した悪党的土豪層(楠正成、名和長利)を倒幕の軍事力に引き込んだという正規から外れた行動と理解する。しかしこれは鎌倉幕府側から見た源氏や平氏の名門御家人ではなく、想定外のゲリラ戦を得意とする豪族的悪党というとらえ方である。文観弘真は対立する宗教界勢力から見ると「妖僧」、「怪僧」と中傷されていたが、その実質は真言宗派の碩学と位置付けられる人である。後醍醐天皇の政治理念と真言密教の関係よりも、中国宋代儒教との結びつきの影響が大きい。儒教の経書の学識の自慢ばなしとして兼好法師は「徒然草」238段で堀川大納言が東宮(後醍醐天皇)より「紫に朱を奪うことを憎む」という説の本文を紹介してくれと頼まれたことを記している。そこで兼好法師は「論語」陽貨篇の「正名論」を教えたことを自慢げに書いている。「論語」の古注である皇侃の「論語義疏」第9巻に「朱色は正色であり、紫は間色」であるとし、周では朱色が正色であったが春秋戦国にいたって、武力で覇を奪い王道が衰えることを象徴した。これは後醍醐の皇太子時代に王道の復活にこだわって「論語」陽貨篇にその基を求めたと思われる。後醍醐天皇には「賢才」を見る評価と、行き過ぎた行動を非難する「物狂」という評価があることを述べた。この矛盾をはらんだ後醍醐像を正当に評価するには、南北朝の動乱の要因を13世紀後半の元寇から鎌倉末期にかけて日本社会に蓄積された様々な政治的経済的側面とそれに適切に対応できなかった鎌倉幕府の支配体制の構造的欠陥(戦役による御家人の疲労、貿易・市場経済の進展)があったであろう。そういう意味で後醍醐天皇の討幕の企ては時代の要請であったが、しかし倒幕で成立した政権の天皇親政政治(新たなる勅裁)はわずか2年半で崩壊し、後醍醐帝の天皇親政の政治と、北朝の持明院統天皇を担いだ武家政治の再興をもくろむ足利尊氏との抗争であった。この天皇親政と武家政権という問題は近代の江戸時代まで引き継がれた。その際に南朝の北畠親房の「神皇正統記」をはじめ、徳川時代の水戸藩の「大日本史」、そして明治時代において南北朝の正閏問題は最重要な論争点となった。それは近代欽定憲法において日本の国体論に引き継がれた。南北朝の動乱は1392年の南北和平を持っていったん終了するが、反室町幕府・反体制的な内乱的動きの中で大義名分として南朝を担ぎ出すことは15世紀後半の応仁の乱まで繰り返される。近世末期の明治維新において、「王政復古」は建武の中興の再現とイメージされた。近代の天皇制国家は、後醍醐天皇の天皇親政を参考イメージとして成立したのである。明治維新後の近代日本国家の出発点を呪縛したと言える。

(つづく)